002『はじまり』
轟々と燃え盛る炎。
鼻の奥を刺すような、強烈な血の匂い。
そして痛みに、目を覚ます。
「う、っ……」
転生……したのか?
だとしたら、最悪な目覚めもいい所だ。
シュメル・ハート。
男爵家の長男、三歳。
王都へと出かけた帰りの馬車の中。
気づけば意識を失って、目が覚めて今に至る。
三歳児の記憶を頼りに、痛む頭を押さえる。
額から血が流れているのかな、片側の視界が赤い。
「シュメル!? だ、大丈夫? 怪我は……!」
「母上……、な、にが?」
必死に僕を呼んでいる母親に問う。
視界の端では、横転した馬車が轟々と燃えていて、護衛の騎士が血の沼に沈んでいる。
母の姿を見るが、僕同様に傷だらけだ。
生々しい血の跡に。
母親の傷だらけの姿に。
喉の奥から、声にならない悲鳴が漏れた。
「魔物の襲撃です! お二方はお逃げを……!」
騎士の一人が駆け寄ってくる。
騎士の息は荒く、顔の半分は血に染まっている。
その姿には母も息をのむが、硬直は一瞬だった。
「ストリアは!? あの人がいれば」
ストリア・ハート。
ハート男爵家の現当主。
詳しい話は三歳児なので知らないが、二メートルを超えるほどの偉丈夫で、平民から腕っ節一つで貴族にまで上り詰めたとか、聞いた覚えはある。
当然、強い。
少なくとも僕の目には、どの騎士より強く見えた。
なんだったら、護衛の必要ないんじゃないかってくらい、護衛される本人が強いのだ。
母は、咄嗟に父の名前を出した。
あの人がいれば、魔物くらい、と。
ただ、そう言い切るより先に、僕たちの目の前へと、見覚えのある肉の塊が飛んできた。
――それは、父の腕だった。
「ひっ」
喉の奥から、悲鳴が盛れる。
視線を、腕の飛んできた方向へと向ける。
そこには、半ばから先が消えた右腕を押さえ、膝をつく父の姿。……腕だけじゃない。顔にも、足にも、多くの生傷を残し、素人目にも満身創痍にしか見えなかった。
彼は肩で息をしながら、目の前の見上げるほどの巨大生物を睨んでいる。
その生物は、まるで悪魔のように見えた。
山羊の頭に、人の上体。
馬の下半身に、蝙蝠のような翼。
……気づけば、奥歯がカタカタと鳴っていた。
前世で、一度死んでいるから、だろうか。
ここに来て、あの気配が背筋を這うのが分かった。
――これは、死だ。
言い表せようもない、純粋な死の気配。
禍々しくも、避けられようもなく強烈で。
人の意志など知ったことかと理不尽に襲い来る、死。
……間違いない。
あの悪魔に立ち向かえば、僕は死ぬ。
いや、僕だけじゃない。
今まさに、片腕を失った父も。
傷だらけになりながらも奮闘する騎士たちも。
みんな、ここで逃げなきゃ死んで終わる。
現にこうしている今も、一人、また一人と騎士が殺されていく。
話した覚えのある人も、遠目にだけ見た覚えのある人も。
みんな等しく、僕らを守るために散っていく。
その血しぶきに、今わの際に僕を見つめる決意に満ちた瞳に。
されど僕は、あまりに恐怖に動けない。
「……っ、逃げますよ、シュメル」
「は、母上……」
母から声がかかって、思わずそちらを振り向く。
そして、思わず目を見開いた。
彼女は口の端から、血を流していた。
血を流すほど強く、唇を噛み締めていた。
それほど悔しくて、辛くて、でも、どうしようもなくて、諦めて、色んな感情に蓋をした女性の表情だった。
生まれて初めて見る母の表情に、胸が苦しくなった。
「そ、そうだ、反転……僕の、魔法なら!」
咄嗟に、打開策を探す。
思い出したのは、転生時に選んだ能力のこと。
そもそも、この王都行きも教会で僕の魔法を判別してもらうために決まったものだ。
両親も、僕の魔法についてはもう知っている。
……知った上で、きっと母も父も、この決断を下したと、心の底では理解していた。
「……シュメル」
「……っ」
反転の魔法。
その強さは、転生時に知っている。
けれど、この肉体は三歳児のもの。
生まれた時から準備していた訳でもない。
ただ漠然と生きてきただけの、三歳児。
そんな体に、今更前世の意識が蘇ったからって。
……魔法の使い方なんて、分かる、わけもない。
宝の持ち腐れ。
これ以上ないと言うほど、この言葉が身に染みる。
「あの人が……ストリアが命をかけているのは、私たちを守るためです。なら、その命を無駄にはしないのが私たちの役目。生き延びねば、何としても」
母がそう言うと、騎士の一人が僕の体を抱き上げた。
「ま、待って! 待ってよ……ねぇ!」
叫ぶも、母の決意は揺るがない。
必死に父へと手を伸ばすけれど。
遠くに見えた父は、僕の叫びを聞いて、少し笑っていたように見えた。
まるで、助けられてよかったと言わんばかりに。
最後に振り返ったその目は。
生きろ、と雄弁に語っていた。
「……父上!」
直ぐにその目は、戦士のものへと変わる。
鋭い眼光は、眼前の悪魔を睨み据える。
片腕を失ってもまだ立ち上がり。
俺が相手だと。
威風堂々と、死の前に立ち塞がる。
その背中に、涙が溢れた。
自分の不甲斐なさに、涙が止まらなかった。
どうして、どうして……!
