3-5
コンチネンタル・スタジアム。
この街に来たばかりの頃はレイダースの本拠地として賑わっていた。
しかし、老朽化と地盤沈下によって立入禁止となった球技場は、今や朽ちて夜風に晒されていた。
観客席のひび割れたコンクリート。
歪んだ柵にはツタが絡み、風が吹くたびに朽ちた木材とサビの臭いが鼻を刺す。
けれど、あのマゼランの部屋のような閉塞感はなかった。
ここには風があり、空がある。
一塁側、半ば崩れたベンチ席に、シルヴィアはひとり腰を下ろしていた。
夜の闇を見つめる横顔は、まるで何かを喪ったようにも、何かを待っているようにも見えた。
「シルヴィア……」
私たちが声をかけても、彼女は目線を動かさなかった。
「……見たわよ。全部」
わずかに息を吐くと、シルヴィアは受け取ったデータ端末を膝に置いたまま、重く呟いた。
指先でゆっくりスワイプしながら、一つひとつ、写真や記録に目を通していたのだろう。
彼女がため息をつくのを、初めて見た気がした。
「これなら……ゲストから、何か引き出せるかもね」
「えっ、ゲスト……誰?」
エルが周囲を見回す。月光に浮かぶ廃墟には、私たちの他に誰の姿もない。
「NOVAのお偉いさんよ」
その名を聞いた瞬間、私とエルの脳裏に、同じ女の姿が浮かんだ。
――ダリア。
しばらくして、背後の出入口からブーツの音が響く。
客席を警戒するように見渡しながら、ダリアが現れた。
スーツのボタンは一つも乱れていない。姿勢も完璧。
けれど、その動きにはどこか“緊張以上の何か”があった。
「大佐……お久しぶりです。それに……エルヴィラ、ミア、あの時はどうも」
直立不動の姿勢で、ぴしりと背筋を伸ばす。
完全な軍人の顔。だが、その声はわずかに硬く、喉の奥に怯えを含んでいた。
「……何度言えばいいのかしら。もう“大佐”はやめなさい」
そう言ったシルヴィアの声には、苦笑めいた響きがあった。
でも、視線は笑っていない。
顎をしゃくって隣の席を示すと、ダリアは少しだけ逡巡してから、腰を下ろした。
その瞬間、私は端末を取り出しかけたが――
シルヴィアの目が、それを制した。
動きを止めた私の膝に、エルの手がそっと置かれる。
小さく首を振る彼女の指が温かい。
月明かりが彼女の横顔を浮かび上がらせ、ひどく静かで、優しい空気が落ちてきた。
……今は、切りつける時じゃない。
その沈黙が教えてくれる。
「内密のご相談と伺いました。私にできることなら、何なりと」
ダリアが言う。スーツの胸に手を当て、模範通りの返答。
「NOVAは順調かしら?」
淡々とした問いに、ダリアは淀みなく答える。
「はい。詳細は機密のため伏せますが、作戦成功率は向上傾向にあります。ウイルス拡散事案への即応体制も構築され、各部隊の連携も良好です」
答えに嘘はなく、事実だけを述べている。整然とした様子で。
だが「本当に聞きたいこと」を聞いたら、その顔がどうなるのか少し気になった。
「そう。なら……あなた自身は、どう?」
声は柔らかい。でも、刃のように細く研ぎ澄まされていた。
その問いに、ダリアの肩がかすかに揺れた。
「私、ですか……? 多忙ではありますが、異動や昇進はなく……現状維持です。現場が好きですから。……こんな回答で、よろしかったでしょうか」
彼女の瞳がわずかに伏せられる。そこにあったのは、軍人ではない、“人間の顔”だった。
「ええ。十分よ」
シルヴィアは、ようやく笑った。だがそれは“慈悲”ではなかった。
むしろ――問い詰める前の“予告”のように見えた。
「ごめんね、ダリア。ここからは……遠慮なくいかせてもらうわ」
シルヴィアの声が、ひんやりと冷たくなる。
「NOVAが人身売買に関与していることは……知っているかしら?」
その瞬間。
ダリアの灰色の瞳が、ぎゅっと細まる。口元は動かない。だが、指先がほんのわずかに揺れた。背筋をまっすぐに保ちながら、肩の奥で震えが走る。
その間。ほんの数秒。
けれど、永遠よりも長く感じられた。
「……大佐……もう一度……お聞きしても、よろしいでしょうか……」
