第六話「花川幽は舵を切る」
今日の昼休みも、俺は屋上へと続く階段の方へと一人向かっている。
歩きながら何となくTS部のフォルダを開いてみると、先生からのコメントが入っていた。一週間ぐらい前の俺と志津見のツーショットだ。
"二人とも文化祭実行委員頑張ろうね〜でもちゃんと出来るのか先生は不安です笑"
いや、最後の一言が余計過ぎる……そして、くじ引きで決めた張本人が言ってるのもだいぶうざい…仮に失敗した時は先生に責任取ってもらうか。いや、そもそも失敗するビジョンしか見えてない。
あ、てかよく見たら他の写真にもコメント入ってるな。
"楽しそうで何よりです"、"順調そうで安心しました!"、"羨ましいです、私も混ぜてください"
うん、結構色んなの書いてたんだな…最後のはちょっと悲壮感あって可哀想に思えてくるけど…
"涼川、少し元気ない?"
二日前は正門を降りてすぐの緑地で談笑をして、それを活動とした。
これは、その時の写真についたコメントである。
先生が、涼川に元気が無いように見えたというのは気のせいではなく、実際に帰り際は気分が悪そうだった。
そのため、帰る時には俺の自転車の荷物置きに座らせて、駅まで押して送っていくこととなった。その後は志津見の方が付き添ってくれたみたいだが、依然として涼川の体調は回復していないらしい。
だから、昨日に続いて今日も、涼川は学校を休んでいる。
最近、急に暑さが増した感じもするからな…夏風邪的なやつだろうか。とにかく、早い回復を祈ろう…
…それにしても、涼川との関係を現実では上手く築けていないと、ひどく痛感してしまう。
決して涼川を嫌うわけじゃないが、涼川が学校に来ていないことに、どこか安心してしまっている自分がいるんだ。
きっとそれは、クラスで会話をしないようお願いした俺の行動に起因する。
馬鹿だった。クラスで会話をしなくても、部活で仲良くすればそれで問題がないなんて、やはりただの思い違いでしかなかった。
人の関係性は切り分けて考えることの出来ないアナログだと言うのに、その一部を自ら切り離して、どうやって自然な関係を築く事ができるのだろう。
一部の器用な人間は上手く出来るのかもしれないが、俺には到底出来ようのないものだ。
結果、現実での涼川と俺は、少し不自然な距離感で落ち着いている。だから、涼川の存在がないことにこうして安心してしまっているんだ。
初めから予想できていたこととはいえ、やっぱり残念には思ってしまう…
ネット上でも最近はあんまり話せてないし…
俺は、ネッ友がクラスメイトであったというこの上ない舞台装置ですら、腐らせて終わってしまうんだな…
「あ、花川。ちょうどいいや」
「ん?」
横から唐突に聞こえた声に振り向くと、そこには志津見の姿があった。
こんなところで会うなんて初めてだな…
「あ、おぉ。志津見か」
屋上の階段もすぐそこのところで立ち止まると、志津見が小さく手招きしていることに気がついた。
こちらを見ながら軽く首を傾けている姿はまさに幽霊さながらの不気味さ。だからこそ、小さな声で「ちょいちょい」と呼ぶ様子が余計に愛らしく映ってしまった。
「…何かあった?」
「うん、ちょっとお話が。とりあえず座れるとこ行きたいけど、どこかある?」
話があるって言われると何かしら俺の悪事がバレたんじゃないかってドキドキするな…
もしかして志津見の顔写真に落書きして遊んでたのバレた?
「あ、それならそこの階段のとこ話せそうだけど」
俺がいつもの昼食スポットを指すと、志津見は小さく頷いてそちらに移動する。そして、俺もそれに続いた。
「…それで話って?」
階段の一番上に二人腰掛けたところで、そう訊ねてみた。
「凪紗のことだけど…」
ひんやりと冷たい床に反して、志津見の顔は日差しに暖かく照らされている。
「あ、涼川のことか」
落書きはバレていなかったようで一安心だ。
「花川って凪紗と教室では話してないよね?」
知ってたのか…
「…まあ、そうだな」
「やっぱりそうなんだ。凪紗が最近あんまり元気無さげだったから聞いてみたら、それ話してくれた」
「なるほど…」
じゃあ、あの視線の意味もやっぱりそのことだったのか。
「凪紗泣いてたよ?『花川くんに教室で避けられてて悲しい!シクシク…』って」
うん、急にどうした。
「え?何それ涼川の真似?……割と似てるな」
「似てるでしょ」
言うと、志津見は得意気な表情をして見せた。
「…え、てか本当に泣いてたの?」
そうだとしたらかなり申し訳ないことをしてしまったな…
「いや、全然泣いてなかったけど」
泣いてないのかよ。
「なんだよ…それなら良かったけど」
「ちょっと場の空気を和ませようと思って…」
志津見は少し下の方を見ながら、そう呟いた。
「まあ確かにおかげでちょっと和んだわ。ありがとう」
お礼を言われるとは思っていなかったのか、志津見は「あ、そう」と言いながら少し動揺しているようだった。
「でも、ニュアンス的にはそんな感じのこと言ってたよ。なんか理由あるの?」
志津見は友達のことが心配なのだろう。こちらを見つめる眼差しがそんな心情を伝えていた。
「…まあ端的に言うとだな…俺ってキモい陰キャじゃん?そんな俺と話してるって知られたら涼川の迷惑になるなって。涼川はクラスで陽キャみたいな感じだし、周りとの関係性とか考えたら、やっぱり俺との関わりは知られない方が良いって思ったんだよな…」
他者目線では、関わっている相手は、その人間のスペックとして捉えられる。
だからこそ、底辺の俺が涼川に関わることで、彼女の株を下げてしまうことが怖い。
「…そういうの気にしてるところが結果的に"キモい陰キャ"を作ってる気がするけど…まずそこをやめてみたら?」
先に小さく吐かれたため息は、強まった語気に掻き消された。
少し耳が痛くなるのはそのせいではなく、志津見の言っていることが、正しいからなのだろう。俺自身も、多くを気にしている自分が、自分でキモいと思う。
それでも…
「俺がこの癖をやめるのは…たぶん無理だ。すまん…」
志津見はそんな俺の言葉に、怒るでも不機嫌になるでもなく、ただ冷静に小さく頷いた。
「まあ、花川が気にしちゃうことを私が「気にするな」って言っても、それは無理なことだよね。それに少しきつい言い方だったかも。ごめん」
言葉と共に、目線は少し下に向けられた。
志津見は何も悪くないのに謝らせてしまった。ウジウジして過度に人目を気にする俺が悪いだけなんだ。
まして友達が関係してるともなれば、文句の一つぐらい言いたくもなるだろう。
そんな中で、志津見は一つの提案をくれた。だから、志津見が謝る義理はどこにもない。
「いや、志津見は何も謝らなくていい。俺が他人の目を気にし過ぎってだけの話だし」
「そっか…まあでも私も、花川は本当に気にし過ぎだなって思う。部活で動画撮ろうってなった時も顔とか気にしてたし。私から見たら全然普通の顔してるけど」
こちらをジッと見つめる視線が確かな言葉を伝えていた。
「気にし過ぎなのは本当にそうだよな…そういうのは全部俺の自己肯定感の低さからきてると思うわ…」
「花川の自己肯定感の低さって絶対普通じゃないよね。もしかして過去になんかあったりした…?」
志津見は首を傾げながら、そう発した。
「…あー、まぁ…あったにはあったかな」
「何があったの?」
志津見は瞬きをすることもなく、ただこちらを見つめている。
「…ちょっと長くなるかもだけどいいか?」
そう返すと、志津見は一度顔を下に向けた。それから体勢を整えると、再びこちらに目線を合わせた。
「うん、聞かせて」
「…わかった」
……………
俺は小学生の時から孤立してた。
周りとズレてたというか、趣味もなくて流行りも全く知らないようなつまんないやつだったから、多分それで。
まあそうやって孤立してる内に悪い噂も湧いてきたんだろうと思う。次第に、陰口言われ始めてるのが何となくわかった。内容まではわからなかったけど、蔑まれているというのはよくわかった。小学生ぐらいの子供は俺みたいな異端には特に排他的で、事あるごとに避けられていたのをよく覚えている。
それでも、一人だけ俺にも普通に接してくれる女子がいた。
その女子はクラスのトップ層にいて、誰にでも優しい子だった。
