3-4
暗闇にうごめくのは、ただの物流用コンテナ……そう見えるものばかり。だが、あの“声なき叫び”を聞いたあとでは、すべてが意味を帯びて見える。
視線を滑らせ、列をひとつずつ検分していく。
そのとき、風の向きが変わった。
腐鉄と血の混じった臭い――古傷のような匂い。
小さなトレーラーに繋がれたコンテナ。周囲の他と違い、それは周囲の物資で“囲い隠す”ように配置されていた。
隠されているというより、封印されているようだった。
私は静かに、扉へ手をかける。
……ギィ、とわずかに開いた瞬間、内部から息を呑むような匂いが漏れ出た。
乾いた血と、焦げた鉄と、消毒液と、汗と、恐怖。
「……ここだ」
狭く、窓のない空間。壁は厚いコンクリートで覆われ、まるで“個室監房”のようだ。
正面の壁には、手錠の付いた金属椅子。床には微かに傾斜がつき、血痕が排水口へと集まるように設計されている。
血は、もう乾いていた。だが、その色と形は、確実に「誰か」がここで何度も傷つけられた証だった。
天井にはパイプ。監視カメラに向けて設置されており、ガスや液体の噴出機構がある。
制御と記録の両立。見世物にも、処罰にも使われた空間。
そして。
――壁に、血で書かれた文字。
震えるような手跡で、何かを訴えるように、何かを呪うように、誰かが最後にここに「存在した」証を刻んでいた。
写真を撮りデータをエルとシルヴィアに送る。
「……当たりだな」
思わずそう呟いたその瞬間、通信が入った。
『ミア……いいかしら』
エルの声だった。
だが、いつもの呑気さは消えていた。張り詰めた音色。怒りと、焦り。そして――深い悲しみ。
「いいよ。どうした?」
『記録はいっぱい見つかったわ。文書も映像も。もちろんヤンヤンのも……酷いよ、これ』
数秒の沈黙。
その重みに、この空間で見たもの全てを重ね合わせる。
「……とにかく脱出だ。エル、気をつけて」
言いかけた瞬間、通信が弾けるように割れた。
『――ミア!入口から三人来る!逃げて!』
世界が急に“現実”へ引き戻される。
私の身が即座にコンテナの陰に沈み込む。反射的だった。訓練でも教えられない“本能”が、背中に何かを感じ取っていた。
三人。多すぎる。
ただの巡回ではない。
『裏からも二人来た。こっちも人が来たから、撤退するわ。……天窓があるけど、そこからいける?』
間の悪いタイミングに、奥歯を食いしばる。
「……うん、大丈夫。第三埠頭で落ち合おう」
この言葉だけで、すべての意志を伝えた。
声が震える前に、私は通信を切った。
冷たい空気が喉を満たす。心臓の鼓動が首筋まで響いている。
じわじわと近づく足音。
複数の足音の密度。呼吸。手元の無線。
これは偶然の巡回ではない。探している。
顔をそっと上げる。上部に梁。古い鉄骨が、照明の影にうっすらと浮かんでいる。
あそこまで登れれば、死角を抜けて脱出できる。
「……あそこ、だけか」
自分に言い聞かせるように呟き、コンテナの支柱を蹴った。
金属が軋む前に、身体を引き上げる。
鉄骨の梁へと跳び、指先を滑らせるように掴む。
呼吸が荒くなるのを抑え、心拍を鎮める。
もう一段、高く――天窓が、そこにあった。
手をかける。
……音を立てないように。視線を感じないように。
一度だけ、深呼吸。
そして、静かに、この地獄から空へ抜け出した。
――――――――――――――――――――
濡れたジャケットが冷たい風に煽られる。
剥き出しの肌に夜気が突き刺さるたび、全身がわずかに震える。
足元の水たまりが、街灯の光を曇った銀に歪ませていた。
そのとき——
足音が、静かに近づく。
振り返ると、エルが走ってきた。
影から飛び出した彼女は何も言わず、私を一瞥し、そのまま自分のレザージャケットを肩にかけてくれた。
濡れた身体を包んだのは、革の質感と、エルの匂い。そして、温かさだった。
その温もりが、寒さに痺れた神経の奥まで、じわりと染みこんでいく。
「……ありがと」
そう呟くと、エルは小さく頷いて、何も言わずに端末を差し出した。
繋がれた端末が、映像を映す。
映し出されたのは、“商品”として撮影された人々の写真群。
顔。全身。複数アングル。無理に作られた笑顔と共に、体に刻まれた痕と、首輪と、両手に持った情報プレート。
身長、体重、年齢、性癖適応、状態、希望価格——。
そしてその中に、ヤンヤンがいた。
腫れた目。青黒いアザ。古傷の上にまた重なったような裂傷。
笑顔なのに、目は死んでいた。
プレートには“売約済”、そして――三年前の日付で《脱走》。
そして最近のコメントで《捕獲予定》と追記されている。
私は端末を静かに閉じた。
その重さが、手の中で刃物のように冷たかった。
「こっちも……見た。あのコンテナ、中は“荷物用”じゃない。“人間用”だった。……クロだ」
エルは写真を一目見るなり、顔をしかめて、まるで拒絶するように視線を逸らした。
端末を閉じる仕草が、まるで誰かの首を絞めるように強かった。
「……覚悟はしてたけど、やっぱり……酷い。途中で吐きそうになっちゃった」
その言葉に、私は返す言葉を失った。
顔を伏せた私の横で、エルが小さく唇を震わせる。
声には出さなくても、その揺らぎは痛いほど伝わった。
彼女はいつだって強がる。でも、今は違った。
「ねぇ、ミア……もし、もし私たちがああやって“売られた”ら、って考えたことある?」
その声は、風に千切れそうなくらい細く、震えていた。
「大切な人と引き裂かれて、知らない誰かに買われて、毎日、酷いことをされて……死ぬまで逃げられないの。私は……そんなの、考えただけでダメになりそう」
あぁ、思ってるのはヤンヤンのことだ。
あの小さな背中に、どれだけの地獄がのしかかっていたのか。
それでも笑って、前を向いてる。大人みたいに。
「……あぁ。私も、ダメになると思う。……だから」
私はエルの手を握った。
冷たさを包むように。けれど、その奥に熱をこめて。絶対に離さないと伝えるために。
エルが驚いたように私を見る。
そして、ゆっくりと、いつもの笑顔になった。
でもその目の奥には、割れもののように繊細な光が揺れていた。
「……ミア、ありがと」
彼女の手は、強く握り返してくると思った。
でも違った。優しく、包むように。
私も、その手にそっと、指を重ねる。
――そのとき。
端末が震えた。
突如、現実が割り込んでくる。
ディスプレイには、シルヴィアの名。
「……!」
私は即座に受信した。スピーカー越しに、落ち着きのない声が響く。
『二人とも一緒かしら?』
声は沈着だが、どこか急いている。
「うん、いるよ。見た?データ」
エルが即座に応答する。
『今すぐ“コンチネンタル・スタジアム”へ来なさい』
短く、命令のように言い放つと、通信は一方的に切れた。
私たちは顔を見合わせた。
「……シルヴィアどうしたのかな、スタジアムなんて」
「わからん。今はとにかく行くしかない」
私は立ち上がる。革ジャケットの裾を翻しながら、ゼニス・スパイアの中心部へと視線を向けた。
あの光の奥に、また新しい闇が待っている気がした。
それでも——
エルと一緒なら、踏み込める。