第五話 雨上がり
ハーモニクス...。それは、針が地面に落ちたみたいな、鋭くてか弱い響きを織りなしていた。
徐々に音の数が増えていく。
それでも、この部屋は未だ静寂としている。ここで唾を飲み込もうものなら、ここにいる全員の鼓膜に届いてしまうぐらいだ。
その静けさの中でも、気付けば拍子は三拍子へと戻っていた。その境目がどこなのかも、この曲は理解させてはくれない。
いつの間にか和泉さんが旋律を奏で、先輩の方はと言うと、
一つの糸をツーンと弾いては、その親指を奥の方へ滑らせ、複数の余韻を交差させていた。
その二つの異なるリズムは、徐々に一つの集合体へと変化を遂げ、それは段々とメトロノームの振り子を速めていく。
カチ、カチ、カチ、カチ――
その歩幅は段々と狭くなる。
カチ、カチ、カチ、カチ――
気づけば、振り子の重りは180を指していた。
そして、和泉さんは手を止め、先輩は右手の親指についた爪で、一定間隔で弦を揺らす。
"もうすぐ何かが来る"と言わんばかりの緊張感。
その振幅は徐々に大きくなり、
彼女は、ここに一つの世界を生み出した。
晴れながらも、空から降る恵。雲を押しのけて差し込む黄色い日の光。もはや、濡らされて色彩の濃くなったアスファルトの匂いまでわかるし、この髪が風に靡いているんじゃないかと錯覚させられるほどのもの。
今まで、沢山の音楽をこの耳にして、沢山の曲を弾いてきた。
曲のBPMさえも完全に把握できた。だからリズムは崩れないし、その曲の細かい数値まで認識できるところまで辿り着いた。俺はそこがゴールだと、いつの間にか感じていた。
早く連打できて、リズムキープできて、複雑なビートが刻める。それが全てだなんて、俺は若い勘違いをしていた。
でも、それはあくまで演奏の一部だったことに、今この瞬間わからされる。
表現力。その曲を体現する力。
そんなもの、今の今まで目にしたことが無かった。
俺の見えている世界が、ガラリと形から色まで全てが変わり果てる。
そんな衝撃を前にしていると、気づけば、その雨は静かに止もうとしている。
弾かれた弦の音にディレイがかかったように、それは小さく、薄れていくようにカデンツを迎えた。
開いた口が塞がらない。
「どうだった!?光君と流渚ちゃん!綺麗だったでしょ!」
「...はい」
俺の口からはそんな言葉しか出てこない。
「この曲は、私たちの所属している『鳳仙会』で演奏する曲なんだけど、実はね、これ聲凪ちゃんが一から作曲したのよ!」
と、自分のことのように和泉さんは自慢する。
――この人が...?言ってしまったら悪いが、頭の中に脳みそすら入ってなさそうな虚ろな目をした人が...。
思わず自分の目を右手の裾で擦ってしまう。
「え!?すごーい!先輩が作ったんですか!」
流渚は、姿勢よく脚を畳んで腰を掛ける先輩に、赤子のようにハイハイして詰め寄る。
彼女はそれに、無理やりにでも無視するかのようにそっぽを向いた。
「あー、聲凪ちゃん恥ずかしがり屋なのよー。いつも鳳仙会だと素直な――」
「ちょっとっ!!」
手元を隠しながら微笑む和泉さんに、初めて先輩が声を上げた。
元気を感じることのできなかった瞼をぐっと開いた彼女は、固まったまま顔を赤く染めていった。
そして、風船が萎むようにして縮こまる。
「あらーごめんなさいねー」
和泉さんは相変わらず優しい声と共に口角を上げている