それは俺に対しても変わらなくて、休み時間は気さくに話しかけてくれたし、俺が孤立していることに気がつくと側に寄ってくれた。
もちろん俺はそれが嬉しくて、素直にその善意を受け取ることしかしなかった。
それから、俺は話しているうちに段々仲が良くなっているのを自覚して、思い始めた。もしかしたらこれが友達なんじゃないかって。
その矢先だった。
彼女は突然学校に来なくなった。
最初はなんで来なくなったのかわからなかったけど、いじめを受けたのが原因だって後でわかった。
そして、そのいじめを受けた原因が俺だということも、その時に知った。
耳に挟んだ話によると、クラスのとある男子グループの一人がその女子に好意を抱いていたが、振り向いてくれなかったらしい。
そんな中で、よりにもよって俺と話していたことが気に食わなかったというのだ。
そこでいじめが始まった。取り巻きの男子数人を連れて。
多分プライドが傷ついたとかそんなんで、矛先が俺じゃなくて女子の方に向いたんだろう。
いじめは影で行っていたようで、俺はその女子が学校に来なくなるまでは本当にその事実を知らなかった。知ることが出来なかった。
知った瞬間、俺には後悔と自責の念が酷く押し寄せた。
……………
「…っていう感じかな、だいたい…」
俺がそこで締めると、志津見は数回小さく頷く。ずっと表情を変えず真剣に向けられていた目線は、少しだけ下に落ちた。
「俺も涼川とは話したいけど、そのことが気になってな…男子人気もありそうな気がするし…だから、やっぱり涼川のためにもクラスでは話さないようにしたい…」
涼川は一般的に可愛いと言われる部類だろうし、性格も優しい。好きになる男がいたって、何も不思議ではないだろう。
「……」
志津見は少し目を細めながら俺の方を見た。何かを言いかけた口はすぐに閉じられ、控えめな声が別の言葉を紡いだ。
「…確かにそれは気にしちゃうと思う」
それでも、志津見はどこか淡々としていた。特別否定することも拒絶することもなく、ただ言葉を返すだけ。
だが、いつもの凛とした表情はそこになく、物哀しげな雰囲気だけが漂っていた。
「あ、いや、ごめん。なんか思ってたよりもめっちゃ重い感じになっちゃって…」
別にこんな空気にしたかったわけではない…重い空気なんていらないんだ…
「…まあ、さっき言ったことはもちろん俺の性格にも影響してるんだけど……多分、それがなくても他のことで劣等感感じて、自分で遠慮して、結局今の俺みたいになってたと思うんだよな」
「まあ、そんな感じはする…」
志津見はそう言うと、小さく口角を上げた。
「だよな。もはや、この自己肯定感の低さに関しては過去とか関係なく、俺のスペックが低過ぎることが原因のような気がしてきた」
「うん、それが全ての原因だね」
「…すげぇ、完全に決めつけてる…」
俺がそう返すと、志津見はクスッと笑って見せた。場の空気が少しでも軽くなったようで安心だ。
「…別に花川の自己肯定感低いところは、直さなくてもいいのかもね。やっぱりそこも含めて花川って感じするし」
沈黙が生まれることもなく、志津見はすぐさまそう言った。そして同時に見せたいたずらっぽい笑みが、頭に強く焼き付いた。
「確かに、俺も自分の自己肯定感低いところは嫌いだけど、無くなったらアイデンティティごと消えちゃうしな。志津見が言うなら、そこは変えなくてもいいか」
「うん、だね」
志津見は頷くと、そう発した。
それから顔をキリッとさせると、「でも」と言葉を続けた。
「凪紗のことは別だから…やっぱり、ちゃんと解決してほしい」
「…そうだな、わかった」
その問題はやっぱり解決しないといけないよな…そのために、志津見は話しかけてきたわけだし。
もちろん、俺も出来るものならば解決したい。
「まず凪紗には謝って。凪紗のためを思ってても、凪紗の話したいって気持ち無視してたら、それは結局だめだと思うから」
「それはそうだよな…今度謝るわ」
涼川が不満気にしていた理由を知った今、涼川に謝るという意思は固まった。
だが謝ったとして、その後どうする?涼川に事情を理解してもらっても、周りの人間関係は変わらない。
もちろん、俺の過去だって消えてくれはしない。だから、俺はきっと現状を変えることが出来ない。
でも、涼川ならそれを理解して現状を受け入れてくれるんじゃないだろうか?
涼川は俺の過去の出来事を知っている。俺が変わり者で、嫌われ者で、他人に迷惑をかける人間で、そんな事実を知っても尚、当たり前のように関わりを持ち続けてくれた。
だから友達と呼びたいし、俺はそう思って、こんなにも迷惑をかけたくないと考えるのだ。
…ならば、涼川に気を遣わせたり、妥協させたりしてしまうのはやはり違うか。きっと妥協の先には虚しさだけが残る。正直、今の俺がそうだ。
じゃあ、俺がすべき行動は…
「ねぇ、さっきの話ってあそこで終わりなの?花川は後悔してそのまま?」
しばしの沈黙を切るように、志津見が口を開いた。
「いや、当時の俺は後悔だけで終わるほど死んではなかったよ。だから少し続きがある」
「どうなったの?そこに解決の道があるかも」
スカートをきゅっと握る姿が志津見の真剣さを伺わせた。
「その当時は後悔が大きくあったけど、同時に怒りも大きく湧いたんだよな。だからいじめてた奴らを殴りにいった」
「え?花川が?」
きっと今の俺の雰囲気からは想像が出来なかったのだろう。志津見は大きく目を見開いた。
「流石に黙ってちゃいけないなって。正義感もあったのか怒りだけだったのかは、もう覚えてないけど」
いや、正義ってのはちげぇか…本当になぜあんな行動を取ったのか、今では疑問が浮かぶ。
「てか、一対複数で勝てるとか花川最強」
志津見は言いながら、小さく拍手している。
「いや、複数相手だと流石に負けるから、それぞれが一人の時を狙った。やるなら一対一」
「……姑息………なようでちゃんとフェア」
「だろ?まあ相手はヒョロガリのマッチ棒みたいなのしかいなかったら、普通に勝てたわ」
「確かに花川って周りよりちょっとガタイ良い方だもんね」
志津見は言いながら、俺の腕を人差し指で何度かつついた。
うん、近い近い。緊張するだろ…
「…ちなみに、その後は殴ったことが学校にバレて割と大事になったけど、結果としていじめの事実も明るみになった。だから次のクラス替えで配慮がされて、いじめに遭った女子も最終的には学校に来れるようになってたみたいだ」
遠目からだが、再び彼女の笑顔を見ることが出来た。後悔の念は消えずとも、それだけは嬉しかったことをよく覚えている。
「なるほど、それは良かった」
志津見はそう言うと、胸をなで下ろした。
「でも花川が殴りにいくとかするのはめっちゃ意外だった」
未だ驚いた様子で、志津見の目はじっとこちらを見ている。
「小学生の話だからな…今とは少し違ってた…」
余談だが、俺はその一件で無事にオオキチガイ野郎認定され、小学校卒業まで、あり得ない程に孤立することとなってしまった。
元々、教室では周りの目を気にして呼吸の仕方を忘れたり、なんてのが日常だったわけだが、本当に誰からもいないように扱われた結果、むしろ教室での居心地を良く感じるようになった。
人は自己肯定感が下がり切れば、"どうせ誰も自分を見てないから人目が気にならない"という状態に進化すると、俺は知ることが出来たわけだ。
ただ、中学に上がると俺の噂もやがて薄れ、一年もしない内に俺は何の変哲もないボッチへと成り下がった。以降、スーパー無敵モードの俺は現れることなく、自意識過剰な俺が再び前に出で立ち続けているというわけだ。
「それは性格が結構変わったってこと?」
志津見は一度目線を上の方に向けてから、首を小さく傾げた。
「うーん、性格が変わったかと言われると少し違うかもしれないな。まあ多少なりともの変化はあるにしても。元々人の中には色んな面があって、相手とかその時の状況でどの面が出てくるのか、出すのかが決まるって俺は思う」
性格が変わるというのは、やはり違っているような気がする。
俺の積極的な面だって、明るい面だって、感情的になってしまう面だって、完全になくなってしまったわけではないはずだ。
