3-6
店は定休日で、昨日よりもさらに静まり返っていた。
ホールには段ボールが積まれ、野菜と香辛料の匂いが微かに漂う。人の気配も、鍋の音もない——ただの、静かな厨房の匂い。
個室に通されると、レイは湯気の立つ私物のコーヒーを差し出した。
しばし無言のまま、カップを手に互いを見つめ合う。まだ何かが張り詰めている。
「レイ、急で悪い。ヤンヤンの件——まだ少し、時間がかかりそうだ」
「……いや、ありがとう」
レイは小さく首を振り、深く頭を下げた。
その表情に、焦りとも諦めともつかない色が滲む。
「私ひとりじゃ……きっと、あの子を守れないと思うから……」
「顔を上げて」
隣のエルの声が優しく響く。
レイは一瞬、はっとして顔を上げ、頬を赤らめた。その不器用な誠実さが胸に刺さる。
「仲間に、とある組織を調べさせてる。少し時間がかかるかもしれないけど、必ず真相は掴む」
私がそう言うと、レイは唇を噛み、視線を落とした。だが、すぐに決意をにじませた目でこちらを見る。
「……シルヴィアから聞いてると思うけど、しばらく、ここで暮らさせてもらってもいいか?」
その言葉に、レイの目が見開かれる。
「……それはむしろ有り難い。でも……二人ともいいのか?」
「もちろん。心配で放っておけない」
エルの微笑みは、どこか母性すら滲ませていた。
あのいつもの明るさに、いまは頼もしさが混じっている。
「ヤンヤンも、この店も、私たちが守る。絶対に」
言葉に決意を込めて伝える。レイは両目に涙を浮かべ、机に額がつきそうなほど頭を下げた。
「……この恩は一生忘れない。本当に……ありがとう……」
少し湿った空気を切るように、エルが話題を変える。
「ところで、ヤンヤンは? 姿が見えないけど」
「……上で勉強させてる。ここ最近は一人で外に出させてない」
その声には、言葉にしきれない痛みがにじんでいた。
きっとあの笑顔の下に、私たちがまだ見ぬ傷が山ほど隠れているのだろう。
レイが立ち上がり、わずかに微笑んだ。
「……案内するよ。空き部屋は一つしかないけど、二人で大丈夫か?」
エルと目が合う。すぐに彼女は笑って答えた。
「うん、大丈夫。ありがとう、レイ」
三人で階段を上がると、三階には生活感が滲む、けれど整った部屋があった。
荷物を置き、廊下へ出たその瞬間——目の前のドアが開いた。
「あれー? お二人さん、どうしたんすか?」
オーバーサイズのシャツにジュース缶を片手にしたヤンヤンが目を丸くして立っていた。
「しばらく、ここに住むことになった。……店を守るためにな」
すかさずエルが笑顔で続ける。
「よろしくね、ヤンヤン!」
そのまま勢いよく抱きついた。ヤンヤンは一瞬固まったあと、小さく笑った。
だが、その瞳の奥には、確かに安堵の色が見えた。
「今日からよろしくな」
私が手を差し出すと、ヤンヤンは戸惑いながらも、ぎこちなく握り返す。
「……はいっ! ありがとうございまっす! よろしくっす!」
その笑顔に、少しだけ救われる気がした。
けれど同時に、胸の奥ではずっと、微かなざわめきが止まらなかった。
「ヤンヤン、私、下で飯をつくるから、悪いけどゴミを出しておいてくれるか」
レイがそう言うと、エルが自然に応じる。
「うん。行こ、ミア!」
「はいっす! じゃあ、いきましょ!」
ヤンヤンとエルに手を引かれる。
この穏やかで、少しだけ明るくなった時間が、どうか続いてくれればと願った。
裏口に出ると、ヤンヤンが両手いっぱいのゴミ袋を抱えてこちらを振り返った。
「エルヴィラさんとミアさんが泊まってくれるなんて……心強いっす。それに、色々と仕事の話も聞かせてくださいね」
彼女の足元には、さらに二つ、大きな袋が転がっている。
私とエルも無言でゴミ袋を肩に担いで、ヤンヤンの後に続いた。
「もちろんだ。なぁ、エル。前にやったタンカーの仕事、話してみるか?」
「えー、あれ? タンカーに潜って紙一枚だけ回収して、帰りに間違われて追われたやつ? 正直、きついわりに地味なやつよ」
エルは苦笑しながらも、あの任務を思い出すように目を細める。
「いやいや、ヤバいっすって! めちゃくちゃ映画っすよ! かっこいいっすわ!」