普段なら即答するはずのダリアが、言葉を探す。その姿は、自信ではなく、“信念”そのものが揺らいでいる証だった。
沈黙が夜気よりも冷たく張り詰める。
シルヴィアはその様子を、じっと見つめていた。目を細め、ほんのわずかに息を止めて。答弁を待つように。
――ダリアは、自分の正義を守り抜けるのか。
それを確かめるために、あえて冷酷に話す。
マゼランの情報、私とエルの記録、コンテナの証拠……そして、ヤンヤンの写真も。
シルヴィアの声には感情がない。冷静すぎるほど冷静な、それゆえに苛烈な言葉。
「どれも、フィクションじゃないのよ。あなたも、わかってるでしょう?」
まるで、刃のないナイフで静かに肌を裂かれるような声だった。
ダリアは俯いたまま、灰色の瞳を地面に落とす。硬く噛みしめた唇がわずかに白くなり、肩が静かに震える。
「……大佐……それは……私には、信じがたい……。NOVAが、そんな……」
その声には、信じたくないという思いと、どこか噂は知っていたような苦悶が滲んでいた。
――その背中は、あまりにも小さく見えた。かつて正義の名のもとに戦場に立った軍人が、今はただの一人の迷える人間になっていた。
「……それで、ダリア」
シルヴィアが囁く。柔らかいが、逃げ場のない問い。
「あなたは、この件に関与しているのかしら?」
静寂。風の音すら、遠ざかる。
ダリアはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は赤く滲み、まっすぐにシルヴィアを睨みつけていた。
怒り。絶望。羞恥。抗えぬ現実と、壊れかけの自尊心が入り混じった、濁流のような瞳。
それでも、シルヴィアの声は冷ややかだった。
「……だとしても、私は驚かないわ」
そう言いながらも、彼女のまなざしにはわずかな震えがあった。
信じたい。あなたは正義を裏切っていないと。
シルヴィアはその一線を、ダリア自身に選ばせていた。
「軍の給与は、命を賭けるには安すぎるわ。退職金も微々たるものね。でも人買に加担すれば、生涯分を数年で稼げる。罪のない命を喰いつくせば……上からも下からも、金は湧く」
その言葉に、ダリアの肩がピクリと跳ねた。
「……大佐……やめてください……」
かすれた声。言葉の奥に、涙の気配が滲む。
指先が膝の上で強く握られ、爪が掌に食い込んでいた。
だが、シルヴィアは止まらない。
「“商品”は哀れなものよね、あの子たち……夢も、誇りも、身体も、大切な人も。すべてを奪われて、商品にされて、ただ来ない“自由”を待ちながら、壊れていく」
「……お願い……やめてください……」
ダリアの声が震える。涙が、今にも頬を伝いそうになる。
「それでも帰れると信じて耐えるのかしら? 救われると信じて。……あるいは、何も感じなくなるまで、心を殺して……生きながら死体になるのかしらね?」
「っ……!」
もはや彼女は言葉を返せない。
「……でも、そうやって……正義の味方を気取るんでしょうね?多少の悪事は必要悪だと。軍の秩序のため、治安の安定のため、NOVAのため……」
「そんな理由で……目を逸らすのよね、ダ・リ・ア」
「――やめろっ!!」
鋭く、乾いた叫びがスタジアムに響き渡った。
銃声のようなその声とともに、ダリアが立ち上がる。
銀のスライドが月光を反射する。
震える手で、彼女は拳銃をシルヴィアの額へと向けていた。
二人で即座に反応。
だが――
「待て」
シルヴィアが、静かに手を上げて二人を制した。
彼女は微動だにしない。
銃口を向けられても、顔を逸らさず、まっすぐにダリアの眼を見つめていた。
「……っ……」
ダリアの灰色の瞳は、怒りで赤く染まっている。
その奥から、止まらない涙が溢れ出す。
唇が震え、声にならない嗚咽が喉に絡まり、言葉が出ない。
――撃てば、すべて終わる。
でも、それを本能が拒んでいた。
胸に刻まれた忠誠と、微かな希望が、彼女の引き金を止めていた。
「……これ以上……私の魂を……汚さないでください」
「……たとえあなたでも……それは、許せません」
ようやく絞り出されたその言葉は、祈りのようで、呪いのようでもあった。
シルヴィアは、ただ静かに彼女を見つめていた。
