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Blood Sisters  作者: ジョウ・アイダ
Chapter Three: A person
15/28

3-5

コンチネンタル・スタジアム。

この街に来たばかりの頃はレイダースの本拠地として賑わっていた。

しかし、老朽化と地盤沈下によって立入禁止となった球技場は、今や朽ちて夜風に晒されていた。

観客席のひび割れたコンクリート。

歪んだ柵にはツタが絡み、風が吹くたびに朽ちた木材とサビの臭いが鼻を刺す。

けれど、あのマゼランの部屋のような閉塞感はなかった。

ここには風があり、空がある。

一塁側、半ば崩れたベンチ席に、シルヴィアはひとり腰を下ろしていた。

夜の闇を見つめる横顔は、まるで何かを喪ったようにも、何かを待っているようにも見えた。

「シルヴィア……」

私たちが声をかけても、彼女は目線を動かさなかった。

「……見たわよ。全部」

わずかに息を吐くと、シルヴィアは受け取ったデータ端末を膝に置いたまま、重く呟いた。

指先でゆっくりスワイプしながら、一つひとつ、写真や記録に目を通していたのだろう。

彼女がため息をつくのを、初めて見た気がした。

「これなら……ゲストから、何か引き出せるかもね」

「えっ、ゲスト……誰?」

エルが周囲を見回す。月光に浮かぶ廃墟には、私たちの他に誰の姿もない。

「NOVAのお偉いさんよ」

その名を聞いた瞬間、私とエルの脳裏に、同じ女の姿が浮かんだ。

――ダリア。

しばらくして、背後の出入口からブーツの音が響く。

客席を警戒するように見渡しながら、ダリアが現れた。

スーツのボタンは一つも乱れていない。姿勢も完璧。

けれど、その動きにはどこか“緊張以上の何か”があった。

「大佐……お久しぶりです。それに……エルヴィラ、ミア、あの時はどうも」

直立不動の姿勢で、ぴしりと背筋を伸ばす。

完全な軍人の顔。だが、その声はわずかに硬く、喉の奥に怯えを含んでいた。

「……何度言えばいいのかしら。もう“大佐”はやめなさい」

そう言ったシルヴィアの声には、苦笑めいた響きがあった。

でも、視線は笑っていない。

顎をしゃくって隣の席を示すと、ダリアは少しだけ逡巡してから、腰を下ろした。

その瞬間、私は端末を取り出しかけたが――

シルヴィアの目が、それを制した。

動きを止めた私の膝に、エルの手がそっと置かれる。

小さく首を振る彼女の指が温かい。

月明かりが彼女の横顔を浮かび上がらせ、ひどく静かで、優しい空気が落ちてきた。

……今は、切りつける時じゃない。

その沈黙が教えてくれる。

「内密のご相談と伺いました。私にできることなら、何なりと」

ダリアが言う。スーツの胸に手を当て、模範通りの返答。

「NOVAは順調かしら?」

淡々とした問いに、ダリアは淀みなく答える。

「はい。詳細は機密のため伏せますが、作戦成功率は向上傾向にあります。ウイルス拡散事案への即応体制も構築され、各部隊の連携も良好です」

答えに嘘はなく、事実だけを述べている。整然とした様子で。

だが「本当に聞きたいこと」を聞いたら、その顔がどうなるのか少し気になった。

「そう。なら……あなた自身は、どう?」

声は柔らかい。でも、刃のように細く研ぎ澄まされていた。

その問いに、ダリアの肩がかすかに揺れた。

「私、ですか……? 多忙ではありますが、異動や昇進はなく……現状維持です。現場が好きですから。……こんな回答で、よろしかったでしょうか」

彼女の瞳がわずかに伏せられる。そこにあったのは、軍人ではない、“人間の顔”だった。

「ええ。十分よ」

シルヴィアは、ようやく笑った。だがそれは“慈悲”ではなかった。

むしろ――問い詰める前の“予告”のように見えた。

