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Blood Sisters  作者: ジョウ・アイダ
Chapter Two: Pay Back
10/29

2-4

「ヴォルフ・プラトフの要塞を潰して、仕事も達成。ま、コストはかかったけど……得たものは、ずっと多いわね」

シルヴィアがシートを倒しながら満足げにシャンパングラスを傾けた。

その横顔は、どこか誇らしげだった。

エルは隣で、半分眠りかけている。

シートベルトを締めたまま、柔らかな呼吸。額には汗が浮いていて、頬もわずかに紅潮している。

きっと、張り詰めていた神経がようやくほどけたのだろう。

……私も同じだった。

腹の奥がまだ熱を持ってズキズキと疼いていたが、不思議と心は穏やかだった。

まだ燃え殻の匂いが残る夜——その真ん中にいながらも、今だけは、風がぬるかった。

「そうそう、あの地下駐車場の車。好きなのをあげるわ」

何気ないシルヴィアの一言に、エルがぱっと顔を上げる。

「えっ、本当に……?!」

さっきまで死地を駆け抜けていたとは思えないほど、目を輝かせる彼女に私は小さく笑って頷いた。

シルヴィアはグラスを持ち直し、さらに満足げに微笑む。

その余裕の笑みを見ながら、私もシャンパンを一口——

喉を通った刺激に咳き込む。

エルが焦って背中をさすりながらも、自分のグラスをちびちび飲んでいた。唇の端がわずかに笑っている。

窓の外では、瓦礫の要塞が遠ざかっていく。

焼け焦げた鉄骨。まだ立ち上る煙。破壊された巨塔の残骸が、ゆっくりと夜に飲まれていく。

さっきまでいた“地獄”が、まるで幻だったかのように後ろへ流れていく。

「……それにしても」

シルヴィアが、ゾラの部屋から持ち出された一枚の写真を見つめた。

「イリーナ・セミョノフが本当に生きていて、ヴォルフ・ブラトフにいるなんてね」

写真の中には、冷徹で美しい女——赤い瞳の異形が、無数の視線でこちらを睨んでいた。

「幹部を倒して、荷物も取り戻した。イリーナの顔にも泥を塗った。実に、愉快ね」

満足気に、グラスを軽く掲げた。

そんなシルヴィアの様子に、私は思わず口を開いた。

「シルヴィア……イリーナって、やっぱり、その女なのか?」

あの、屋上にいた——視線ひとつで空気を支配した、“女”。

シルヴィアは写真を伏せて、軽く息を吐いた。

「えぇ、前はもっと田舎娘だったけどね。…ただでは捕まえられそうにないでしょ?」

「うん。……怖かった」

エルがぽつりと呟いた。

「でも、ちょっとだけ、シルヴィアに似てたよ」

その言葉に、シルヴィアが小さく吹き出す。

「ふふ、言ってくれるわね。まあ、確かに目つきは似てるかも。昔の私とね」

冗談めかして笑っていたが、その笑いの奥に、ほんの少しだけ、イリーナと違うものが見えた。

黙ったまま、あの赤い目を思い出していた。

シルヴィアと、イリーナ。

確かに、何かが似ている。けれど、違う。

シルヴィアの目の奥には、情がある。

イリーナの目には……命さえも対象物でしかないような、徹底した冷徹があった。

「ま、これから会うNOVAのお偉いさんにも話しておきなさい」

シルヴィアが言った。

「その人も、私と一緒にイリーナと戦ったことがあるから」

「え、旧友って……その人?」

「ええ。名前はダリア。昔の私の部下よ。戦後にNOVAに引き抜かれて、今はそこそこ昇進したらしいわ」

懐かしそうに目を細めながら、グラスを傾ける。

「……でも、本当に嬉しいわ」

次の言葉には、酔いも、飾りもなかった。

「我が子たちが、勝利を掴んだ。あんな地獄の中で、誇りを持って、任務を完遂した……」

その言葉に、言葉を失った。

シルヴィアの言葉が、こんなにも温かく響くなんて——あの口から、こんな本音が出るなんて。

だからこそ、何も言わず、ただ小さく頷いた。

エルは照れて微笑みながら、シルヴィアのシャンパンをもう一口。

その頬には、少しだけ紅が差していた。

静かで、ささやかな勝利の夜だった。

だが、その背後には、イリーナの影がずっと——沈黙のまま、横たわっていた。

リムジンはやがて、アンバーシティ新市街の中心にそびえる高級ホテルへと静かに滑り込んだ。

鋼とガラスで構築された光の塔。周囲の喧騒とは切り離されたような、無音の領域。

その最上階——重厚なセキュリティドアの先が、今回の受け渡し地点だった。

ホールに一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

静謐、というよりは無音の威圧。

天井近くの四方にはNOVAの精鋭隊員たち。無言で警備に就き、誰一人として瞬きすらしない。

その緊張感の中、私たちは中央の応接室へと通された。

——そして、彼女はそこにいた。


挿絵(By みてみん)


