第二話 筝
「箏曲部って和室でやってるんだってー!なんか雰囲気あるよねー!」
よかった、流渚が切り替えの早いやつで。
「ん?ああ。そうだな」
極端な安堵のせいで、こいつが何を口にしたのかがわからず、無意識的に適当な発言でやり過ごした。
一歩ずつ廊下を進んで行くごとに、箏の音色が徐々に鮮明になってくる。
「和室」と壁から生えた看板を目にし、ドアの前で意味なく立ち止まる。
その中からは、川がなだらかに流れているような音が、部屋とこの場所を隔てるドア越しからでも、柔らかく鼓膜に響いてくる。
だけど、なんというか、違和感があった。
部員の数は二年と三年で七人。それならそれ相応のバラつきや音量が聞こえていてもおかしくはないはずだけど...。それこそ、一人だけで弾いているみたいな音が聞こえてくる。
「どうしたの光?入ればいいじゃん」
流渚は重心を左に傾けて、下から俺を覗き込むように口を開いた。
「ん、ああ。入る」
年季が入って色褪せた木のドアを、水の流れていくような音を邪魔しないように恐る恐るスライドする。
扉の足からはガラガラと、客人が部室に来た事を知らせるように声を上げられていた。
「――あ、光君と流渚ちゃん!いらっしゃい!」
そんな元気な声が筝の流動を遮るように響かせると、それは流れることを忘れたかと思うほどピタリと止んだ。
筝がとても緩やかな弧を描いて、追い詰めるように囲んだ椅子には、和泉さんが優しく腰かけている。
和泉さんの目の前にも、椅子の高さに合わせた筝があり、それは周りの物と比較すると、少し大きいようにも見えた。
さっきの演奏は、和泉さんの音だったのか。
誰もいない筝の群の中に一人だけがぽつんと正座している。先輩だろうか?
彼女は、少し乱れた長い髪で左目を隠している。
筝の右端で左斜めに膝を向けながら、スカートの上に両手を重ねて置いていた。
突き刺すような隻眼でこちら睨んだが、少しすればすぐ目の前にある、薄っぺらい紙の集まりへと視点を預ける。
さっきまで繋がって途切れることの無かった柔らかい音色は、もうこの部屋には流れていない。
部活動紹介では、部員七名で頑張っています!と、部長を名乗っていた女性は体育館の舞台でマイクを握っていた。
なのに、和泉さんを囲んだ群の中で座っているのはたった一人だけ。
「あ!和泉おばあちゃーん!お久しぶりです!」
「もうなに、筝曲部来てくれたのー?嬉しいねぇ。よかったら体験でもしていって頂戴!」
腰かけた椅子の柱に、凭れ掛かった手持ちのバッグから、なんだかわからないものが無数に入った透明な袋を、くちゃくちゃと手の中で転がしている。
袋を上下して、中に詰められた得体の知れないなにかを数個取り出し、「流渚ちゃんは何回かやったことあるからわかるよね!光君に教えてあげて」と口にして、彼女にそれを渡しだした。
「任せてくださいよー!ボコボコにしてやりまっせ!」
演奏においてボコボコにするとか言う単語を聞いたのはこれが初めてだ。日本も物騒になったな。
「もう~流渚ちゃんったらお口が悪い!」
今度は流渚に、得体の知れない本を二冊手渡した。
彼女は手元にあるものをパッと開いて
「さくらさくらでいいかな?」
「うん、そうしな!私は勧誘してる部員の子っちの様子を見てくるよ!もしも困ったら、そこに座ってる聲凪ちゃんに聞いて!」
と言って、ガラガラというドアの鳴き声だけを残して、どこかへと去ってしまった。