周りの環境と、人目を気にし過ぎる俺が、自分のそんな性格を抑え込んでいる。そんな感じがするのだ。
「じゃあ、花川の性格そのものに大きな変化はないってことなの?」
「…そうなるな」
「ふーん。じゃあもう答えは出てるんじゃないない?」
「答え?」
「うん、花川と凪紗のこと。これからどうすればいいか」
一度そこで区切られた言葉は、すぐに繋がれた。
「もしまた同じようなことがあったら、その時またやっちゃえばいい」
志津見は言いながら、一度正拳突きをして見せた。
「…また殴れということですか…」
「そうだよ。性格は変わってないんでしょ?だったらいざという時はその感情的な花川を出す」
言葉と共に、志津見はもう一度拳を前に突き出した。
「それは確かに良い案だな…でも、俺はいじめとかそういうのを未然に防ぎたいと思ってる…」
「そうだね。それが一番の問題だね」
それは弱音に思える言葉ながらも、志津見の表情に濁りはない。ただ強く、こちらに目線を向け続けていた。
「でもそれなら大丈夫。だって今は私がいるから。凪紗の異変ならすぐ気がつくし、凪紗のこと好きな男がいてもすぐに気がつくよ。幼馴染だもん」
そう胸を張って言い張る姿が、やけに頼もしい。周りの雑音も今や消え、耳に入らない。ただ一人、志津見藍咲の言葉だけが、強く心に響いていた。
「何か起きる前に私が釘刺しとくから、花川は何も心配しなくて大丈夫。だから、花川はまず自分のことを見て、それで凪紗の気持ちもちゃんと考えてあげて」
志津見はそう言い終えると、俺の肩をぽんと叩いた。
「そうか…ありがとう。助かる」
「あとは花川が弱気にならなければ、それで大丈夫になるよ」
言い切るまでに、その目は俺を捉えて離さなかった。
大きな問題は俺の気持ちの面にあり、状況を変えるためには、そこを変えなければいけないのだろう。
して、過去に俺は例のいじめに関してじっくりと考え、しばらくして結論に至っている。
"全ては俺が変なやつだったことと、無駄な意思を持って、友達という関係に淡い期待を抱いていたことが、原因だったのではないか"と。
そこから、俺は自己否定をするようになり、それと同時に、希望を持たぬようにしていったのだ。
これから、もう誰も傷つけないように。
そう心に決めている俺が、今からまた強い心意気を持つことはできるのだろうか?
「それとさ、花川はいじめの原因が自分にあるって言ってたけど、それはやっぱり違うと思う」
志津見は俺の気持ちを察したかのように、話を始めた。
「…俺が変なやつだったからいじめが起こったっていうのは、事実じゃないか…?」
そう返すも、志津見は首を横に振る。
「確かに花川が変なやつじゃなかったら、その女子がいじめられることはなかったかもね。でも、それだけだよ」
「というと?」
俺が普通の奴だったらいじめもなかったというのなら、やはり俺のせいだと思わざるを得ないだろう…
「花川が変なやつだっていうのは、その女子がいじめられる要因になっただけ。原因はいじめを始めたやつにしかないと思う」
「…でも要因になるような性格はやっぱり治すべき…だよな」
言いながら志津見の顔を見上げてみたが、彼女は同調の色を示さない。
「治さなくていい。花川が変なやつだったから私は………いや、やっぱり何でもない」
言うと、志津見は小さく笑った。
「とにかく、原因と要因は全く別物なの。要因になっちゃうことは運だし、いじめるやつがいなければ、そもそも何も起こらない。だから気にしなくていい。……って言いたいけど、そう簡単な話じゃないのもわかってる」
そこで区切られた言葉は、「だから」と力強く繋がれた。
「最後は私が殴るでオッケー」
再び突き出された拳は勢いよく空を切った。
「え?」
前後関係なくねえか…?
「なんかちょっと難しくなってきたから…もう私の拳があれば十分かなって思い始めた」
志津見は言いながら、小さく眉をひそめている。
「いや、結局脳筋になっちゃうのかよ」
最後の結論が筋肉になるとはな…
でも、これが志津見か。思考回路は自由で、導く先には不思議な答えがある。
「私の拳は信用ならない?」
不思議そうに首を傾げ、こちらをパチパチと見つめている。
「いや、めっちゃ信用出来る。なんかすげー強そう。覇気で勝てる」
うん、さっきまでの真面目な会話は一体どこへいったのだろうか…
だが、真面目に話せば解決できるような問題でもなかっただろうと思う。
だから、こんな少しおかしな寄り添われ方が、結果としては一番だったのかもしれない。
「でしょ」
そう言いながら自分のことを指す姿には、一切の迷いすらも見られない。この自信こそ、彼女の象徴だろう。
「心強いな…」
志津見は決して一方的に意見を押し付けることはなかった。俺の言葉を踏まえた上で、志津見藍咲という人間からの言葉をずっと与えてくれていた。よって、上辺だけの軽い言葉に感じることはなかったし、しっかりと彼女の意思を表す言葉なのだと、感じる事が出来た。
だから、俺は知らぬ内に、志津見藍咲のことを信頼してしまったのだ。
彼女がいれば、本当に大丈夫なのだと。
「…ごめん、涼川と教室で話さないようにするやつ、もうやめるわ。決心ついた」
俺がそう言うと、志津見は目を見開きながら、こちらに目を向けた。
「あ、これで? ……でも、良かった」
心底ホッとした表情は、友達を思う気持ちから生まれたのだろう。
やっぱり俺は自己を肯定出来ないし、それはこれからも変わらないと思う。それでも、志津見という他者を信頼することで、俺は行動する意思を得た。
それもきっと、その他者というのは目の前の"志津見藍咲"じゃなきゃだめだったんだろうな。
「ありがとな。涼川のためとは言え」
「…別に…花川のためでもあるけど……」
そう零した志津見の横顔は少し赤らんで見えた。きっとそれは、陽の光のせいなどではない。
「そ、そうか」
ここは普通なら照れ隠しとかするべきところだろうよ…まあそういうことをしないのが志津見藍咲という人間か。
「うん。じゃあ、頑張ろ」
「おう!」
それから、俺の言葉に志津見が頷いたところで、ここまでずっと疑問に思っていたことを問うてみる。
「てか思ってたんだけど志津見はなぜここにいた…?」
すると、志津見はお腹をゆっくりとさすり始めた。
「実は今日お弁当忘れて…何となく彷徨ってた」
うん、なんでそれで彷徨うことになるんだ……怨霊かよ。
「まじか。購買とか行ってないの?」
「財布も忘れた…定期もお金入ってないし…」
「おぉ、それは大変だ…じゃあ俺の菓子パン食べる?まだ手つけてないし」
「それは…」
志津見は難しい顔をして、横目でこちらを見ている。
「俺の分は弁当で足りるし全然もらってくれていいよ。志津見がバナナ以外無理って言うならあれだけど…」
「私バナナ以外も普通に食べるけど」
志津見は言いながら、少しムッとした表情を見せた。
「だったら大丈夫だな。俺的にはここで何もあげない方が気分が悪い」
「…じゃあ、本当にもらってもいい?」
少し探りながら訊ねる姿に、うっかりドキッとしてしまう。
「…あ、あぁ。もちろん良いよ。はい」
「…ありがと」
先程とは打って変わって控えめだな…
そんな風に思っていると、志津見はもぐもぐさせながら、言葉を発し始めた。
「…花川って意外と優しいんだね。もっと極悪非道な人だと思ってた」
控えめすぐにいなくなってるー
「いや、どんな風に思ってたんだよ…」
俺がそう返すと、志津見は少し上を見ながら言葉を探し始めた。考える時に上を見るのが癖みたいだな。
「…なんかちょっと捻くれてるし、ぼっちだし、性格にかなり難があるのかなって」
「なるほど…」
志津見の認識は何も間違ってないな…むしろ的確過ぎるまであるぞ。うん、どうしよう…
「ま、まあ、確かに俺はちょっと捻くれてるし、ぼっちだし、性格にかなり難があるけど…」
「合ってた」
「…でも極悪非道ではないよな…?」
「うん、ではなかったね。あ、でもさ、この前私の顔に落書きして遊んでたよね?」
……落書きの件もバレてたのかよ…
「あれ見てたのか…」
「隣の席に本人いたのにやるとか、ばか?」
志津見は言いながら、少し見下すようにこちらを見た。