ダリア。NOVA戦略部所属、階級は“少佐”。

今は制服ではなく、艶のない黒のスーツに身を包み、完全に研ぎ澄まされたナイフのような女。

姿勢は直立したまま微動だにせず、灰色の瞳が鋭くこちらを射抜く。

だが、その視線がシルヴィアへ向けられた瞬間、微かに震えた。

——それは畏敬。

彼女の中に深く刻み込まれた過去の忠誠心が、表情の表層をわずかに揺らした。

「……ミア、エルヴィラ、そして“大佐”……お疲れさまでした」

その声には、NOVAの任務報告ではまず聞かれない“感情”の色があった。

だが、シルヴィアがすかさずやんわりと口を挟む。

「“大佐”はやめなさい。私はもう軍人じゃないわ」

そして小さく笑う。

「ダリア、あなたは変わらないわね」

その言葉に、ダリアは一歩だけ背筋を伸ばした。

まるで——かつての敬礼の残響が、体に染みついているようだった。

「隊員は……残念だったわね」

シルヴィアが静かに告げる。あの、最後まで任務を全うした男のことを思い出す。

ダリアの瞳が一瞬だけ曇る。

「……はい。明日、遺族に直接会って伝える予定です」

感情を殺している声だった。

だがその奥には、確かに痛みと誠意があった。

「一生慣れないから覚悟は決めときなさい」

シルヴィアの言葉に、ダリアは無言で深く頷いた。

しばし、室内に沈黙が満ちる。

やがて、エルが数歩前に出る。

アタッシェケースを、まっすぐに両手で差し出した。

「これが……“お届けもの”よ。確認して」

ダリアは一歩踏み出し、丁寧にそれを受け取る。

慎重に開き、中身を確認する。

薄く光を反射する小瓶に目を落とした彼女の瞳が、わずかに細められた。

まるでそれだけで“認証コード”を読み取るかのような、正確無比な観察。

「……任務、完了と認定します」

簡潔な一言。しかし、その一言には命のやり取りを経た者にしか渡せない“確かな重み”があった。

少し、肩の力が抜ける。

あの地獄に意味があったと、そう言ってもらえたような感覚。

「支払いは後日、指定口座に送金します。依頼金の三倍——“NOVA作戦中に消費した武器と弾薬”。そちらも特別危険任務指定で処理します。安心してください」

その口調は一貫して冷静だったが、言葉の端々には労いの熱がわずかに滲んでいた。

「ウイルスのサンプルって、また新しいテロ?」

シルヴィアが目を細める。

ダリアは足元のケースに視線を落とし、わずかに口元を引き結んだ。

「数日前、海岸に座礁した無人の小型船から回収されたものです」

一瞬の間。

「感染力はありませんが……構造が不自然すぎる設計された“新種”と考えられます。」

次の言葉を遮るように、ダリアはあえて咳払いした。

「……あとはトップシークレットですので、この場では控えさせてください」

空気が、わずかに冷えた。

シルヴィアが口を閉じる。

「また、提供いただいたゾラ・モロゾフの映像も解析中です。今後、彼女のような腫瘍は優先排除対象としてリスト化されます。……あなた方の働きに、心より感謝いたします」

ダリアがそう静かに告げると、隣でシルヴィアがふっと鼻を鳴らした。

「“優先排除”ね。まぁ、ゾラは確かに目障りだったけど……」

手元のグラスを揺らしながら、彼女は言葉を続けた。

「……ああいう“爆弾”が一人いると、イリーナの思考パターンも少しずつ読めるようになるのよ」

その名が出た瞬間、ダリアの灰色の瞳が、わずかに動いた。

「イリーナ・セミョノフ……」

かつて上官だった女の名を口にしたその声音には、わずかに戸惑いと緊張が滲んでいた。

「イリーナは今でも……」

言葉を濁すダリアに、シルヴィアが静かに頷いた。

「ええ、生きてるわ。——この子たちが、その目で確かに見ているのよ」

私は無言で、ゾラの部屋で見つけた写真を一枚、応接テーブルの上に滑らせた。

血のように赤い瞳、白い肌、黒い軍服。

あの夜、月明かりの中で見た“氷の女”と、まったく同じ顔。

「見たのは……この女だ。近くで見ただけだが、ゾラとは“格”が違った」

ダリアは写真を手に取り、そのまま数秒、呼吸を止めて沈黙した。

手が微かに震えていた。

それは、過去の記憶が理屈を超えて、恐怖となって襲う証。

「……今夜は祝杯よ。我が子たちが、また一つ、地獄を越えて戻ってきたんだから」

シルヴィアがワイングラスを高く掲げた。

その声音は冗談めいていたが、滲んだ本音に、胸の奥がわずかに熱くなる。

その瞬間、ダリアの表情がわずかに揺らいだ。

灰色の瞳が、私とエル、そしてシルヴィアを順に見比べる。

それから、静かに口を開いた。

「……“我が子たち”、ですか。まさか……大佐、世継ぎを?」

