026『フォルス・トゥ』
君が生まれたのは偶然で。
私が君を知ったのも、奇跡のようなもの。
でも、その出会いは必然だったんだよ。
王都武闘会。
その決勝戦が終わった直後。
シュメルは気を失い、医務室へと運び込まれた。
それを見たストリアやクラリス王女もまた医務室へと向かったため、今頃医務室務めの回復術師は胃の痛みを堪えながらシュメルの治療を行っていることだろう。
「ま、そこらへんは……お優しい君のことだ。あまり心配はしていないけどね」
王都の外。
闘技場より、数十キロ先の森の中。
佇む白い魔女に、狩人が辿り着く。
隻眼のオルド。
彼はシュメルを無傷で下した後、表彰式もすべて無視して、この場所へと駆け出した。
ストリア・ハートを上回る移動速度。
加えて、数十キロ先に佇む個人を一瞬にして察知してしまえる索敵能力。正しく『化け物』と呼ぶに相応しい性能だ。
「どしたの、お爺さん。今日はまた随分と物騒な顔をしているじゃないか」
対するは、白い少女。
その姿を見て、オルドは目を細める。
「……弟子の晴れ舞台じゃろうが。何故、師匠ともあろうものが会場に居らんのだ。フォルス・トゥ」
フォルス・トゥ。
雪のように白い魔女。
デタラメに強い、という一点以外何も分からず。
シュメル・ハートの師として、彼を守り、導き、育て上げた優秀な人材。
「なーに。闘技場には、君を含め『厄介なの』が二人もいたからね。そろそろ、誤魔化すのも限界かなーって思ったのさ」
オルドの後方より、足音がする。
振り返れば、神々しい女性が息を荒らげて立っていた。
――神の寵児、アルテナ。
彼女は額に青筋を浮かべ、オルドを睨む。
「こ、の……何を、いきなり走り出しているんですか! 千年ぶりに会った友人に挨拶くらい会ってもいいでしょうに!」
「……アルテナか。なるほど、やはりそうか」
彼女の姿を見て。
オルドは、疑念を確信へと変える。
アルテナはその反応に首を傾げたが……やがて、オルドが対面する相手を視認し、足を止めた。
「な……っ!? な、なぜ、貴方が……!?」
大きく目を見開き、驚きを見せる。
と同時に、なにか思い出したように言葉を詰まらせた。
それは、つい先程聞いた、あの名前。
「――フォルス・トゥ。聞いた時から思っとった。聞き馴染みこそないが、どこかで聞いた名じゃと」
アルテナと同じことを、オルドは考えていた。
どこかで、確実に聞いたことのある名前だ。
だが、それをどこで聞いたのかが分からない。
人の名前なのか。
場所の名前なのか。
道具、魔法の名前なのかも定かではなく。
加えて、老化により朽ちかけた記憶では、それを探し当てるのにも長い月日が必要だった。
「やっと思い出した。それはお主の偽名では無い。れっきとした本名でありながら……ただ、全てではなかった」
オルドの隣に、アルテナが並ぶ。
彼女もまた、その記憶を思い出していた。
過去、たった一度だけ。
その人物の『本名』を、教えてもらったのだった。
フォルス・トゥ。
そう、アルテナは、オルドは。
ずっと昔から、その魔女を知っている。
「フォルス・トゥ・ステラカヴァズ」
――霜天の魔女。
神の目と【反転】を併せ持つ、人類史上最大の奇跡であり、紛うことなき最強の魔女。
「久しぶりだね、アルテナ。千年ぶりかい?」
「……生きて、いたのですね」
嬉しそうに。
けれど、悲しそうに。
アルテナは、旧友との再会を迎えた。
「教えなかったっけ。私は【反転】で死を覆しているからね。寿命なんてものは無いのさ」
フォルス・トゥ・ステラカヴァズに寿命は無い。
そんなもの、彼女がまだ幼い頃、自分自身の手で消し飛ばした。永劫の時を生きることがどれだけ辛く寂しいかなど考えることも無く、あっさりと不老を手に入れていた。