「はい、今度からはバレないところでやりますので、どうかお許しを」
「わかった、許す」
「いや、そこは『そもそも落書きするな!』ってツッコむとこじゃん」
ボケたのにスルーされると調子狂うな…
「…あえて普通に許してみた」
志津見はその言葉と共に小さな笑みを見せ、顔を背けた。
やっぱり、最初の印象とは違って割と笑顔見せてくれるな…志津見って。
俺はてっきり、志津見は全く笑わない無表情系キャラ的な感じの人なのかと思っていたし、他人に全然興味がないタイプだとも思っていた。
顔とか雰囲気的に考えれば、アニメではクールで冷たいキャラのポジションが妥当だろうし、実際にそうだろうと考えていた。
だが、実際は冷たいなんてことはなかった。
性格は少し変わっているものの、心優しく友達思いの普通の女の子。彼女の毒舌だってただの本音だ。
そもそも、自分の印象で他人の人格を勝手に形成してしまうことは間違いだった。相手と接した経験のみが、相手の人格を正しく解釈する術となる。むしろ、それ以外は酷い妄想であるとまで言えるかもしれない。
勝手な想像で好意的な人格を作り上げる癖があれば、相手に理想を押し付けることとなるし、俺のように悪意的な人格を作り上げる癖があれば、自分の中での敵を無駄に増やすこととなる。
志津見に指摘された、周りを気にし過ぎているという点も、正にそこに起因するものだ。
だから、俺は自分だけで作り上げてきた世界を崩壊させ、他人のいる世界に移ることを決意しなくてはいけない。
そして、戒めるように、俺は自分の頬を強く叩くのであった。
「うわ、なに」
唐突な俺の行動に驚いたのか、志津見はこちらを凝視している。
にしてもリアクション薄いし棒読みだな…本当に驚いてるのかぎりわからないレベル。
「ちょっと喝をな…」
「……トンカツ?」
志津見はパンを咥えたまま、小さく首を傾げた。
「ちげぇよ…急にトンカツの話をするわけ無いだろ…まあ俺の弁当にトンカツは入ってるけど」
…脈絡はなくもなかったな。
「てか美味しそう、そのトンカツ」
志津見は俺の弁当箱を覗き込むように身を乗り出した。
「俺の手作りだから味は自信ないけどな…」
「え、手作りなんだ。花川って料理するんだね」
上目遣いに小さな瞬き…うん、かなり心臓に悪い…
「フッ、俺の暇人ぼっちっぷりを舐めるなよ。いつもやることないから夜ご飯とかよく作ってる」
こうして気を取り直すためにもぼっち自慢は使える。
「へー、一口食べてみたい」
普通にぼっち自慢無視されてんな。
「おう、良いよ。味は自信ないけど…いや、もしかしたら不味いかも…作ってから半日経ってるし…そもそも材料が新鮮だったかも怪しい…」
「めっちゃ保険かけるじゃん」
「まあ、期待値は下げれるだけ下げておきたいからな…」
「ふーん、まあ別に良いけど。とりあえず箸貸してよ」
そう言いながら、志津見は手のひらを差し出している。
「え、俺の使った箸だよ?」
普通に関節キスになるじゃん…
「私は気にしないけど…花川は気にする?」
志津見は言いながら前髪を避けた。
うん、俺はめちゃくちゃ気にするけどな…この箸を後で部屋に飾ろうか検討してるぐらいには気にしてる。
でもなぁ…こんなキモいことバレたら困るし、ここは何も気にしてない体でいこう。
「いや、全然気にしない。全然大丈夫。全然」
俺がそう返すと、一度沈黙が生まれた。
それから、志津見は少し下の方を見て、なんだかつまらなそうな表情を見せる。
「……そう…」
え、これは…どういう意味なんだ…?でもつまらなさそうにしているのは確かだし…
「あ、いや、えっと全然気にしないってのは実は嘘で…その、関節キスになるよなーとか思って…結構…というか、かなり気にしてました…」
本音を明かすと、志津見はこちらにパッと顔を向けた。
「…なにそれ、気にしてたんだ。きもい」
そう言いながらも、その表情は笑顔に見えた。
てか、"全然"のところだけ訂正すればよかったな…なんでバカ正直に色々言っちゃったんだよ俺…
「うん、そういう感じってことだ…」
こういう時はもう開き直ってしまえ。
「気にするだけで嫌とかはない?」
志津見は言いながらこちらの顔を覗き込む。
そういうとこちゃんと確認するの偉いな。
「嫌とかはないな…」
「じゃあ遠慮なく箸使わせてもらうね」
「おう…」
俺の言葉を聞くと、志津見はすぐに箸を手に取った。そしてトンカツに手を付ける。
「ん、めっちゃ美味しいじゃん。ママのと同じ味する」
言いながら、志津見はうんうんと頷いている。
てか、え、志津見ってママ呼びなの?可愛いかよ。
「まあ、美味しいなら…良かった」
純粋に褒められると嬉しいよりも照れくさいが勝つな…
それに、よく考えたら家族以外と一緒にご飯食べるの初めてだし、しかも女子だし…なんか緊張してきた…
「あ、てかさ」
俺の気持ちなんて露知らず、志津見は何も気にすることなく口を開いた。
「凪紗に謝るの今日にしたら?」
「今日?でも涼川はまだ体調悪いんじゃ?」
「もう良くなってるってさっきLINEで言ってたよ」
「なるほど…」
「私、先生からプリント渡すの頼まれてるから。それを代わりに花川が届けて、そこで一緒に謝れば良いんじゃない?」
志津見は俺の顔を見つめながら、返答を待っている。
「…じゃあ、涼川が俺に家を知られても良くて、俺が実際に行っても大丈夫、って感じなら…そうしたい」
自分の知らないところで家バレしてたら涼川も嫌だろうしな…
「わかった。じゃあ花川がプリント届けても良いか凪紗に聞いてみる」
「…助かる。ありがとな」
「凪紗"いいよ"って」
「いや、早くね?」
五秒も経ってねぇぞ…
しかし、志津見が見せるスマホ画面には、確かに「いいよ」と返ってきていた。
「…あ、やっぱ無理かもって」
志津見は手元に戻したスマホから目線を落とした。
…まあ俺がプリント届けに来るって、やっぱり嫌だよな…こればかりはしょうがない。
「あ、良いよって。やっぱり」
そう発した志津見と目線が合う。
「…なんだ、結局良いのか」
俺は志津見の報告に安堵しながらも、同時に緊張し始めていた。
どう切り出して謝るのが良いだろうか?とか、ちゃんと伝えられるだろうか?とか、そんな不安が頭に浮かんでいる。
それを察したのか、志津見は俺の少し近くに座り直すと、言葉を発し始めた。
「大丈夫。二人とも割と付き合い長いんでしょ? あと凪紗は優しいから緊張しなくてもいい」
目が合うと、志津見は小さく頷いた。揺れる前髪から覗く瞳、それが伝える言葉は確かだった。
「あぁ、まあそうだな。…なんか色々ありがとな」
「うん。じゃあ、あとは無理せずに」
志津見は言うと、手をスッと差し出した。
前回は間違えてしまったが、これはハイタッチを待つ手だということを俺は学んだ。だから、もう間違えない。
「おう、頑張るわ」
言いながらハイタッチをしたはいいものの、志津見の表情を見るにそれはどうやら間違いだったらしい。
「…私は握手のつもりだったけど…」
珍しく気まずそうな表情が、こちらをジトッと見つめている。
「…まじかよ」
また間違えたの恥ずかし過ぎるだろ。
「前回は花川が握手と間違えてたから…今回は握手にしようって思った…」
頬に手を置きながら返す言葉には、自信がない。
「…あー、俺はその逆で、今回はハイタッチだろうなって…」
まさか志津見の方も同じように考えているとは思わないだろう…
それから少しの沈黙があった後、志津見は小さく吹き出した。
「…なんなの」
いつもの教室での姿とは程遠く、ただ楽しそうに笑う姿が印象的だった。
「…なんか二人して馬鹿みたいだな」
言いながら俺までも吹き出してしまう。
こうして人前で気兼ねなく笑うことが出来たのは久しぶりだ。
「…じゃあ、今度はちゃんと握手ってことで、今もう一回やってもいいか?」
お互いが落ち着いたところで提案してみると、志津見は小さく頷いた。
「いいよ」
そうして再び差し出された手を、俺はしっかりと握るのであった。
…………
京成津田沼駅近く。閑静な住宅街にある一軒家の前で一人、ただ立ち尽くしているだけの男。
こんな不審者は一体誰なのかと言うと、俺である。だが、やましいことは何もしてない。いや、本当にね?
