2-4
「ヴォルフ・プラトフの要塞を潰して、仕事も達成。ま、コストはかかったけど……得たものは、ずっと多いわね」
シルヴィアがシートを倒しながら満足げにシャンパングラスを傾けた。
その横顔は、どこか誇らしげだった。
エルは隣で、半分眠りかけている。
シートベルトを締めたまま、柔らかな呼吸。額には汗が浮いていて、頬もわずかに紅潮している。
きっと、張り詰めていた神経がようやくほどけたのだろう。
……私も同じだった。
腹の奥がまだ熱を持ってズキズキと疼いていたが、不思議と心は穏やかだった。
まだ燃え殻の匂いが残る夜——その真ん中にいながらも、今だけは、風がぬるかった。
「そうそう、あの地下駐車場の車。好きなのをあげるわ」
何気ないシルヴィアの一言に、エルがぱっと顔を上げる。
「えっ、本当に……?!」
さっきまで死地を駆け抜けていたとは思えないほど、目を輝かせる彼女に私は小さく笑って頷いた。
シルヴィアはグラスを持ち直し、さらに満足げに微笑む。
その余裕の笑みを見ながら、私もシャンパンを一口——
喉を通った刺激に咳き込む。
エルが焦って背中をさすりながらも、自分のグラスをちびちび飲んでいた。唇の端がわずかに笑っている。
窓の外では、瓦礫の要塞が遠ざかっていく。
焼け焦げた鉄骨。まだ立ち上る煙。破壊された巨塔の残骸が、ゆっくりと夜に飲まれていく。
さっきまでいた“地獄”が、まるで幻だったかのように後ろへ流れていく。
「……それにしても」
シルヴィアが、ゾラの部屋から持ち出された一枚の写真を見つめた。
「イリーナ・セミョノフが本当に生きていて、ヴォルフ・ブラトフにいるなんてね」
写真の中には、冷徹で美しい女——赤い瞳の異形が、無数の視線でこちらを睨んでいた。
「幹部を倒して、荷物も取り戻した。イリーナの顔にも泥を塗った。実に、愉快ね」
満足気に、グラスを軽く掲げた。
そんなシルヴィアの様子に、私は思わず口を開いた。
「シルヴィア……イリーナって、やっぱり、その女なのか?」
あの、屋上にいた——視線ひとつで空気を支配した、“女”。
シルヴィアは写真を伏せて、軽く息を吐いた。
「えぇ、前はもっと田舎娘だったけどね。…ただでは捕まえられそうにないでしょ?」
「うん。……怖かった」
エルがぽつりと呟いた。
「でも、ちょっとだけ、シルヴィアに似てたよ」
その言葉に、シルヴィアが小さく吹き出す。
「ふふ、言ってくれるわね。まあ、確かに目つきは似てるかも。昔の私とね」
冗談めかして笑っていたが、その笑いの奥に、ほんの少しだけ、イリーナと違うものが見えた。
黙ったまま、あの赤い目を思い出していた。
シルヴィアと、イリーナ。
確かに、何かが似ている。けれど、違う。
シルヴィアの目の奥には、情がある。
イリーナの目には……命さえも対象物でしかないような、徹底した冷徹があった。
「ま、これから会うNOVAのお偉いさんにも話しておきなさい」
シルヴィアが言った。
「その人も、私と一緒にイリーナと戦ったことがあるから」
「え、旧友って……その人?」
「ええ。名前はダリア。昔の私の部下よ。戦後にNOVAに引き抜かれて、今はそこそこ昇進したらしいわ」
懐かしそうに目を細めながら、グラスを傾ける。
「……でも、本当に嬉しいわ」
次の言葉には、酔いも、飾りもなかった。
「我が子たちが、勝利を掴んだ。あんな地獄の中で、誇りを持って、任務を完遂した……」
その言葉に、言葉を失った。
シルヴィアの言葉が、こんなにも温かく響くなんて——あの口から、こんな本音が出るなんて。
だからこそ、何も言わず、ただ小さく頷いた。
エルは照れて微笑みながら、シルヴィアのシャンパンをもう一口。
その頬には、少しだけ紅が差していた。
静かで、ささやかな勝利の夜だった。
だが、その背後には、イリーナの影がずっと——沈黙のまま、横たわっていた。
リムジンはやがて、アンバーシティ新市街の中心にそびえる高級ホテルへと静かに滑り込んだ。
鋼とガラスで構築された光の塔。周囲の喧騒とは切り離されたような、無音の領域。
その最上階——重厚なセキュリティドアの先が、今回の受け渡し地点だった。
ホールに一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
静謐、というよりは無音の威圧。
天井近くの四方にはNOVAの精鋭隊員たち。無言で警備に就き、誰一人として瞬きすらしない。
その緊張感の中、私たちは中央の応接室へと通された。
——そして、彼女はそこにいた。
ダリア。NOVA戦略部所属、階級は“少佐”。
