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Blood Sisters  作者: ジョウ・アイダ
Chapter Three: A person
12/30

3-2

私たちの問いは、シルヴィアにとってかなり意外だったようだった。

「人買? そんな話、私の耳には入ってこないわ。……かわいい少年でも欲しいの?」

シルヴィアは執務机に目を落としたまま、ワイングラスの縁をなぞっている。

口元は笑っているのに、視線だけは氷のように冷たかった。

「違う。レイの店が脅されてる。ヤンヤンの件でな。嫌がらせ、客のデマ、掲示板……いろいろ撒かれてる」

「……そう。気の毒ね」

書類をそっと机に伏せると、猫のように背筋を伸ばし、唇から長く息を吐いた。

思案の合図だ。

「心当たりを一掃しようかしら。見せしめも兼ねてね」

「……それ、やりすぎじゃない?」

すかさずエルが割って入る。

冗談だと思いたいが、シルヴィアの“冗談”は時々実行される。

「冗談よ。でも妙ね。私の耳に届かないなんて。よほど上手くやってるか、よほど深く潜ってる」

再び書類に目を落とし、流れるようにペンを走らせ始める。

もう会話は終わりとでも言うように、事務的に。

「困ったら、また来なさい。あの店は……私にとっても、特別だから」

あの店の味は、シルヴィアにとっても思い出の一部なのだろう。

でも彼女は、力でしか守れない。だから、手綱を私たちに託した。

それに今の彼女は忙殺されていた。

カジノの強盗未遂、従業員の不審死、武器の密輸品。そして、ヴォルフ・プラトフの奇妙な動き。

イリーナがNOVAの荷物を狙っている理由を追っているらしいが、それも容易にたどり着ける真実ではない。

だから、彼女は一言だけ言った。

「……マゼランに聞きなさい」

その名前を聞いた瞬間、エルの顔がわずかに引きつった。

が、私たちに他の当てもない。とりあえず情報屋たちを片っ端から当たってみた。

だが――成果はゼロだった。

「どこぞのカジノに女優が来てた」とか、「某レストランの裏メニューは薬物入り」だとか。

陰謀論と酒の肴みたいな話ばかり。

誰も、人買いや誘拐の話には触れようとしない。

むしろ、麗軒飯店への悪質なデマがさらに増えていた。

“食べたら耳から血が出る”とか、“薬物で廃人になる”とか。ふざけすぎて笑える話だが、被害は現実だ。

エルが運転席でハンドルに顔を埋め、低く呻いた。

「うーん……思った以上に、わかんないもんだねー……」

黒革のシートに身を沈めていても、気休めにならない。

走れば気持ちよくなるはずのスポーツカーも、今は金属の棺に思えた。

「……あとは、アイツしかいない」

私が呟くと、エルが反射的に顔を上げ、肘がハンドルに当たってクラクションが間抜けに鳴った。

甲高い音が、夜の街に跳ね返り、一羽の鳥が電柱から飛び立つ。

「えぇ……アイツ……?」

エルは眉を寄せ、シートに頭を打ちつけるように前かがみになる。

「銭ゲバで、不潔で、気持ち悪くて、息が臭い……最悪だよ……あの男……」

ぶつぶつと文句を呟きながら、諦めたようにエンジンをかける。

「……でも、アイツが一番知ってる」

重く頷いた私の言葉に、エルの顔はますます渋くなった。

バックミラーには、明確に「最悪」と書かれた表情が映っていた。

《マゼラン》――ゼニス・スパイア一の情報屋。

この街がもっと血と汚泥にまみれていた頃、彼はすでにそこにいた。

元・某国の諜報員という噂もあるが、誰も真相は知らない。

ただ一つ確かなのは――

マゼランは、命をデータで計る人間だということ。

シルヴィアですら、「情報の質は認めるが、出向きたくはない」と顔をしかめていた。

「……行くよ、分かったよ」

エルが低く、不機嫌さを隠さずに吐き捨てる。

アクセルが唸りを上げ、スポーツカーはマゼランの巣窟へ向かって、夜の街を滑っていった。

情報は、命より重い。いや、時には命そのものだ。

マゼランの“巣”は、ゼニス・スパイア北東部にある廃マンションの最上階。

外観はただのゴミ溜め同然――だが中に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

薄暗い通路、明滅する裸電球。

壁には茶褐色の染みが無数に広がり、ベタつく床には何がこぼれているのか分からない。

雑に這わせた電線が絡まり、機械の熱とカビ、そして生き物の腐臭が混ざり合って、肺を焼く。