あれから、五、六時間目の授業を終えた俺は、志津見に言われた住所に一人で来ている。
目の前に見える表札に刻まれているのは「涼川」という名字。そう、涼川の自宅だ。
白色の壁に、黒っぽい屋根のシンプルなデザインをしている。その外観を見るに、建てられてからまだ数年しか経っていないようだ。
…よし、そろそろ行くか。…いや、やっぱりまだいいか。
さっさとプリントを渡して、学校でのことを謝れば良いわけなんだが、その前に心の準備をしておいた方が良いだろう。何事も準備をすることは大切だしな。あと十分、いや三時間くらいはこのままでも良い。
とは言え、こうしてずっと日なたにいると、かなりの暑さを感じてしまう。今日は梅雨前の高気圧に覆われた晴れの日。弱く吹く南風は涼しさを運ぶこともなく、体に湿気を纏わり付かせるだけだった。
「あー、蒸し暑いな…」
うっかりそう小さく零すと、同時に涼川の家のドアが開いた。
え、ちょっと待ってくれ。まだ心の準備が出来てない………ってあれ…?
ドアからひょこっと顔を覗かせたのは、涼川ではなかった。
…いや、まあ涼川の家から出てきた人は多分涼川ということになるんだろうが、目の前の涼川は俺の知ってる涼川ではない…
うん、一文に涼川が多過ぎてややこしいな。
顔付きに関してはだいぶ涼川に似ているが、幼い女の子で、幼稚園の年長ぐらいかというところ。
よし、とりあえず涼川ジュニア(仮)としよう。
涼川ジュニア(仮)は顔だけ覗かせたまま俺をしばらく見ると、急にぱあっと笑顔を見せた。お、笑った顔まで涼川に似てる。
なんて思っていると、涼川ジュニア(仮)はたーっと近くまで駆け寄ってきた。そして、そのまま腕をガシッと掴んで、離さない。
え、なんで?
「えっと、な、なにかな?」
小さい子との接し方は本当にわからない…どうしたら良いんだ…
「おにーさんが「はなかわくん」でしょ!おねえちゃんがいってたひと!」
涼川ジュニア(仮)は元気ハツラツに言いながら、俺を指差している。お姉ちゃんと言うからには、涼川ジュニア(仮)は涼川の妹ということになるのだろう。涼川も前に妹いるって言ってたし。
うん、てことで呼び方を"涼川妹"に変えよう。
「そ、そうだね。その「はなかわくん」で合ってるよ…」
俺は言いながら、低くしゃがみ込む。
確か、子供と話す時は目線を合わせた方が怖がらせないとかなんとかだったはずだ。
「わたしは紗蘭だよ!さあちゃんってよんで!」
どうやら涼川妹の名前は、涼川紗蘭と言うようだ。
「…わかった、さあちゃんって呼ぶね…」
子供相手には逆らえない…呼んでと言われたら呼ぶしかないだろう…
そして、涼川妹は俺の言葉を聞くと、ふむぅ〜と満足気な表情をした。
「じゃあ、いっしょにきて〜」
「あ、ちょっと」
言いながらも抵抗は出来ず、涼川妹に連れられるまま、涼川の家に入ってしまった…
「……お邪魔します…」
一応小さくでも挨拶はしておこう。
ところで、「お邪魔します」の「お」を取ると、「邪魔します」になって、なんかサイコ感溢れるね。
まあ別になんでも良いか。
俺はそのままリビングまで連れられ、言われた通りの椅子に腰を下ろした。
うん、勝手に家に入るのはやばいな…涼川にバレたら逮捕案件だ。早く出ないと…
そう思いつつも、涼川妹の楽しそうな様子を見ると、出ようにも出られない。困った。
「きょー、はなかわくんくるっておねーちゃんがいってた!だからおでむかえしたの!」
涼川妹はきゃっきゃと得意気に話している。
「なるほど…それはありがとう、嬉しいよ」
言いながら頭を優しく撫でると、涼川妹は元気な笑顔を見せた。
「でしょ!」
「あ、でも、一つだけ…さあちゃんが知らない人にはあまり声をかけない方が良いかもしれないね…もしかしたら怖い人かもしれないし…だから、声をかけるのはさあちゃんが知ってる人だけにしてくれると、お兄さんも嬉しいかな」
うん、自分のことお兄さんって言うのめっちゃ違和感あるな…でも、だからっておじさん呼びは流石に俺が可哀相。まだ17歳だしな…
まあこれはこれとして、涼川妹のことは本当に心配だ。知らない人に声をかけるのはやめてもらわないと…もし事件に巻き込まれてしまったら、それは取り返しがつかなくなってしまうからな。
「わかった!しってるひとだけにこえかける!」
涼川妹はそう言いながら、元気に手を上げた。素直な子で良かった…
「おう、偉い」
もう一度頭を撫でると、涼川妹は得意気にこちらを見た。
それからしばらくして、トントンと腕を叩かれる。
「ねーはなかわくんって、したのなまえなに?」
そう訊ねる姿は、好奇心に溢れているようだった。
「幽霊の幽で"かすか"って名前だよ」
そう答えると、涼川妹の顔はパッと明るくなった。
「かーくん!かーくんとさあちゃん!」
涼川妹は言いながら、交互に俺と自身を指差している。それを何度か続けて、その度に笑顔が増える。
うん、こう見ると子供は可愛いものだな…
「てゆーか、かーくんはおねーちゃんとつきあってるの?」
付き合うとかもう知ってるのか…最近の子供はませてるな…
「付き合ってるとかはないかな…ただのとも、友達だよ…」
そう返すと、涼川妹は「え〜」と残念そうにして頬を膨らませた。
てか、涼川のことは友達って呼んでもいいよな…やっぱり知り合いの方が良かったか…?