それ以降、彼女の肉体は成長を止めて、老いを否定し、生まれてから数千年もの間を生き続けている。
だからこその、アルテナの悲しみだった。
「……いえ、貴方は、千年前からずっと、その……死にたがっていたので」
千年前。
オルドやアルテナと出会った時点で、彼女の自殺願望は二人の目にも明らかなものだった。
彼女の願いは、勇者に自分を殺してもらうこと。
反転を得て、自分の敗北や死すら簡単に反転できる彼女にとって……唯一の天敵こそが、勇者の誇る【完全模倣】だった。
それだけが、フォルスの【反転】を打ち消せた。
勇者であれば【完全模倣】でフォルスの不老に介入し、永遠を有限へと反転し直すことが可能だった。
勇者だけが、霜天の魔女を殺し得た。
――だが、勇者はそれをしなかった。
友を殺さなかった。
老いて、剣を震えなくなって。
いつしか友の顔すら忘れても。
最後まで、フォルスを殺そうとはしなかった。
だから、フォルスの願いは叶わなかった。
「勇者の葬式後、貴方は私たちの前から姿を消しました。あれだけ死にたがっていた貴方です。勇者が死んだ以上……耐えきれなくなって、自死を選ぶことにしたのだと考えました」
「……あぁ、勇者ね、勇者ルミエール」
まるで、今思い出したように名を挙げるフォルス。
その姿に、その目に、アルテナは目を剥いた。
だってその目には、かつての輝きはなく。
数千年の時は、孤独は、寂しさは。
霜天の魔女の性根すら、腐らせていた。
「つまんない女だったよね。どーせ私を殺してくれないんだったら、最初から見殺しにしてれば良かったよ」
アルテナの隣から、殺意が膨らむ。
驚き目を見開くのと、矢が飛んだのは同時のこと。
アルテナも、フォルスも微動だにせず。
あるいは、出来ず。
その矢は、寸分違わずフォルスの眉間を貫いた。
「なっ、オルド――!?」
「昔から言うとったじゃろ。ワシは無益な殺生はせん。じゃから、これは必要な殺しじゃ」
たらりと、矢の突き刺さった眉間から血が滴る。
数千年もの間、魔女の体内に流れ続けた赤色。
オルドは、その流血に顔を顰める。
「……びっくりした。いきなり何するんだよ、オルド」
眉間に矢を貫かせたまま。
当たり前の顔をして、魔女は生きている。
その光景に、アルテナもまた顔を顰めた。
フォルスは自らの手で矢を頭から抜く。
矢の抜かれた頭には、傷一つ残っていなかった。
「【反転】……ですか。相変わらず、反則じみた効能と発動速度ですね」
「分かってるでしょ。君たちに私は殺せない。勇者の居ない君たちに、私はさほど脅威を感じない」
かつての勇者パーティ。
勇者ルミエール。
隻眼のオルド。
神の寵児アルテナ。
そして、霜天の魔女ステラカヴァズ。
四人の英雄――否、正確に言えば三人と一人から成る伝説のパーティ。
「勇者がいたから、狩人も聖女も輝けた。そして、私がいたから、君たちは魔王討伐まで漕ぎ着けた。……知らないとは言わせないよ? 私は、一人でだって魔王を殺せたってこと」
たった一人で世界を絶望の底まで落とした魔王。
それを、単身で撃破可能と断言した魔女。
魔王を三人と一人のサポートありきで、なんとか討ち倒せた勇者パーティ。
その事実が、何よりの証拠。
勇者も、狩人も、聖女も。
全員がわかっていたことだ。
この魔女には、どう足掻いても敵わない。
「――だから、なんじゃ?」
されど、老兵は吠える。
そんなことは知ったことかと。
実力差なんて関係ない。
かつての友とて許せぬことがある。
殺すべきと断じざるを得ぬ悪行がある。
「なぜ、ワシがお前を殺すか分かるか、魔女よ」
「そう、それ。どうしても分からないんだよね。なにか、私嫌われるようなことしたかな……?」