真顔だった。まっすぐで、誠実で、どこか切ないほど不器用なその問いに、私は一瞬言葉を失った。

シルヴィアは、ふっと肩をすくめる。

「……ダリア。ほんと、昔から変わらないのね」

呆れたようでいて、どこか優しくて。

そこには戦場を共にくぐり抜けた者同士にしか生まれない、深い絆のようなものがあった。

「でも、まぁ……あなたが“堅気”になったのは正解だったのよ」

シルヴィアは、ワイングラスを軽く揺らす。

「だから、今でも——信頼できる。……まぁ、“元上司がマフィアのボス”で今も繋がっている時点で、それなりに道徳ラインは怪しいけど」

それは毒を含んだ冗談だった。

だが、その奥に宿るのは、確かな“誇り”と“信頼”だった。

ダリアは言葉を返さず、ただ小さく頷いた。

その姿は、任務報告ではなく、どこか“帰還兵”を迎える儀式に見えた。

「……任務はここで完結します。ですが——戦争は、まだ終わっていません」

ダリアの声は静かだったが、その響きは確かだった。

私は、小さく笑って応えた。

「……ああ。たぶん——始まったばかりだ」

部屋の空気が、微かに張り詰めた。

戦火の中から持ち帰った命と情報。

それは、ひとつの“終わり”であり、“始まり”でもあった。

私とエルは、黙って向かい合う。

生きてここにいる。それだけで、今夜は——少しだけ、意味があったと思いたい。

沈黙の中、シルヴィアのグラスがカチリと音を立てた。

その音は、確かに私たち三人が帰還したことを告げていた。


――――――――――――――――――――


ヘリのローターが夜の空気を刻むたびに、静かな振動がストレッチャーに伝わってくる。

ゼニス・スパイア行きの医療搬送ヘリ。シルヴィアの命令で、私はここに寝かされている。

ダリアはNOVAへ。シルヴィアは戦果処理へ。

でも、私は今——ただ、空を見ている。

傷口がズキズキとうずくが、不思議と心は静かだった。戦いの火は過ぎた。

視界の端に、誰かの顔が差し込む。

エルだ。血と汗に濡れたまま、髪も整えず、目に涙を溜めながらも笑おうとしていた。

——ずっと、手を握っていてくれた。

小さな手。あたたかくて、昔と変わらない。ふと、遠い記憶に引き戻されていた。

「……なぁ、エル」

声に出すと、彼女がすぐ顔を近づけてくる。

「どうしたの? 痛むの? 無理しないで」

両手で包み込み、私の手をぎゅっと握りしめる。その手が微かに震えていた。

いつだったか、私が転んで膝を擦りむいたとき。

銃撃戦で肩を貫かれた夜も、火傷で熱にうなされた日も——彼女はいつも泣いていた。

「ありがとう、エル」

「え……?」

ぽかんとした顔。頬に汗がにじんで、まばたきも忘れていた。

「助けてくれたろ。あの地下室と、屋上で」

しばらくして、ようやく理解が追いついたのか、エルの顔に微笑みが戻る。

それはどこか懐かしく、優しく、でも芯の通った強さを秘めていた。

「お礼なんていらないよ。……だって、そうしたかっただけだから」

そう言ったあと、ふっと笑って続けた。

「でも……うん。受け取っておくね。どういたしまして」

そのまま——終わるかと思った。

だが次の瞬間、彼女の声が鋭く変わった。

「でも!」

その声に、心が少しだけ跳ねた。

「ミアは……無茶しすぎ!」

頬を赤くして、目を潤ませながら、彼女は言葉をぶつけてくる。

「あんな体で潜入して……撤退もしないで……撃たれてるのに受け渡しにも付き合って……!ほんと、無理ばっかりして……!」

言葉は怒りに満ちていた。けれど、それは怒りじゃなかった。

その裏には、明らかに別の感情があった。泣きそうな不安。苦しいほどの心配。

「お願い……誓って……!」

彼女の手が、私の手を胸元に引き寄せる。

鼓動が伝わってくる。早く、強く、そして温かい。まるで命そのものだった。

「命を捨てるようなこと、もう二度としないって……誓ってよ」

それは、子どもじみた約束なんかじゃなかった。

この業界で「死なない」と言うのは、嘘に近い。

でもそれでも——彼女は言ったのだ。信じてくれているのだ。私が、それを守ると。

だから私は。

「ああ……誓うよ」

「絶対、だよ」

「……絶対に、破らない」

——けど。

彼女の瞳を見つめていると、どうしようもなく、視線をそらしたくなった。

その視線があまりにも真っ直ぐで、胸を貫いてきたから。

そっと目を逸らす。

それが、きっと。

最初に、誓いを破った瞬間だった。

でも。

この時の手の温もりは、きっと——生涯、私の中に残り続ける。

──エルがいるから、私は帰ってこられる。

それだけは、もう変わらない。

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