「じゃあ、きょーはなんのようじできたの?」
「今日は学校からの手紙を届けに来たんだよね。あとごめんなさいしないといけないこともあってね…」
俺の言葉を聞くと、涼川妹は目を丸くさせた。
「え、うわきのしゃざい?!しゅらば!」
食い気味にこちらを見つめたまま、俺の言葉を待っている。
「お兄さん浮気はしないよ…」
まあそもそも付き合ってすらないからな…
「え〜」
うん、こんな小さい子に昼ドラの知識を植え付けたのは誰なんだ…
それから、涼川妹は急に何かを思い出したのか、「ねぇねぇ」と言葉を続けた。
「じつはね、わたしとおねーちゃんのなまえってつながってるんだよ!かんじがいっしょだから「なぎさあら」になるの!」
要約すると、「凪紗と紗蘭で「凪紗蘭」になるよ!」ということね。なにそれ、とてもすごい。
「へ〜すごいねぇ〜」
涼川妹が嬉々と話す姿を見ると、なんだか俺の隠れ母性が溢れ出てしまいそうになる。
てか感想短過ぎたかな…すごいしか言ってないし…
「でしょ!」
まあ、この笑顔を見る限りは大丈夫か。
だが、そう安心出来たのも束の間、唐突にリビングのドアが開かれた。
「さーちゃーん?そろそろ花川く─」
あくびをしながら入ってきたのは、涼川である。一応言っておくと、凪紗さんね。
そして、涼川は俺を見るなり、急に固まってしまった。
普段のきっちりと着こなされた制服の姿とは違い、ダボッとしたゆるい家着に着せられているような雰囲気。
うん、なんだか新鮮だ。そして少しはだけた胸元からは、何とは言わないが、見えそうになっている。
いや、それよりもこの状況を説明しないと。
「あ、えっと」
弁解を試みるが、それは涼川の言葉に遮られた。
「あ、説明しなくても大丈夫だよ」
俺が何も言わずとも、涼川は状況を何となく理解したようだ。そして一つ息を吐くと、涼川妹に向かって言葉を発した。
「さあちゃんが花川くんを家に入れたのー?」
「そーだよ!」
そうして涼川妹が元気に返す様子を見て、涼川は少しムッとする。
「もー!勝手に家の中に人を入れちゃだめでしょ!」
やっぱり涼川は"ママ"って感じがすごいな…年齢差も相まってそういう若ママに見える。
「はーい、ごめんなさい」
涼川妹は軽く返事をして、小さく頷く。それを見ると、涼川はこちらに顔を戻した。
うん、さっきも言ったけど服がはだけていてとても良くない…俺の精神に。
「花川くん、妹がごめんね〜……って、うわ!」
涼川もようやく自分の状態に気がついたようだ。
「髪の毛ボサボサなままだった…ごめん!ちょっと待ってて」
いや、そっち?
言いながら涼川は自分の部屋の方へと足早に戻った。
こちらとしては服装とかも一緒に直して戻ってきてもらえると、とても助かるんですけどね…
「ごめん!お待たせ」
しばらくすると、涼川はリビングに戻ってきた。
うん、服は直されていなかった。残念なのにちょっと良かったなとか思ってる自分、さっさと死んでくれ。
「それで…プリントだっけ?」
「あぁ、週明けには出さないといけないやつ…一応早めに渡しといた方が良いって感じだ」
「なるほど…ありがとね」
「…あと、少し謝りたいこともある…」
涼川は俺の言葉に少し目を見開くと、数秒して言葉を返す。
「そうなんだ…わかった。じゃあ私の部屋行こっか」
え?涼川の部屋?
「さあちゃんはここで待っててね」
「はーい!」
うん、相変わらず涼川妹は聞き分けがよろしいな。
でも俺は聞き分けよくないぞ…涼川の部屋とか無理だ…女子の部屋なんて入れない…
「花川くん…きて」
そう発する涼川の、手招きと意味ありげな視線。
いや、意味ありげに見えるのは俺の邪念のせいだろう。
そもそも、涼川は二人で話すために、部屋に来てほしいと言っている。なら、気にする方がおかしいんだ。
「わかった…」
言われるまま涼川に付いていったが、俺はドアの前で立ち止まっている。
緊張というのもそうだが、"普通に俺が汚い"という理由で、部屋に入るのが申し訳なさ過ぎる。
「あれ?入っていいよ?」
涼川はドアを少し開けると振り返り、小さく首を傾げている。
「えっと…俺たぶん汚いし…一回帰ってお風呂入った方が良いというか…」
「え〜!全然気にしなくて大丈夫だよ…ほら、入って」
まあ、ここで立ち止まってるわけにもいかないか…
「…わかった」
そうして涼川の部屋に入ると、途端に大量のアニメグッズが目に飛び込んできた。
「…あ、グッズすごいな」
うん、なんか緊張してたのは全部どっか行った。オタクの部屋って思うと急にスンってなったわ。
「気づいたらこんなに溜まっててさ〜困っちゃうよね」
涼川はそう言いながらも嬉しそうだ。
部屋の壁は女子キャラのポスターやタペストリーで埋め尽くされ、フィギュアと小物も至るところに飾られている。
「どれもラブコメの女子キャラばかり…」
「恋する女の子は可愛いも〜ん」
涼川はそう言いながら、フィギュアの頭を撫で撫でしている。
「おぉ…まあ、それはわかる」
にしても…涼川って結構ガチなアニオタだったのか。
俺はまだ涼川の域には達していないな…。多分"ラブコメ好き"で括られる範囲にいるだろうし。
だから、俺をオタクと呼ぶのは、熱中度的に違っている気がする。
まあ、キモオタとかの悪い意味でなら、間違いなくオタクだろうけど。
「あ、適当に座っちゃって大丈夫だよ」
「あー、ありがとう」
とりあえず、俺は体育座りで床に座った。それもドアのすぐ前。カーペットがぎりぎりないところだ。
床は拭いたりできるけど、カーペットは洗濯しないといけないしな。
「…え、なんか遠くない?」
ベッドに腰掛ける涼川との距離は、だいたい二メートル程。うん、確かに遠いな。
「もっとこっち来て良いよ?」
「いや、俺は…」
…あ、待て。俺のこういうところが、"気にし過ぎ"って思われるところなんじゃないか…?
状況を整理すると……涼川に「良いよ」と言われているのに、自分の判断で迷惑だと決めつけ、遠慮している。謙遜のつもりで、結局自分の考えだけで動いている。
うお、客観的に見たらまじきもいな俺。ほんときめぇ〜しね〜戸籍から即削除希望!