本当に不思議そうに頭を悩ませる魔女を見て。
奥歯が折れるほど、老兵は強く歯を噛み締めた。
勇者の事も、許せはしない。
あれだけ友を思って死んだ女を。
過ちだった、と言い切ったこの魔女。
断じて許せることでは無い。
だが、勇者の死は過去のこと。
百歩譲って、許したとして。
今を生きるものを冒涜することは、絶対に許せない。
隻眼のオルドは。
怒りを滲ませ、感情のままに叫ぶ。
「シュメルは洗脳されている!! それを知らぬとは言わせんぞッ!」
シュメル・ハート。
オルドにとって、大切な弟子。
初めこそ興味本位でのものだったが。
彼と過ごす数年は、オルドの心を溶かしていた。
それはまるで、孫と祖父のように。
シュメル・ハートの優しさは、冷徹な狩人としてのオルドの在り方を、確かに変えていた。
だが、その鋭い眼差しまで鈍った訳では無い。
――シュメルは過去に、何者かから洗脳を受けている。
オルドは、そう確信していた。
「な……っ!? どういうことです、オルド!」
「……何度も己を疑った。己の耄碌かと疑った。その上でこの場に立っておる。……言いたいことが分かるか、アルテナ」
思い出せば、違和感はあったのだ。
シュメル・ハート。
風邪ひとつ引かぬ天賦の肉体。
どのような傷も瞬く間に再生し、翌日には疲労ひとつ残さぬ器。そんな彼が、一度だけ頭痛を訴えたことがあった。
『心配性で、臆病なだけだよ』
そう、彼が言った直後のことだった。
心配性、というのは分からなくもない。
だが、臆病というのはシュメルの印象から外れる言葉だ。まだ『慎重』であれば分かるが、その時は『臆病』という言葉が彼の口から出た。
同時に、まるで拒絶反応のような頭痛が彼を襲った。
その時点で、違和感があった。
……始まりはそんな、小さな違和感。
だが、その違和感は彼が育つにつれ。
そして彼と会話し、触れ合い、知るにつれて。
次第に大きく、後戻り出来ないほど膨れ上がり。
彼が一人前の狩人となった、ある日。
その目を見て、オルドは確信してしまった。
「……目が違う。慎重であり、勇敢でもありながら、小僧の目は、同じ方向を見ていたはずの『勇者』の目とは正反対じゃった」
どれだけ性根を歪められても。
どんな洗脳を受けようとも、目は変わらない。
どれだけ明るく振舞っても。
生まれついた暗い瞳だけは、絶対に変わらない。
職業柄、彼はそういった暗部の者には知人も多く。
同時に、シュメル・ハートと瓜二つな言動をする、勇者という前例を彼は知っている。
そんな彼だからこそ、気づけた。
シュメル・ハートの瞳には、洗脳された者特有の特徴が残されていると。
「小僧は元来、臆病な性格だったのじゃろう。それを、何者かに歪められ、臆病が慎重へと書き換えられた。勇敢な子になってしまった」
――犯人など、一人しかおるまい。
オルドの吐き捨てるような言葉。
アルテナは、泣きそうな顔でフォルスを見る。
嘘であってくれ、と。
そんなわけないでしょう、と。
かつての仲間が、小さな子供を洗脳など。
そんなこと、信じられるはずが――
「え? そんなことで怒ってたのかい、君?」
――希望が、願いが、打ち砕かれる音がした。
フォルス・トゥは、驚いて目を丸くしていた。
それは、まるで小さな子供のようで。
怒られると思っていたところを、なんでもない、小さな注意で済まされてしまった少女のように。
あどけない顔で。
その罪を、否定すらしなかった。
「ステラ……貴方は!」
「アルテナも怒ってるの? ……やだなぁ、知らぬ他人の子供だよ? どうなったっていいじゃない」
シュメル・ハートの魔法の師として。
彼女は、彼の人生を『どうでもいい』と言い放つ。
オルドから、再び怒気が膨れ上がる。