ヤンヤンは目を輝かせて言い、無造作にゴミ小屋の扉を蹴って開けた——
その瞬間。
ぞわり。
背筋を氷の指で撫でられたような、冷たく、粘ついた感触が肌に這い上がってくる。
視線だ。どこか、どこかにいる。誰かが、こちらを見ている。
ねっとりと、執拗に。
背中に貼りついた冷気が、爪のように皮膚を引っかいていく。
すぐ隣でエルも気づいた。呼吸すら殺しながら、手が腰のホルスターへ滑る。
「……エル」
「……わからない。でも、いるわね」
振り返る。ヤンヤンも不意に気配を感じ取ったのか、目を丸くした。
だが——その“視線”は、霧が晴れるように、ふっと消えた。
空気は静かで、何もいない。なのに、鼓膜の奥にまで違和感が残っていた。
「……え? どうかしたんすか?」
ヤンヤンの無邪気な問いに、私は首を軽く振った。
「いや、なんでもないさ」
二人で小屋にゴミ袋を放り込む。
だが私の心臓は、さっきから小さく早鐘を打ち続けていた。
“視線”というには異質すぎる、粘つくような気配——まるでこちらの内側まで覗かれていたような。
「……さ、戻りましょ!」
ヤンヤンは笑って先に歩き出す。
まるで何もなかったように、足取りは軽い。
私とエルはその背中を追いながら、何度も後ろを振り返った。
冷たい風が髪を揺らす。
けれど、あれは風なんかじゃなかった。確かにあの瞬間、あの“目”は私たちを見ていた。
不安の棘が、胸の奥で静かに疼いている。
昼食の後も、麗軒飯店の休日は淡々と過ぎた。
掃除、洗濯、備品のチェック。
買い出しは私とレイが行った。あの“視線”は、もう感じなかった。だが、店の空気にはどこか、ピンと張り詰めた膜のような違和感が残っていた。
まるで世界そのものが、一歩引いてこちらを観察しているような——
夜、営業灯をすべて落とし、私とエルは三階の部屋に戻る。
広すぎるキングサイズのベッドが、妙に無言の圧を放っている。
この夜は交代で見張る予定だった。
部屋を出ようとするエルの腕を、私はそっと掴んだ。
「……気をつけろよ。あの視線、なかなかやる」
エルは頷きながらも、眉をひそめた。
「そうね……NOVAの動きなら、かなり上のクラスね。気を抜かないようにする」
張り詰めた沈黙が落ちた。その時、不意に着信音が鳴る。
表示された名前は——シルヴィア。
通信を繋ぐと、すぐに彼女の低い声が響いた。
『手短に説明するわ。ダリアから連絡があったの。貨物列車の特定まで、あと一歩。数日、踏ん張りなさい』
「……了解。こっちにも“やつら”が来てる。でも数日なら、私とエルで守りきれる」
エルも無言で頷いた。
『わかったわ。しっかりと気張りなさい。——終わったら、ちゃんと休暇をあげるからね』
プツン、と通信が切れる。
「休暇だってさ。終わったら旅行でも行くか?」
私の言葉に、エルがにっこりと笑った。けれど、その目の奥は静かに揺れていた。
「……楽しみだね、ミア。だけど……昨日もあまり寝てないでしょ。ちゃんと休んで。交代まで、しっかり」
レイやヤンヤンの前では元気に振る舞っていたエルの、その声は、どこかかすれていた。
「……わかった。そうする」
「うん……おやすみ、ミア」
そう言って、エルは足音を忍ばせるように、階段を下りていった。
――――――――――――――――――――
「……ごめんなさい。私がついていたのに……」
エルの声はかすれていた。
顔を沈め、拳を握りしめる彼女の隣で、レイの腕は痛々しい包帯に包まれていた。
「大丈夫、大したことないわ。でもよかった……怪我したのが、私で」
レイはそう言い、片腕でエルの肩を軽く叩くと、救急タンカに乗せられて救急車へと運ばれていった。
「……すぐ戻るから。ヤンヤンを頼むわ」
レイはそう残して病院に行った。
朝日が、粉々に割れたガラス越しに差し込んでいた。
舞い上がったホコリが光に染まって、幻のように揺れていた。
数分前、レイとエルは玄関前を掃き掃除していた。
そのとき、店の前に不自然に停車した車。
警戒する間もなく——
銃声。
一瞬にして世界が引き裂かれた。
砕ける窓。穿たれる壁。
そして——レイの身体が、血を滲ませながら倒れた。
エルは即座にレイを庇い、反撃した。だが車はすぐさま走り去っていった。