そして――扉を開けた瞬間。

「……うっ」

エルが鼻を押さえる。

目の前に広がっていたのは、“情報の沼”と呼ぶにもおぞましすぎる空間だった。

壁一面のモニターが明滅し、視線を刺してくる。

足元には腐った段ボールと、潰れたピザ箱。無数の空き缶、カップ麺、ビニール袋。

酸化した油、焦げた煙草、甘ったるい電子タバコ、生ゴミの腐臭……空調が異様なほど効いているせいで、それが部屋中に循環していた。

天井から垂れ下がる配線は、まるで血管。そこに群がる蠅が静電気に焼かれては、また羽音を響かせる。

その中心に――いた。

マゼラン。

白シャツは脂で灰色に変色し、無数のシミと食べこぼしが模様のように染み込んでいる。

ズボンの裾はカビで黒ずみ、後頭部に束ねた髪は油で固まり、そこにも埃が積もっていた。

まるで、部屋そのものがマゼランの身体の延長だった。

その横を、異様なものが練り歩く。

――アンドロイド。

それも全員、ほとんど下着同然の格好。光沢のある人工皮膚が照明を鈍く弾いている。

彼女たちは時折マゼランに身体を擦り寄せ、プログラムされた笑顔で媚びる。

「……くっ……」

エルが目を逸らす。気の毒そうに、肩をすくめた。主人を選べない存在への憐れみだった。

「人買?知らん」

マゼランはモニターから一度も視線を動かさない。

脂ぎった指でキーボードを叩き続けながら、投げ捨てるように答えた。

「…だが…これを見ろ」

彼の指示と同時に、壁のモニターが一斉に切り替わる。

映し出されたのは、ゼニス・スパイア湾岸地帯の古い倉庫群だった。

「港の中でも特に使われてないエリアだ。所有はNOVA。普段は兵装の保管庫……だが、数年前から"特別な荷物"の搬入が増えた」

「……特別な?」

舌打ちが返ってきた。

「黙って聞け」

ネグリジェ姿のアンドロイドがマゼランの背後から抱きつく。

だが彼は無視し、ただモニターを操作し続けた。

「これは倉庫の前責任者。コイツの時期に、"特別な荷物"の数が急増した。が、ある日突然国外転属、数日後に事故死」

画面が切り替わり、今の責任者の顔が映し出される。

「こいつの管理下で一度は止まったが、三年前からまた増え始めた」

三年前――ヤンヤンが逃げてきた時期と重なる。

「その荷物は防音・空調・排水完備の特注コンテナで運ばれた。外見は一般コンテナと同じだが、仕様が違う」

「行き先は?」

「不明。輸送手段不明だが電車だろうな。だが降ろされる場所は駅ですらない。……空のコンテナだけは戻ってくる。つい三日前にも一つな」

……"特別な荷物"は、どこかへ運ばれ、そこで消える。

それは“人間”なのか、それとも――

マゼランがぬるりと笑い、飲みかけのコーラ缶を床へ投げた。

ゴトン、という音と共に、部屋の片隅で缶の山が崩れ、発酵したような甘い悪臭がさらに漂ってくる。

「今わかるのは、ここまで。金を、アレに渡せ」

アンドロイドの一体がすっと前に出てきて、無言で手を差し出した。

“金の受け渡しすら人間とはしない”――それがこの男の流儀なのだ。

分厚い封筒を手に握らせると、彼女はニコリと笑って後ろに下がる。

「……助かった」

マゼランは一言も返さず、再びキーボードへ没頭する。

部屋の空気は、外界と完全に遮断された沼地だった。

私たちは、逃げるように廊下へ飛び出した。

扉を閉めた瞬間――

「……はぁぁぁっっ、生き返ったぁ……!」

エルが路地の隅で空を仰ぎ、肺いっぱいに空気を吸い込む。

頬に涙、髪には異臭が染みついていた。

「ミア、マジで平気なの? あんな部屋、絶対ヤバいって……!」

「……仕事で慣れた。できれば、慣れたくなかったけど」

嫌悪と吐き気の渦の中で、それでも私は冷静を保つしかなかった。

だが、頭の中で――

“NOVA”、“倉庫”、“コンテナ”、“特別な荷物”――

点と点が、わずかに線を成し始めていた。

「……NOVAが本当に関係してるのかな。シルヴィアに知らせる?」

エルの声が低くなる。私は短く答えた。

「……調べる価値はある。シルヴィアには事後連絡するさ」

心の奥で、ダリアの顔が浮かぶ。

NOVAの軍人、シルヴィアが一目置いたあの女。あの鋭い眼差しは、何を知っていたのか。

彼女が関与しているのか、それとも――知らされていないのか。

「……次は、港だ」

端末を仕舞ってハンドルに手をかけた。

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