今は制服ではなく、艶のない黒のスーツに身を包み、完全に研ぎ澄まされたナイフのような女。
姿勢は直立したまま微動だにせず、灰色の瞳が鋭くこちらを射抜く。
だが、その視線がシルヴィアへ向けられた瞬間、微かに震えた。
——それは畏敬。
彼女の中に深く刻み込まれた過去の忠誠心が、表情の表層をわずかに揺らした。
「……ミア、エルヴィラ、そして“大佐”……お疲れさまでした」
その声には、NOVAの任務報告ではまず聞かれない“感情”の色があった。
だが、シルヴィアがすかさずやんわりと口を挟む。
「“大佐”はやめなさい。私はもう軍人じゃないわ」
そして小さく笑う。
「ダリア、あなたは変わらないわね」
その言葉に、ダリアは一歩だけ背筋を伸ばした。
まるで——かつての敬礼の残響が、体に染みついているようだった。
「隊員は……残念だったわね」
シルヴィアが静かに告げる。あの、最後まで任務を全うした男のことを思い出す。
ダリアの瞳が一瞬だけ曇る。
「……はい。明日、遺族に直接会って伝える予定です」
感情を殺している声だった。
だがその奥には、確かに痛みと誠意があった。
「一生慣れないから覚悟は決めときなさい」
シルヴィアの言葉に、ダリアは無言で深く頷いた。
しばし、室内に沈黙が満ちる。
やがて、エルが数歩前に出る。
アタッシェケースを、まっすぐに両手で差し出した。
「これが……“お届けもの”よ。確認して」
ダリアは一歩踏み出し、丁寧にそれを受け取る。
慎重に開き、中身を確認する。
薄く光を反射する小瓶に目を落とした彼女の瞳が、わずかに細められた。
まるでそれだけで“認証コード”を読み取るかのような、正確無比な観察。
「……任務、完了と認定します」
簡潔な一言。しかし、その一言には命のやり取りを経た者にしか渡せない“確かな重み”があった。
少し、肩の力が抜ける。
あの地獄に意味があったと、そう言ってもらえたような感覚。
「支払いは後日、指定口座に送金します。依頼金の三倍——“NOVA作戦中に消費した武器と弾薬”。そちらも特別危険任務指定で処理します。安心してください」
その口調は一貫して冷静だったが、言葉の端々には労いの熱がわずかに滲んでいた。
「ウイルスのサンプルって、また新しいテロ?」
シルヴィアが目を細める。
ダリアは足元のケースに視線を落とし、わずかに口元を引き結んだ。
「数日前、海岸に座礁した無人の小型船から回収されたものです」
一瞬の間。
「感染力はありませんが……構造が不自然すぎる設計された“新種”と考えられます。」
次の言葉を遮るように、ダリアはあえて咳払いした。
「……あとはトップシークレットですので、この場では控えさせてください」
空気が、わずかに冷えた。
シルヴィアが口を閉じる。
「また、提供いただいたゾラ・モロゾフの映像も解析中です。今後、彼女のような腫瘍は優先排除対象としてリスト化されます。……あなた方の働きに、心より感謝いたします」
ダリアがそう静かに告げると、隣でシルヴィアがふっと鼻を鳴らした。
「“優先排除”ね。まぁ、ゾラは確かに目障りだったけど……」
手元のグラスを揺らしながら、彼女は言葉を続けた。
「……ああいう“爆弾”が一人いると、イリーナの思考パターンも少しずつ読めるようになるのよ」
その名が出た瞬間、ダリアの灰色の瞳が、わずかに動いた。
「イリーナ・セミョノフ……」
かつて上官だった女の名を口にしたその声音には、わずかに戸惑いと緊張が滲んでいた。
「イリーナは今でも……」
言葉を濁すダリアに、シルヴィアが静かに頷いた。
「ええ、生きてるわ。——この子たちが、その目で確かに見ているのよ」
私は無言で、ゾラの部屋で見つけた写真を一枚、応接テーブルの上に滑らせた。
血のように赤い瞳、白い肌、黒い軍服。
あの夜、月明かりの中で見た“氷の女”と、まったく同じ顔。
「見たのは……この女だ。近くで見ただけだが、ゾラとは“格”が違った」
ダリアは写真を手に取り、そのまま数秒、呼吸を止めて沈黙した。
手が微かに震えていた。
それは、過去の記憶が理屈を超えて、恐怖となって襲う証。
「……今夜は祝杯よ。我が子たちが、また一つ、地獄を越えて戻ってきたんだから」
シルヴィアがワイングラスを高く掲げた。
その声音は冗談めいていたが、滲んだ本音に、胸の奥がわずかに熱くなる。
その瞬間、ダリアの表情がわずかに揺らいだ。
灰色の瞳が、私とエル、そしてシルヴィアを順に見比べる。
それから、静かに口を開いた。
「……“我が子たち”、ですか。まさか……大佐、世継ぎを?」