レイは肩と腕を撃ち抜かれた。命に別状はなかったが、しばらくは包丁も握れない。
麗軒飯店の営業再開は未定。
そして何より、ヤンヤンが——
「私のせいっす……。私がいるから、レイさんは……エルさんだって危なかった…」
三階のリビングで、ヤンヤンは膝を抱えていた。
声は震え、涙に濡れた目は真っ赤だった。
「……違う。ヤンヤンのせいじゃない」
私はホットミルクをそっと差し出した。
ヤンヤンの肩が、小さく震えている。
「レイは生きてる。一週間もすれば、ここに戻ってくるさ。……そんな顔して出迎えられたら、レイも落ち着かないだろ?」
ヤンヤンは言葉を返さない。ただ、黙ってうつむき続ける。
あの明るい笑顔の裏に隠していた“恐怖”が、今日の事件でついに溢れ出したのだろう。
今、ダリアも調査を続けてくれている。
あと少し。あと少しで、この恐怖から彼女を解放できる。……はずだ。
冷めたミルクがテーブルに置かれたまま、しんとした時間だけが流れていく。
やがて、エルが重い足取りでやってきた。
その顔には、疲労と苛立ちが混ざった翳りがあった。
「……ミア。これ、見て」
彼女の手には、黒い封筒。
見るからに不吉なその紙には、赤い切り傷のような異国文字が踊っていた。
「今朝はなかった。多分ね、襲撃の後に……投げ込まれた」
奴らは、確実にここを“見て”いる。
あの視線の正体が、ついに牙を剥いた。
「……本格的に来やがったな。エル、ここを離れるか? カジノの拠点か、自宅か……」
「無理よ。今はあそこも危険。強盗や殺人が多発してる。……うちの家も、ここと大差ない」
なら、ここが一番マシということか。
「……わかった。だったら、交代で見張ろう。二人なら何とかなる」
私はエルの顔をじっと見る。
目の下にクマができていた。肌も青白く、彼女らしくない。
彼女もヤンヤンと同じだ。自分を責めている。罪はないのに。
「……おい、エル。少し寝ろ。……顔、ひどいぞ」
私の言葉に、エルは口をへの字に曲げた。
「……ミア、ひどい。でも……ありがと」
昼食の時間に起こすと伝えると、エルは親指を立て、ふらりと部屋へ戻っていった。
夜になると店内には、重苦しい静寂が張り詰めていた。
私は銃を構えて、一階ホールに腰掛ける。
しばらくして、エルが階段を下りてきた。隣に座る。
暗がりの中、その顔ははっきりとは見えない。けれど、疲れ切っているのがわかる。
「眠れなかったのか?」
「うん……やっぱり、怖い。今朝のことが……どうしても」
表のガラスはまだ割れたままだ。朝の襲撃の痕跡が、いやでも視界に入る。
「……あぁ、そうだな。完全に、ヤンヤンを狙ってきてる」
「ダリアからの連絡もないし……今は待つしかない。怖いけど……それしかできない」
エルは目元を押さえ、深いため息を吐いた。
あの無敵の姉も、疲れている。
私だってそうだ。精神的にも、肉体的にも、そろそろ限界が近い。
「……大丈夫だ。必ず、シルヴィアから連絡が来る。ヤンヤンと、この店を守りきろう。何があってもな」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
そうでもしなきゃ、明日の朝日を迎えられる気がしなかった。
「……うん、そうだね。負けないよ、私たちは。ね、ミア」
エルは頬を軽く叩いて立ち上がると、店の外へと風を吸いに出ていった。
意識を見張りに切り替えた、その瞬間だった。
階段から、カタンと小さな物音が聞こえた。
すぐさま銃に手をかけ、足音を殺して向かう。
一歩、一歩。
ヤンヤンの可能性もあるが……今は油断できない。
階段の影を覗き込む。
壁にかけた絵が、風に揺れている——ように見えた。
二階へ進むと、窓のひとつがわずかに開いていた。冷たい風が吹き込んでいる。
一応、三階へと足を運ぶ。
……異常なし。
ヤンヤンは布団を被って眠っていた。
シャワールームも、ベランダも、物置も——何もない。
「……気が滅入ってるのかもな」
私はエルがいれてくれたコーヒーを啜る。
わずかに苦く、わずかにぬるい。
それでも、その温度だけが、確かに“現実”だった。
そして、ゆっくりと夜明けが近づいていく。
翌朝。
ホールの席で朝日を待っていた。