そもそも今日だって、自分のそういう神経質が引き起こした問題の謝罪をしに来たんだ。
なら、少しづつでも意識を変えていかないと。
よし。
「…じゃあ、ここ良いか?」
一メートル程距離を詰め、カーペットの上に腰を下ろす。
すると、涼川の表情は満足気なものへと変化した。
「全然良いよ〜!」
ふぅ~、勇気出して良かった…
「あ、涼川って体調もう大丈夫なの?まだ違和感ある感じなら、プリントだけ渡して今日は帰るけど」
気にし過ぎは治さなきゃいけないし、過度な気遣いもそれは良くないことだ。しかし、こうして最低限の気遣いをすることは、人として忘れてはいけないだろう。
「私は平気だよ。お昼前に起きた時には、体調も普通に戻ってたし。だから全然大丈夫だよ〜!」
この「大丈夫」は本当に大丈夫な時のやつだな。うん、涼川の体調が回復したようで何よりだ。
「良かった。えっと、これがプリントだけど…」
「ありがとね〜」
涼川はプリントを受け取ると、そばにあったクリアファイルにそれをしまった。
プリントを渡し終えたということは、俺は次のフェーズに移行しなくてはならない。
謝罪フェーズだ。
「…あ、えっと……その、さっき言った謝りたいことなんだけどさ…今言って良いか?」
「良いよ。聞かせて」
涼川はベッドから立ち上がると、俺のすぐ横に座り直した。
その姿を見て、俺は一度深呼吸をする。そして、十分に心を落ち着かせると、覚悟を決めた。
「えっと、その『他の人に見られるのが嫌だから教室で話しかけないでほしい』って言ったやつだけど…それの理由が本当は違くて…涼川みたいに普通の女子が、クラスで俺みたいな変なのと話してたら悪影響になるかなって。涼川にも前に話した、俺が小学生の時のあの出来事も頭に過ぎって、また同じことが起こるんじゃないかって思ったのもある。それで、"話しかけないでほしい"って言った。
だけど、俺の行動って自分の考えにしか目が向いてなくて、涼川が俺と話そうとしてくれていた事実を無視してたって気がついた。だから、ごめん」
俺が小さく頭を下げると、涼川は真剣な表情で一度小さく頷いた。
「あと、こうして謝ったからには、"教室で話しかけないでほしい"っていうのは、もうやめる。だから、涼川が話しかけてくれたら俺は普通に話したいし、涼川さえ良ければ、俺も話しかけたいと思ってる…………んだけど、どう……だろう…?」
「…なるほどね」
涼川は下の方を向いており、その表情がどうなっているかはわからない。
「えっと……」
俺が沈黙に耐え切れずにそう零すと、涼川は唐突に顔を上げ、被せるように言葉を発した。
「花川くん!」
突然名前を呼ばれ、俺は小さく慄いてしまう。
「あ、はい、」
涼川の表情はムッとしており、眉はキュッとひそめられている。
「許しません」
涼川は険しい表情のまま、そう言い放った。
「え?」
涼川なら許してくれるだろうと思っていただけに、思考が一瞬停止してしまう。
「だって…藍咲とは普通に話してるし仲良さそうにしてるじゃん!藍咲良い、私だめ、そこ納得いってない」
涼川は言うと、ビシッと指差した。
あ、"志津見は普通の人じゃないから気にせず関われる"って言うの忘れてた。
まあでも、どうやら涼川が本気で怒ってるわけじゃなさそうなのは良かった。
「いや、志津見は…」
「私はさ!花川くんと一年以上の関わりあったけど!藍咲なんてせいぜい一ヶ月じゃん!」
その言葉はまるで何かのラブコメヒロインのよう。理由はイマイチわからないが、涼川が怒った振りをしているというのはよくわかった。
「ネッ友がクラスにいる奇跡は、ぽっと出一ヶ月の女の子に負けるんだね?私なんてどうでもいいんだね!?」
言い切る瞬間、床を両手で叩き、タンと音がした。
すごいな…このあからさまな演技感…
「冷静に考えてさ、ネッ友がクラスにいるなんてさ……あり得ない確率、ヤ○チャが天下一武道会で一回戦突破した時ぐらいあり得ないよ」
うん、有名なやつ出てきた。なんか最後の方だいぶ加速してったし…
「…あ、まあそう…かもね」
まあ、ここは突っ込まないでおこう。
「ラブコメの世界だったら花川くんが主人公で私が絶対正ヒロインじゃん!なのに私の影めっちゃ薄くて悲しかったんだけど!」
涼川は相変わらず白々しく、怒ってみせている。
でも、例えがラブコメの例え過ぎてわからない。と言いたいところだったが、俺もラブコメ好きだから言いたいことはとてもよくわかる…
「てか、私の影薄くて悲しかったのは本音ね」
あ、そこは本音なんだ。うん、急に真顔になられたからびっくりした…
「…はい、すいませんでした…」
「…あれだね、これから私なんか置いて藍咲と二人で仲良くなっちゃうんだよね」
涼川はまたも、先程の演技感満載の話し方に戻ると、わざとらしく瞬きをしている。
それから少し下の方を向きながら、言葉を続けた。
「一年の付き合いがあっても別に関係ないもんね…私より藍咲の方が良いもんね…そうだよね、私のことはもういらないってことだよね…やっぱり藍咲は面白いけど私は微妙でつまんないもんね…」
また早口になってるな…
「いや、全然そんなことはないです…涼川さんもとても面白いです………てかこれいつまで?」
そう問うと、涼川は少しの間を置いてから小さく吹き出した。
「…ごめん!急に思いついてヒスってみたら、なんかそのまま楽しくなっちゃって!」
涼川はそのまましばらく笑い、それを終えるとこちらに姿勢を向き直した。
「はい!じゃあ、もう女の子タイムは終わりです!」
女の子タイム?なんだそれ?
「…え、なに今から男になるの?俺どっか行ったほうがいい?」
まさか涼川が両性だったとは…
「いや、違うよ!さっきみたいにヒスッたりする時間を終わりにするってことだよ!」
前で両手をブンブンと振って、必死な様子だ。
「あぁ…なんだ。びっくりした」
「うん…それで話戻るけど…花川くんが藍咲とは普通に話してる理由は、藍咲はあんな感じで振り切ってるから?」
涼川は乱れた前髪をぽんぽんと直しながら、こちらに目線を向けた。
にしても、涼川は色々と理解が早いな…こういうところが涼川のクラスでの立ち位置を作っているんだろうな。
「まあ、そんな感じだな。志津見は既に浮いてるから、周りをさほど気にしなくてもいいかなって。それで普通に話してるわ」
「なるほど、りかいした…さっきも言ったけど、それで結果的に私の影薄くなってたのは、本当に悲しかったからね…?」
口をキュッと閉じて、涼川は俺の顔を覗き込んだ。
「はい、それは本当に申し訳ありませんでした…」
涼川は顔を戻すと、そのまま言葉を続けた。
「なんか"友達と友達と会わせたら、自分とよりも二人が仲良くなっちゃった"みたいな、そんな感じした…藍咲だって普段はほとんど笑わないのに、花川くんと話してる時は結構笑ってたし…」
少し口を尖らせ、言葉はボソボソと呟かれている。
「…花川くんだって、自分の友達が他の友達と仲良くなってたら多分モヤモ…あ、」
「いや、そこまで言ったならもう最後まで言ってくれよ…」
気を遣われたら余計に悲しくなっちゃうだろ…
「…まあ、俺は逆の立場の話をされてもあまりピンとこないな…」
他の友達いないし。
「じゃ、じゃあ私のこと話すけどさ…少し前の夜は悲しくて…一人で泣いたよ…?」
唐突な言葉はだんだんと小さくなり、その顔は少し下を向いた。
「…え?」
じゃあ、やっぱり志津見の言っていたことは…
「うっそー!冗談だよ」
涼川は「ドッキリ大成功!」と言わんばかりに、満面の笑みを見せた。
「……なんだ…そういう心臓に悪い冗談はやめてくれ…」
志津見の言っていた冗談と一致するのは流石だな…二人の仲が良い理由も少しわかったような気がした。
「…ごめん、でもこれぐらいの意地悪はしてもいいよね…?」
伺うような視線は、ジトッとこらちに向けられている。
「まあ、うん…俺の勝手な判断で、涼川に嫌な思いさせてたのは事実だし…許してもらえるまでは償うつもりだ…」
「律儀だね…でも、もう許してるから安心して。本当は最初の説明で事情も無事に理解出来て、ちゃんと許してた」
「あ、そうだったのか……ん?あれ、じゃあさっきまでの意地悪はなぜ…」
許している人は意地悪とかしてこないような…
「ゆ、許してはいたけど、ちょっと意地悪しないと気が済まなかったから」
涼川は矛盾に気がついたのか、ハッとした表情で言葉を並べた。
