3-1
イラストは随時追加いたします。
今現在、以下の話に挿絵がある状態です。
・プロローグ
・1-1(この話だけ2枚あります)
・1-2
・1-3
・1-5
・2-1
・2-3
・2-4
・3-1
・3-3
「ねぇ、すごくない?これ!」
助手席でエルヴィラがはしゃぐ声が、エンジン音を割って響いた。
子供みたいな無邪気な笑い――だが、私はハンドルを握ったまま目を細める。
……たしかに、いい車だ。
トラクションは申し分なく、路面を掴む感触が足裏からダイレクトに伝わる。
サスペンションは硬めだが、ロールは皆無。
踏み込むたびに鋭く吸気音が立ち、シフトチェンジごとにマフラーが炸裂するような音を吐く。
身体ごと押し出されるような加速感。それも滑らかだ。
整備も完璧。
持ち主の性格は歪んでいても、整備には一分の狂いもない。
……まったく、ゾラの野郎、車のセンスだけはまともだったらしい。
「病院にこれで来たとき、目疑ったよ」
エルがアンプを弄りながら笑う。
「シルヴィアからのプレゼントよ。ミアにピッタリだって」
「シバいてこいって意味かもな」
その後部座席に仕込まれていた巨大なウーファーが、低音を吐き出す。
車内が軽く震え、背筋にズンと響く。
「ボンボン鳴るじゃん!クラブみたい!」
嬉々としてボリュームを最大まで回したエル。
その瞬間、背中を蹴られたような衝撃が車内を突き抜けた。
「……え?」
全てが宙を舞う。紙袋、空のペットボトル、後部のジャケット。
次の瞬間、ネットが破ける。その穴から黒煙上がり、焦げ臭い匂いが車内を満たした。
「……壊れたね。スピーカーは」
エルの膝にティッシュの箱が落ちていた。たぶん後ろから飛んできたやつだ。
私は片手で窓を開けた。
熱い排気と砂塵が、焦げた空気を押し流していく。
「……昼でも食いに行こうぜ。病院のオートミールがまだ口に残ってる」
「んー、じゃあダイナー?」
「いや、チキンとヌードルの気分なんだ。口がもう決めてる」
エルは一瞬で理解して微笑んだ。
フリーウェイを降りて、やがてダウンタウンの外れに差しかかる。
古びた商業ビルの一階――
黒地に金文字の看板《麗軒飯店》が、強い陽光に鈍く光っていた。
エルが車を停め、ドアを勢いよく開ける。
「……あれ? 今日って定休日だっけ?」
違和感。
メニュー看板は出ているし、赤い提灯も揺れている。店内の照明も全灯。
……なのに、客の姿がない。
ここはゼニス・スパイアでも指折りの名店のはずだ。昼時に空いているなんて。
「やあ、エルヴィラにミア。…久しぶりだな」
奥の厨房から、聞き覚えのある声が響く。
「レイ! ひさしぶり~! ミアが退院したんでお祝いに来たの!」
「そうか、確かに少し痩せたな。……精のつくもん、作ってやる。待ってろ」
レイはエプロン姿のまま厨房に戻っていく。
横顔はいつもより痩けて見えた。目の下にくま。髪もぼさついている。
鍋が鳴る。包丁が刻む。厨房の音が空しいほど響く。
「……どうかしてるな。いつもならこの時間、満席のはずだろ」
私は奥まで空いた丸テーブルを見渡す。
冷房は効いているのに、空気が妙に生ぬるく感じた。
「レイ、疲れてそうだったよね。……ヤンヤン、今日は店にいないのかな」
――もしあの子がいたら。
“マフィアと戦う危険な仕事、めちゃくちゃかっこいいっすわ~!”