静かだった。あまりにも。昨日のような視線もない。ただ、空虚なほど平穏な夜が終わろうとしていた。
三階の廊下では、エルが見回りをしていた。万が一に備えて。
けれど、いつまで経ってもヤンヤンは姿を見せなかった。
エルが眉をひそめて振り返る。
「……様子を見てくる」
その直後。
「ミア――!!ヤンヤンが……いない!」
階段の奥から響く、エルの叫び。
椅子を倒して駆け上がる。
ドアを開けた瞬間、胸が締め付けられた。
ベッドの布団は、綺麗に畳まれていた。
まるで、最初から誰も寝ていなかったように。
そして、枕元には一通の手紙が残されていた。
「……この手紙が……!」
エルの声は震えていた。
私は紙を受け取ると、手が自然と強張った。読み進めるごとに胸が凍る。
『勝手な行動をしてごめんなさい。
ですが、これ以上迷惑をかけることはできません。私がいると皆さんまで危険を晒すことになるので出ていきます。
エルヴィラさんもミアさんも、本当にありがとうございました。今まで色々なお話が聞けて楽しかったです。実はお二人にずっと憧れていたんです。
レイさん、今まで店に置いてくれてありがとうございます。あの日、レイさんが拾ってくれたから今の私がいます。店で一緒に働くことができて、人生で一番楽しい時間でした。私なんかでも居場所ができた気がしました。そして、あの時のチャーハンは、一生忘れません。
長々と書きましてすいません。迷惑料として少しですがお金を置いていきます。
最後に、本当にありがとうございました。そしてごめんなさい。
探さないでください。』
手紙が、指の隙間から落ちる。
完全な……ミスだ。
敵の動きばかりに気を取られ、肝心の本人を――ヤンヤンの内側を、何一つ見ていなかった。
窓が、わずかに開いていた。鍵はかかっていない。
そのすぐ外には、電柱。
「……ここから飛び移ったのか」
身体能力が高かったんだな。
「ミア……探そう!まだ近くにいるかも!」
エルが言葉を振り絞るように叫ぶ。
「……ああ、レイとシルヴィアにも連絡する」
考えるな。今は動け。
すぐに通信端末を開き、レイ、シルヴィアに連絡を入れる。
レイは病院を飛び出して私達と合流した。
シルヴィアは部下を動かし、即座に捜索を開始。だが、ダリアとの連絡が取れないとのことだった。
私はエルと共に、街を駆け回った。
情報屋、場末のバー、クラブ、モーテル。片っ端から当たった。
いつもいるはずのマゼランも、今日は家を空けていた。
……時間がない。
ヤンヤンが“商品”として売られるまで、猶予はない。
レイの顔は青ざめていた。包帯の隙間から血が滲んでいた。それでも彼女は一言も弱音を吐かない。
だが、空気が重く沈んでいく。
このままでは、本当に――
そのとき。
着信音が鳴った。
見たことのない番号。
だが、どこかで聞き覚えのある気配。
エルと視線を交わして、私は応答する。
『おい、なぜすぐ出ない? まぁいい。貨物列車の件だが――』
「……お前、誰だ?」
『話を聞け。テイルダ号。十両編成の貨物列車。ポート・スパイア西駅を出発する。目的地は大陸反対側。半日で到達する』
……その声。
「……マゼランか。……どういう風の吹き回しだ?」
『シルヴィアに脅されてな。プロなら自力で突き止めろって煽られた。だから“現場”に出てる』
あの偏屈情報屋が、現場に?
それだけでこの件の異常さが知れる。
『後方から5両が“商品”の搬送スペースだ。……直前になって二人分、追加されてる』
私は息を止める。
「――特徴は?」
『一人は、細身で栗毛の少女。もう一人は、短髪の女。……NOVAの将校だとよ。帳簿にざっくりそう記されてた』
……ヤンヤンだ。もう一人は…ダリア?
「……助かった。金は後日渡す」
『いらねぇ。お前らのボスのクレーム処理ってことでチャラだ。……しばらく連絡してくんな』
怒気混じりにそう言い残して、通信は切れた。
私は深呼吸する。エルがすぐに察して口を開いた。
「……ミア、ヤンヤンが――?」
「ポート・スパイア西駅だ。奴らの列車に乗せられた」
エルの目が鋭く光る。
「行くしかないね」
「ああ。止める。絶対に、今度は間に合わせる」
二人で、すぐに走り出した。