一歩も退かず、瞳を逸らさず――
その眼の奥に、かすかな光が宿っていた。
この女は、まだ壊れていない。
夜風が、廃墟を渡り、四人の間を吹き抜けていった。
その風だけが、銃口の震えをそっと撫でていた。
けれど、その風が吹き抜けた瞬間。
わずかに、シルヴィアの口元が緩んだ。
「……ありがとう、ダリア」
その言葉は、銃口を向けられた直後のものとは思えないほど、静かで、優しかった。
目線はダリアではなく、夜の闇を見つめたまま。
「ごめんね、ダリア。NOVAが絡んでいる以上、あなたのことも疑わざるを得なかった」
頬に浮かんだ緩やかな表情は、期待と安堵の混じった、母性にも似たまなざしだった。
ダリアは――まだ、銃を構えたままだった。
だが、その手は震え、口元は言葉にならぬ呻きで動いていた。
「……私はね、あなたを試したの。あなたを愚弄する形で、はらわたを引きずり出すように……その方法が確実だからね」
それが自分のやり方なのだと、シルヴィアは静かに告げた。
ダリアは、かすれた声で呟く。
「……大佐……申し訳、ございません……つい、カッとなってしまって……」
その声は、銃を向けたことではなく、“信頼を裏切った”ことへの悔悟だった。拳を強く握りしめたまま、額を伏せ、銃をゆっくりと下ろす。
その震えが、心の痛みを明確に伝えていた。
シルヴィアはしばらく黙ったまま、ただそれを見ていた。
「気にしないで……とは言わないわ。あなたには、それは無理な話だから」
そう言ったシルヴィアの声は冷たい。だが、その目の奥には微かに光があった。ダリアという人間に対して、まだ信じている証のようなもの。
「はい……」
ダリアは背筋を伸ばし、涙の跡を隠すように顔を上げる。
「……この件、私の方でも内部調査を開始します。ですが……」
一度、言葉を飲み込む。
彼女の視線がわずかに揺れるのは当然だった。この問題の中枢はNOVAにあり――つまり、自分自身の足元でもあるからだ。
「……大佐が……この話を私に明かした理由は……何なのですか?」
その問いは、掠れていた。けれど、揺らぎと信頼を探るための問いでもあった。
シルヴィアは目を細めて、ゆっくりと返す。
「ええ。私の“庭”が荒らされているみたいなの。だから、徹底的に潰さないといけない、早急にね。だからあなたに言ったのよ。信頼ができるから」
声には、怒りも苛立ちもない。ただ、譲れないという覚悟だけが乗っていた。
「…そうですか」
ダリアは一瞬だけ目を伏せ、それから真っ直ぐ顔を上げた。
「……シルヴィア。情報、誠にありがとうございました。……エルヴィラ、ミアも助けられました」
少しだけ、声が震える。
でもその震えの奥には、確かな決意があった。
立ち上がったダリアの目は、まだ少し赤い。
けれど、その背筋は軍人としての気高さを失っていなかった。
「調査の結果は、追ってご連絡いたします」
そう言って、彼女は闇の中へと足を運んでいった。
かすかに残る涙の痕を、夜風がそっと乾かしていく。
「あれは、ひやひやしたよ……」
エルが椅子に崩れ込むように腰を下ろす。
膝の上で指を組み、しばらく遠くを見つめていた。
「……でも、あんな尋問、勉強にはなったね」
「確かに、シルヴィアに詰められるのはゴメンだな」
肩を落として呟く。
さっきの“ダリアの叫び”は、耳に焼きついて離れなかった。
「えぇ、私もね、心を痛めたのよ」
シルヴィアはぽつりと呟く。
「現状は変わらない。でも“確信”が“確実”になったわ」
目を閉じて、ゆっくりと腕を伸ばして聞いた。
「これからどうするの?」
「……NOVAの件は、ダリアの報告を待つ。あとは……」
二人で目を合わせる。
「ヤンヤンを守る。アイツら、あの子に異様な執着をしてる。そろそろ脅迫状じゃ済まないだろうな」
「うん。たぶん、そろそろ“回収”に動くと思う」
エルが拳を握る。
「じゃあ、任せるわ。レイには私が話を通しておく」
そう言ってシルヴィアが立ち上がり、崩れかけた通路へと歩き出す。
自然とその背中に続いて歩き出した。
ゼニス・スパイアの廃墟に、ふたたび夜風が吹く。