「それは許してる…のか?」
「細かいことは気にしなくていいから!」
言いながら俺の肩をぽんぽんと叩き、この話を終えるように促している。
「わかりました…」
「うん。じゃあ最後に確認だけど、これからは教室で話しかけても良いってことでよかったんだよね?」
涼川はこちらに姿勢を向き直し、真剣な眼差しでこちらを見つめている。
だから、俺もそれに応えるように、真面目な言葉を返す。
「そうだな。周りを気にして話さないようにするとか、そういうのはもうやめるって決めたから」
「…そっか、わかった」
そう言って深く頷いた頭は、そのまま上がらない。
だが、しばらくすると、それは唐突に上げられた。
「だからと言ってはなんだけどさ。私も変わる」
その言葉が放たれた途端、周りの音が消えさったように感じた。
涼川の見つめる視線は少しもズレることなく、確かな言葉を伝えている。
その言葉が示す意味はまだわからないが、それが本気だということはよく伝わってきた。
「…変わるって…何を変えるんだ…?」
「私の中途半端なとこ。オタクっぽいところをわざわざ隠して、周りに合わせて、無難でいようとするところ」
涼川は言いながら、視線をどこか遠くへ向けた。それはまるで別の誰かに向けられているかのようだった。
そして、一度深呼吸すると、目線を再びこちらに戻した。
「花川くんが教室で話してくれなかった理由は、そこにあるんだよね。私さっき気持ちで文句言っちゃってたけど、文句言う権利なかったと思う。だから、ごめんね」
申し訳なさそうな目が、こちらを見つめた。
「いや、大丈夫…別に謝らなくても大丈夫だ…。それに、無理して変わらなくても良い。涼川は今のままでもいい。俺が教室で普通にするって決意したから、それで涼川が変わる必要はなくなる。だから、涼川が変わらなくても問題はない」
涼川の決意が本物だとしても、俺には不安が残っている。
もし、俺が涼川の罪悪感を刺激して、結果として変化を決意させているのなら、それはあまり良くないだろう。
その可能性を排除できない今、手放しで応援することは出来ない。
「ううん、問題あるよ」
涼川は遮るようにそう発した。そして、決して迷うことのない言葉が、確かに紡がれた。
「だって、花川くんの過去があれば、私に気を遣っちゃうことぐらいわかるから。それをやめる花川くんの決意に甘えるのは…出来ないよ。それはしたくない…」
涼川のその言葉でわかった。
彼女は罪悪感から変化を決意したわけではない。それは決して義務的なものではなく、涼川が前に進むための思いやりで、明確な本人の意思であると。
俺が涼川を大事にしたいと思うように、涼川も俺を大事にしたいと思っていてくれたのだ。
「…そうか」
「私が変われば、花川くんも私も、普通に話せる。だから、変わりたいよ」
「…本当に、涼川は現状を変えても大丈夫なのか…?」
そう問うと、涼川は目線を合わせ、一つ深呼吸をした。
「私はずっと変わりたかった。けど、変われなかった。だからきっかけが欲しくて…そのきっかけをもうもらったから大丈夫。花川くんのためだけじゃなくて、私のためにも、私は偽る自分をやめるよ」
言い切る時のその表情はただ笑顔で、涼川には一切の迷いすらもないんだと安心した。
「…そうか」
この世の中、偽ることが悪いことのように捉えられるが、偽ること自体は別に悪くもないんじゃないかと俺は考えていた。
全てを曝け出すことが絶対に良いってわけでもないし、 むしろ全てを曝け出すことはあり得ない。だから偽る部分があったって良い、と。
仮になにか自分を偽っていると感じていても、そうして隠したいと思うことは結局その人の本心だろうし、そこまで全てを含めて、ようやく一人の人間が捉えられる。
だから、涼川が今の状態を偽りだと思って、負い目を感じる必要はないと思っていたし、今の涼川から無理に変わってほしいとも俺は思わなかった。
でも、涼川の"変わりたい"っていうのが、そういう何か義務感からのものじゃなくて、涼川自身が求めるものだとわかった今、止める理由はなくなった。
現状の自分を認め、その上で自ら変わりたいと感じた時に、人は変わることが出来る。
だからきっと、今が涼川の変わる時なんだろう。
「…涼川が変わりたいなら、俺は応援するよ」
「そっか、ありがとう。…あ、あと、花川くんだけ変わろうとして、また私だけ置いていかれるのやだから…言っておくね」
涼川は言い切ると、ニコッと笑う。それから唐突に俺の手を取ると、ギュッと握りしめた。
「それとさ、誰が誰と話してるとかでイチャモンつけてくるような人は、うちのクラスにいないと思う。だから、花川くんが心配してるようなことは起きないよ」
手に伝わる温もりと涼川の優しい表情が、その言葉に安心感をもたらせた。
実際、クラスの奴らが悪いやつなのかと問われると、そんなこともないような気はする。
クラスの雰囲気もそうだが、特に誰の性格が良くないだとかそんな風に思ったことはない。
性格が悪いやつなんて、ぱっと思いつくのは俺ぐらいだ。
涼川の周りにいる陽キャ女子なんかは確かに怖く感じるが、冷静に考えてみれば、それはただ怖いだけでしかなく、性格は悪くもなさそうだ。
こうして思い返してみても、クラスにいる人間は皆普通で、他人に危害を加えようとすることはないように思える。
やはり、俺の過剰な自意識が冷静な状況判断を阻害して、結果的に自滅してしまったに過ぎないのだろう。
問題を作ったのは俺で、その問題にぶち当たったのも俺で、そこで砕け散りそうになっていたのも俺ということだ。
いくら冷静に考えを巡らせていたつもりでも、そうしてよく考えることが正しい答えの先に導くわけじゃない。
そんな当たり前のことを、再度認識させられることとなった。
…あぁ、俺は本当に馬鹿なやつだったんだな。
「……まあ、それもそうだな」
言いながら笑みを零しているのが、自分でもわかった。
「うん!」
涼川は掴んでいた手をそっと離すと、元気よく頷いてみせた。
…そういえば、何気にもう結構時間経ってるな…あんまり長居するのも良くないし、帰るか。
「…てか、そろそろ俺は帰ろうかな…」
「あ、そうだね!今日はありがとうね」
涼川は一度時計を見ると、そのまま立ち上がった。
「こちらこそ、話したいことを話せたし、急に家に入れてもらうことになったりで…ありがとう」
俺もゆっくりと立ち上がり、荷物を肩にかける。
「全然大丈夫だよ!私もモヤモヤしてたの解消出来たし、自分のことも覚悟出来たから、話せて良かった」
言い切ると、涼川はふふんと小さく笑った。それは過ぎ去った春風をふっと呼び戻すかのようで、自然と見入ってしまった。
「…じゃあ、玄関行こっか」
「あ、おう…」
危ない、危ない。涼川の爽やかさに気を取られてしまっていた…
それから玄関まで行って靴を履き終えたところで、後ろから声がした。
「かーくん!」
声の主は涼川妹だ。
「またきてね!」
そう呼びかけながら、小さな手を大きく振っており、その姿は愛らしい。
「うん、また」
俺はそう言いながら、小さく手を振り返した。
いや、待てよ…これだとまた涼川の家に行くってことになっちゃうな。だから…
「また、会おうね」
よし、これで大丈夫だ。
「うん!」
涼川妹が元気よく返事したのを見計らい、ドアをゆっくりと開ける。
一応、最後に涼川にも挨拶しておいた方が良いか。
「じゃあ、また学校で」
「また学校で」なんて言い慣れない言葉ながら、それがスッと口から出たことには少し驚いた。
「うん、またね」
涼川がそう返すのを見届け、俺は涼川家を後にした。
あ、志津見には今回の件をちゃんと報告しておくか。
「涼川に謝れた。あと仲直り?も出来たわ」
そう送り終え、スマホを閉じようとしたところで、返信がくる。
「ナイス」
淡白な一文、というか一単語。
それでも、不思議とその返信にどこか温かさを感じてしまった。
対して、辺りはすっかりと暗くなっているためか、当たる風は涼しさを覚えさせる。それは、日中の暑さが嘘だったかと思うまでに。
こうして一人になると、色んな事が頭に浮かんでくる。
夜ご飯はどうしようとか、今日は何のアニメ見ようだとか、とにかく色々。
そんな考え事に一つ混じり、疑問が浮かんできた。
涼川は"偽る自分をやめる"と言っていたが、実際どんな風に変わるんだろう?
うーん、想像つかないな…