真顔だった。まっすぐで、誠実で、どこか切ないほど不器用なその問いに、私は一瞬言葉を失った。
シルヴィアは、ふっと肩をすくめる。
「……ダリア。ほんと、昔から変わらないのね」
呆れたようでいて、どこか優しくて。
そこには戦場を共にくぐり抜けた者同士にしか生まれない、深い絆のようなものがあった。
「でも、まぁ……あなたが“堅気”になったのは正解だったのよ」
シルヴィアは、ワイングラスを軽く揺らす。
「だから、今でも——信頼できる。……まぁ、“元上司がマフィアのボス”で今も繋がっている時点で、それなりに道徳ラインは怪しいけど」
それは毒を含んだ冗談だった。
だが、その奥に宿るのは、確かな“誇り”と“信頼”だった。
ダリアは言葉を返さず、ただ小さく頷いた。
その姿は、任務報告ではなく、どこか“帰還兵”を迎える儀式に見えた。
「……任務はここで完結します。ですが——戦争は、まだ終わっていません」
ダリアの声は静かだったが、その響きは確かだった。
私は、小さく笑って応えた。
「……ああ。たぶん——始まったばかりだ」
部屋の空気が、微かに張り詰めた。
戦火の中から持ち帰った命と情報。
それは、ひとつの“終わり”であり、“始まり”でもあった。
私とエルは、黙って向かい合う。
生きてここにいる。それだけで、今夜は——少しだけ、意味があったと思いたい。
沈黙の中、シルヴィアのグラスがカチリと音を立てた。
その音は、確かに私たち三人が帰還したことを告げていた。
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ヘリのローターが夜の空気を刻むたびに、静かな振動がストレッチャーに伝わってくる。
ゼニス・スパイア行きの医療搬送ヘリ。シルヴィアの命令で、私はここに寝かされている。
ダリアはNOVAへ。シルヴィアは戦果処理へ。
でも、私は今——ただ、空を見ている。
傷口がズキズキとうずくが、不思議と心は静かだった。戦いの火は過ぎた。
視界の端に、誰かの顔が差し込む。
エルだ。血と汗に濡れたまま、髪も整えず、目に涙を溜めながらも笑おうとしていた。
——ずっと、手を握っていてくれた。
小さな手。あたたかくて、昔と変わらない。ふと、遠い記憶に引き戻されていた。
「……なぁ、エル」
声に出すと、彼女がすぐ顔を近づけてくる。
「どうしたの? 痛むの? 無理しないで」
両手で包み込み、私の手をぎゅっと握りしめる。その手が微かに震えていた。
いつだったか、私が転んで膝を擦りむいたとき。
銃撃戦で肩を貫かれた夜も、火傷で熱にうなされた日も——彼女はいつも泣いていた。
「ありがとう、エル」
「え……?」
ぽかんとした顔。頬に汗がにじんで、まばたきも忘れていた。
「助けてくれたろ。あの地下室と、屋上で」
しばらくして、ようやく理解が追いついたのか、エルの顔に微笑みが戻る。
それはどこか懐かしく、優しく、でも芯の通った強さを秘めていた。
「お礼なんていらないよ。……だって、そうしたかっただけだから」
そう言ったあと、ふっと笑って続けた。
「でも……うん。受け取っておくね。どういたしまして」
そのまま——終わるかと思った。
だが次の瞬間、彼女の声が鋭く変わった。
「でも!」
その声に、心が少しだけ跳ねた。
「ミアは……無茶しすぎ!」
頬を赤くして、目を潤ませながら、彼女は言葉をぶつけてくる。
「あんな体で潜入して……撤退もしないで……撃たれてるのに受け渡しにも付き合って……!ほんと、無理ばっかりして……!」
言葉は怒りに満ちていた。けれど、それは怒りじゃなかった。
その裏には、明らかに別の感情があった。泣きそうな不安。苦しいほどの心配。
「お願い……誓って……!」
彼女の手が、私の手を胸元に引き寄せる。
鼓動が伝わってくる。早く、強く、そして温かい。まるで命そのものだった。
「命を捨てるようなこと、もう二度としないって……誓ってよ」
それは、子どもじみた約束なんかじゃなかった。
この業界で「死なない」と言うのは、嘘に近い。
でもそれでも——彼女は言ったのだ。信じてくれているのだ。私が、それを守ると。
だから私は。
「ああ……誓うよ」
「絶対、だよ」
「……絶対に、破らない」
——けど。
彼女の瞳を見つめていると、どうしようもなく、視線をそらしたくなった。
その視線があまりにも真っ直ぐで、胸を貫いてきたから。
そっと目を逸らす。
それが、きっと。
最初に、誓いを破った瞬間だった。
でも。
この時の手の温もりは、きっと——生涯、私の中に残り続ける。
──エルがいるから、私は帰ってこられる。
それだけは、もう変わらない。