銃片手に話しかけてきて、仕事の話を根掘り葉掘り聞きたがるだろう。
メニューも見ずに、ニコニコしながら。
けれど今日は――誰もいない。
静まり返った麗軒飯店のテーブルに、私とエルだけがぽつんと座っていた。
やがてレイが厨房から戻ってきた。
手にした大皿には、濃い醤油ダレをまとった《ドラゴン・チャウメン》、そして、見慣れた甘辛いタレを纏った《ジェネラル・ソース・チキン》。
チャウメンは、太麺に山椒の辛味が絡みつく名物料理だ。皿の縁に焼き付いた焦がしネギの香ばしさが、すでに食欲を刺激する。
チキンは油を滴らせながら、カリカリの衣の下から湯気を立ちのぼらせていた。
そして、食べきれぬほどの料理が次々とやってくる。
《ヤンヤン・エッグロール》《スパイシー・フライドライス》《麗軒式オレンジチキン》――。
「今日はヤンヤン、休みなの?」
エルが、揚げたてのエッグロールを頬張りながら訊ねた。
衣が軽く弾け、香ばしい湯気が立つ。ヤンヤンが考案した逸品だ。
「……まぁ、そんなとこだな。体調不良で、上で休んでる」
レイの視線は、どこか宙を彷徨っていた。歯切れも悪い。
明らかに、何かを隠している。
「なぁ、レイ。どうした。店も、あんたも……いつもと違う」
私が問うと、レイの表情が一瞬だけ引き締まる。
そして、目の奥にあるものを見透かされたように、観念したようにポケットへ手を伸ばした。
「……実はな。ちょっと、厄介なもんが届いてる」
「手伝うよ〜!」
エルは、あっけらかんと笑ってメニューを捲っている。
どうやら、春巻とエビチリで悩んでいるらしい。
レイはため息を吐き、ポケットから封筒を取り出した。
黒。ざらついた厚紙。そこには、赤インクで荒々しい筆致の異国の文字。
「……何て書いてあるの?」
読めない。だが、紙から立ちのぼるような――暴力的な気配。
文字そのものが、刃物のように鋭く、刺してくる。
「“小娘を返せ。さもなくば、この店ごと燃やす”……そう書いてある」
レイが、もう一枚の紙を差し出した。ネット掲示板の書き込みを印刷したものだった。
“この店の肉は病気持ち”“食べたら死ぬ”“薬が混ざってる”――
下品で、無責任な罵詈雑言。
それがスクリーンの向こうではなく、現実を蝕んでいた。
「これのせいで客足が引き始めてな。仕入れ先も何件か逃げた。ヤンヤンは戸籍もないし、警察に言ったらどんな目にあうか…」
レイの声には怒りよりも、疲れが滲んでいた。
「……最低。完全に脅迫じゃん!」
エルがテーブルを叩いた。焼売の皿が揺れ、少しだけタレがこぼれた。
「ヤンヤンは……このこと、知ってるのか?」
「……ああ。隠すつもりだったが、見つかっちまった。相当、怯えてる」
レイは、視線を落としたまま話し続けた。
「ヤンヤンは、最初ここに来た時から、外を歩くことすら怖がってた。誰も信じられない子だった。だが、少しずつ笑うようになって……やっと、あいつ自身の居場所になったんだ。俺は――もう、あいつを怯えさせたくない」
その背中は、どこか――親のようだった。
ただの料理人が、銃を持たずに守ろうとしている。
言葉にせずとも、それは戦いだった。
階段の上から、足音が一つ。
「レイさーん……手伝いますっすか……」
ヤンヤンが現れた。
だが、その顔には、いつもの活気がなかった。
クマができた目元。猫背気味の肩。
元気な挨拶も、どこか声がくぐもっている。
「……お二人さん。お久しぶりっす」
無理やり笑みを作って、近づいてくる。
「……ヤンヤン、今日は寝てな。上で休め」
レイの声は、穏やかで、揺るがなかった。
ヤンヤンは唇を噛みしめて、挨拶だけ済ませると、振り返って階段を上っていった。
一瞬、名残惜しそうに私たちを振り返ったが――その目は、誰かに怯える動物のように曇っていた。
「ミア。やるしかないね。あと、レイ! 麗軒式オレンジチキン、もう一皿!」
エルの目が、闇に光る獣のように鋭く光っている。
私は、それに頷く。
「……ああ。必ず潰す。ドラゴン・チャウメンも、大盛りで頼む」
レイは一度だけ、唇を強く噛みしめると、厨房へ戻っていった。
袖口で目元を拭いながら。
あの背中には、ナイフも銃もない。
けれど、守ろうとする意思が、確かに刻まれていた。
汚すやつを、黙って見ているわけにはいかない。
この場所の味は、誰にも奪わせない。