せっかく、転生したって言うのに!
あれだけの人を犠牲にして。
たった一人、選ばれたって言うのに!
また、救えないのか。
僕は、また誰かを犠牲にして生き残るのか……!
ふざけるな、ふざけるな!
怒りが、涙に変わって頬を伝う。
けれど。
覚醒なんて、素敵な展開は訪れない。
怒りで魔法は発動しない。
悲劇は喜劇に転じない。
ご都合主義なんて、起こり得ない。
僕の視線の先で、悪魔の拳が振り下ろされる。
まるで、小さな虫を潰すように。
父の体よりも大きな拳が、その体へと振り落とされる。
けれど。
僕が、父の死を目にすることはなかった。
『……ッ!?』
悪魔は、何かに気づいた様子で拳を制止。
咄嗟に、その両腕で自身の頭部へ防御を回す。
と同時に、その全身を無数の蒼い流星が貫いた。
「……えっ?」
……それは、誰の驚きだっただろうか。
ただ、この場にいた全員が同じ気持ちだったと思う。
悪魔の全身には、十を超える風穴が空いている。
巨体がぐらりと揺れる。
されど、その命にまでは届かず。
歯を食いしばり、倒れることを拒絶する。
その眼前へと、ソラより少女が降り立った。
凍てつく雪のような、白い髪。
夜空を映すような深く蒼い瞳は感情を見せず。
人間離れした美しい容姿は、まるで人形のよう。
小柄な身体は、触れれば折れてしまいそうなほど弱々しい。……だが、この死地において、その圧倒的な存在感から誰一人として目を離せない。
『グァァァアアアアアア!!』
悪魔も、それは同じこと。
突然に現れた、白い少女。
先程、悪魔の体を穿った流星は、きっと彼女の魔法によるものだったのだろう。僕と同様に判断したらしい悪魔は、父を無視して白い少女へと拳を振りかぶる。
対し、少女は両手に握る大きな杖を、悪魔へ掲げた。
「『永久なる凍獄』」
そして、世界が停止した。
……いや、視界全てが、一瞬にして凍りついた。
あれほど恐ろしかった悪魔は、氷像へ。
父や兵士たちを除いて、森も、大地も。
一つ残らず、氷の牢獄へと封じ込められる。
「……すごい」
思わず、声が出た。
空気中の水分すらも凍りつき。
まるで輝くように、世界へと霜が降りる。
凍りついた世界で、僕はその少女から目が離せなかった。
ふと、少女は僕へと振り返る。
片手間に悪魔を屠った、白い少女。
彼女が誰なのか。
どうしてここに来たのか。
何ひとつとして分からない。
けれど。
その夜空のように深く蒼い瞳を見つめ返して。
僕はただ、その強さに憧れた。
「僕を、弟子にしてください」
気づいた時には、そう頭を下げていた。
あの日、その背中に憧れた。
胸を焦がすような、目の奥が焼けるような。
強烈な熱で心の芯に刻まれるような。
まるで、呪いのような憧れだった。
年経た今も、その背中が瞼の裏に焼き付いている。
次回『白い少女』




