第三話 糸間違い
「これが楽譜で、これ爪ね。爪は親指、人差し指、中指の腹にくるようにして...あ、その琴柱は動かさないようにね」
と、流渚は俺に薄っぺらい本のようなものと、黒い輪っかに白いプラスチックが括りつけられたものを渡す。
琴柱...ああ、この弦を張ってる柱のことか。
「それじゃあ、九ページ開いて、『さくらさくら』弾いてみよ!」
言われた数字まで、左側に溜まった紙を、親指でペラペラと反対側へ送っていく。
そして、俺は絶望を知った。
「これ...楽譜...なんだよな」
「ん、楽譜だよ?さくらさくらでしょ?」
...何かの見間違いだろうか。この楽譜には、広いグリッドに、たくさんの漢数字が詰められているだけ。
普通、楽譜と言えば、左から右へ五本の線が伸びた「五線譜」が一般的。
もちろん、ドラムは音程と言う概念がないから、他の楽器と比べれば少し特殊な楽譜になってはいる、それでもここまでじゃない。
概念から変わってきている。
確かに、右側には「さくらさくら」と書いてある。だが、問題はそれ以外だ。何が何を示しているのかがさっぱりわからない。
「こんなのどうやって読むんだよ...」
「とりあえず筝の前に座って!今から教えるから、見てて!」
流渚が中指の腹を、一番奥の弦につけ、ずらすようにその腕を手前に引っ張る。
そうすると、畳の敷かれた部屋で、ツーンと言うシンプルで澄んだ響きが辺りを満たした。
「奥の弦から順に、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、斗、為、巾ってなってて...」
彼女が三、と数えたとき、筝に触れる中指は親指へと変更され、それに引っ掛けられた糸からは、順々にそれぞれの余韻が混じっていく。
「じゃあ、一緒に巾から一まで弾いていくよ!せーのっ」
その言葉が耳に入り、慌てて親指を巾の糸へ押しあて、滑らせるように弦を振動させる。
俺が流渚を追いかけるようにして、二人の音が並んでいく。
一番手前の糸を鳴らした爪は、そのまま次の糸を弾く準備をしている。
その調子で、琴柱でピンと伸ばされた弦を弾いていき、糸が奥に移るごとに、音程が下がっていく。
「なんだ、筝って簡単だな」
「お、じゃあついにさくらさくら弾こうよ!」
「おう、任せな」
その会話の背景で、正座で静止したままの先輩が、またこちらを刃物みたいな鋭い眼光をこちらに向けているのがわかった。
怖い。
「この一マスで一拍だよ。おっけー?じゃあ、最初は七、七、八を二回繰り返すよ!」
七...七ってどこだ。
一番奥の糸から、「一、二、三、四、五、六、七」と数えて、やっとその位置を捉えることができた。
「ここか...」
「準備できた?せーのっ」
その言葉に合わせて指を曲げ、爪を振動させる。
だが、どの糸にどの数字が当てはまってるかが分からずに、しどろもどろになってしまう。
今しがた楽譜の読み方を理解したが、まずそれ以前に混乱してしまう。
筝なんて...とか思っていた自分をしばきまわしたい。
「もうー光ミスりすぎ!」
口角を上げて声を上げる。
「いや...意外とむずくて」
そんな風に会話を交えていると、また入口の方からガラガラ、ぴしゃんと物音がした。
「ただいまー!どう?流渚ちゃんと光君、筝できそう?」
額に少量の汗を浮かべた和泉さんが足を軽く振って、つま先を通したスリッパを片方ずつ落としていく。
「いやー光がもうこんがらがっちゃってて!」
「あはは!そうかい!あ、そうだ。良ければ私と聲凪ちゃんの演奏、聞いて行ってくれない?」