「ごめんね、ダリア。ここからは……遠慮なくいかせてもらうわ」

シルヴィアの声が、ひんやりと冷たくなる。

「NOVAが人身売買に関与していることは……知っているかしら?」

その瞬間。

ダリアの灰色の瞳が、ぎゅっと細まる。口元は動かない。だが、指先がほんのわずかに揺れた。背筋をまっすぐに保ちながら、肩の奥で震えが走る。

その間。ほんの数秒。

けれど、永遠よりも長く感じられた。

「……大佐……もう一度……お聞きしても、よろしいでしょうか……」

普段なら即答するはずのダリアが、言葉を探す。その姿は、自信ではなく、“信念”そのものが揺らいでいる証だった。

沈黙が夜気よりも冷たく張り詰める。

シルヴィアはその様子を、じっと見つめていた。目を細め、ほんのわずかに息を止めて。答弁を待つように。

――ダリアは、自分の正義を守り抜けるのか。

それを確かめるために、あえて冷酷に話す。

マゼランの情報、私とエルの記録、コンテナの証拠……そして、ヤンヤンの写真も。

シルヴィアの声には感情がない。冷静すぎるほど冷静な、それゆえに苛烈な言葉。

「どれも、フィクションじゃないのよ。あなたも、わかってるでしょう?」

まるで、刃のないナイフで静かに肌を裂かれるような声だった。

ダリアは俯いたまま、灰色の瞳を地面に落とす。硬く噛みしめた唇がわずかに白くなり、肩が静かに震える。

「……大佐……それは……私には、信じがたい……。NOVAが、そんな……」

その声には、信じたくないという思いと、どこか噂は知っていたような苦悶が滲んでいた。

――その背中は、あまりにも小さく見えた。かつて正義の名のもとに戦場に立った軍人が、今はただの一人の迷える人間になっていた。

「……それで、ダリア」

シルヴィアが囁く。柔らかいが、逃げ場のない問い。

「あなたは、この件に関与しているのかしら?」

静寂。風の音すら、遠ざかる。

ダリアはゆっくりと顔を上げた。

その瞳は赤く滲み、まっすぐにシルヴィアを睨みつけていた。

怒り。絶望。羞恥。抗えぬ現実と、壊れかけの自尊心が入り混じった、濁流のような瞳。

それでも、シルヴィアの声は冷ややかだった。

「……だとしても、私は驚かないわ」

そう言いながらも、彼女のまなざしにはわずかな震えがあった。

信じたい。あなたは正義を裏切っていないと。

シルヴィアはその一線を、ダリア自身に選ばせていた。

「軍の給与は、命を賭けるには安すぎるわ。退職金も微々たるものね。でも人買に加担すれば、生涯分を数年で稼げる。罪のない命を喰いつくせば……上からも下からも、金は湧く」

その言葉に、ダリアの肩がピクリと跳ねた。

「……大佐……やめてください……」

かすれた声。言葉の奥に、涙の気配が滲む。

指先が膝の上で強く握られ、爪が掌に食い込んでいた。

だが、シルヴィアは止まらない。

「“商品”は哀れなものよね、あの子たち……夢も、誇りも、身体も、大切な人も。すべてを奪われて、商品にされて、ただ来ない“自由”を待ちながら、壊れていく」

「……お願い……やめてください……」

ダリアの声が震える。涙が、今にも頬を伝いそうになる。

「それでも帰れると信じて耐えるのかしら? 救われると信じて。……あるいは、何も感じなくなるまで、心を殺して……生きながら死体になるのかしらね?」

「っ……!」

もはや彼女は言葉を返せない。

「……でも、そうやって……正義の味方を気取るんでしょうね?多少の悪事は必要悪だと。軍の秩序のため、治安の安定のため、NOVAのため……」

「そんな理由で……目を逸らすのよね、ダ・リ・ア」

「――やめろっ!!」

鋭く、乾いた叫びがスタジアムに響き渡った。

銃声のようなその声とともに、ダリアが立ち上がる。

銀のスライドが月光を反射する。

震える手で、彼女は拳銃をシルヴィアの額へと向けていた。


挿絵(By みてみん)


二人で即座に反応。

だが――

「待て」

シルヴィアが、静かに手を上げて二人を制した。

彼女は微動だにしない。

銃口を向けられても、顔を逸らさず、まっすぐにダリアの眼を見つめていた。

「……っ……」

ダリアの灰色の瞳は、怒りで赤く染まっている。

その奥から、止まらない涙が溢れ出す。

唇が震え、声にならない嗚咽が喉に絡まり、言葉が出ない。

――撃てば、すべて終わる。

でも、それを本能が拒んでいた。

胸に刻まれた忠誠と、微かな希望が、彼女の引き金を止めていた。

「……これ以上……私の魂を……汚さないでください」

「……たとえあなたでも……それは、許せません」

ようやく絞り出されたその言葉は、祈りのようで、呪いのようでもあった。

シルヴィアは、ただ静かに彼女を見つめていた。

一歩も退かず、瞳を逸らさず――

その眼の奥に、かすかな光が宿っていた。

この女は、まだ壊れていない。

夜風が、廃墟を渡り、四人の間を吹き抜けていった。

その風だけが、銃口の震えをそっと撫でていた。

けれど、その風が吹き抜けた瞬間。

わずかに、シルヴィアの口元が緩んだ。

「……ありがとう、ダリア」

その言葉は、銃口を向けられた直後のものとは思えないほど、静かで、優しかった。

目線はダリアではなく、夜の闇を見つめたまま。

「ごめんね、ダリア。NOVAが絡んでいる以上、あなたのことも疑わざるを得なかった」

頬に浮かんだ緩やかな表情は、期待と安堵の混じった、母性にも似たまなざしだった。

ダリアは――まだ、銃を構えたままだった。

だが、その手は震え、口元は言葉にならぬ呻きで動いていた。

「……私はね、あなたを試したの。あなたを愚弄する形で、はらわたを引きずり出すように……その方法が確実だからね」

それが自分のやり方なのだと、シルヴィアは静かに告げた。

ダリアは、かすれた声で呟く。

「……大佐……申し訳、ございません……つい、カッとなってしまって……」

その声は、銃を向けたことではなく、“信頼を裏切った”ことへの悔悟だった。拳を強く握りしめたまま、額を伏せ、銃をゆっくりと下ろす。

その震えが、心の痛みを明確に伝えていた。

シルヴィアはしばらく黙ったまま、ただそれを見ていた。

「気にしないで……とは言わないわ。あなたには、それは無理な話だから」

そう言ったシルヴィアの声は冷たい。だが、その目の奥には微かに光があった。ダリアという人間に対して、まだ信じている証のようなもの。

「はい……」

ダリアは背筋を伸ばし、涙の跡を隠すように顔を上げる。

「……この件、私の方でも内部調査を開始します。ですが……」

一度、言葉を飲み込む。

彼女の視線がわずかに揺れるのは当然だった。この問題の中枢はNOVAにあり――つまり、自分自身の足元でもあるからだ。

「……大佐が……この話を私に明かした理由は……何なのですか?」

その問いは、掠れていた。けれど、揺らぎと信頼を探るための問いでもあった。

シルヴィアは目を細めて、ゆっくりと返す。

「ええ。私の“庭”が荒らされているみたいなの。だから、徹底的に潰さないといけない、早急にね。だからあなたに言ったのよ。信頼ができるから」

声には、怒りも苛立ちもない。ただ、譲れないという覚悟だけが乗っていた。

「…そうですか」

ダリアは一瞬だけ目を伏せ、それから真っ直ぐ顔を上げた。

「……シルヴィア。情報、誠にありがとうございました。……エルヴィラ、ミアも助けられました」

少しだけ、声が震える。

でもその震えの奥には、確かな決意があった。

立ち上がったダリアの目は、まだ少し赤い。

けれど、その背筋は軍人としての気高さを失っていなかった。

「調査の結果は、追ってご連絡いたします」

そう言って、彼女は闇の中へと足を運んでいった。

かすかに残る涙の痕を、夜風がそっと乾かしていく。

「あれは、ひやひやしたよ……」

エルが椅子に崩れ込むように腰を下ろす。

膝の上で指を組み、しばらく遠くを見つめていた。

「……でも、あんな尋問、勉強にはなったね」

「確かに、シルヴィアに詰められるのはゴメンだな」

肩を落として呟く。

さっきの“ダリアの叫び”は、耳に焼きついて離れなかった。

「えぇ、私もね、心を痛めたのよ」

シルヴィアはぽつりと呟く。

「現状は変わらない。でも“確信”が“確実”になったわ」

目を閉じて、ゆっくりと腕を伸ばして聞いた。

「これからどうするの?」

「……NOVAの件は、ダリアの報告を待つ。あとは……」

二人で目を合わせる。

「ヤンヤンを守る。アイツら、あの子に異様な執着をしてる。そろそろ脅迫状じゃ済まないだろうな」

「うん。たぶん、そろそろ“回収”に動くと思う」

エルが拳を握る。

「じゃあ、任せるわ。レイには私が話を通しておく」

そう言ってシルヴィアが立ち上がり、崩れかけた通路へと歩き出す。

自然とその背中に続いて歩き出した。

ゼニス・スパイアの廃墟に、ふたたび夜風が吹く。

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