矢が放たれた、と認識したのはその直後。
先を上回る速度でフォルスへと飛来した矢だが、いとも容易く彼女自身の手で掴み、止められた。
「一度目は見逃したけど、二度目はやだなぁ。だって、それなりに痛いわけだし」
「……」
オルドは、無言で弓を構える。
アルテナもまた、杖を構えた。
気のせいでした、では済まない。
霜天の魔女は、堕ちてしまった。
アルテナもまた、涙とともに理解する。
対し、そんな二人の殺意を受けて。
フォルス・トゥは、全く動じない。
「勇者ルミエール。彼女は最期まで私の言うことを聞いてくれなかった。で、彼女の葬式を終えて、ずっと思ってたんだ。なんで思い通りにならないんだろう、って」
彼女は、腕を組んで悩む素振りを見せる。
だが、そんなものは見せかけで。
魔女の中で、とっくに答えなど見出されていた。
――分からない。
そう、魔女には何も分からなかった。
だって彼女に、勇者の想いは届いていない。
魔女は人の心なんて理解できない。
理解できないものは、しょうがない。
だから思考を放棄して。
効率的に『次』へと生かすことにした。
「だからその時思ったんだ。『次』は言う通りに動く人形がいいな、って」
魔女は、楽しそうに笑っていた。
死にたくて死にたくてたまらなくて。
ひたすら『次』の機会を待ち続けた。
その末に出会えた奇跡。
シュメル・ハート。
彼女の希望。
彼が望むように育ってくれて、嬉しくて。
フォルス・トゥは、笑っていた。
「ただ……オルドの読み通り、出会って分かった。彼は暗い性格だ。生まれながらにして罪でも抱えてるんじゃないかってくらい、苦しみながら生きていた」
シュメルハート……前世での『半田塁』は、転生者だ。
682名の中から選ばれて。
681名の命を犠牲に成り立った。
この時代、ただ一人の転生者。
彼女の言うとおり、彼は罪を抱えていた。
他の誰がどう言おうと。
本人はそう認識し、受け入れていて。
自分の代わりに死んでしまった彼らのために生きねばと。
『シュメル・ハート』へ転生直後から執念のように願い続けた。
それが、その意思が。
――半田塁という人格が、彼女にとっては邪魔だった。
「だからね、性格を反転させてみたんだ」
暗く、後ろ向きで、誰よりも卑屈。
常に罪に苦しみ続ける『半田塁』から。
明るく、前向きで、諦めを知らず。
いつだって楽しそうに笑う『シュメル・ハート』へ。
彼女は――【設定】を書き換えた。
そっちの方が、都合が良かったから。
「ただ、性格を変えたところで、人生までは決められないからね。彼には手っ取り早く、私に憧れてもらうことにしたんだ」
そのために、何をしたか?
「私は彼の乗った馬車を襲撃させた」
転生直後。
シュメル・ハートが怯えた山羊頭の悪魔。
父親の腕を切り落とし。
多くの騎士達の命を奪った、悪魔。
その黒幕は、いつだって彼らの傍に立っていた。
「自作自演の割には上手くいったと思っていてね。あのストリアより強い悪魔。それより強い魔女がいきなり出てきたっていうのに、誰も疑わない。そこは、彼らが心の底から善性で助かったよ」
何も言わず、オルドとアルテナは動き出す。
勇者を欠いただけの、大英雄二人。
この大陸で、最も強い狩人と聖女は。
☆☆☆
「その後も色々とね。……最近だと、タイミングを調整して、彼に王族を救わせたりもしたかな。王族との繋がりって結構大事でしょ? 弱い間はさ」
フォルスは、笑顔で最近の成果を報告して。
はたと、気がつく。
自分以外、誰も立って居ないことに。
「……あれ、もう終わっちゃった?」
二人の大英雄の全身全霊。
それをもってして、たった数分。
それだけしか、耐えられなかった。
オルドは内臓と片腕を失い、膝をつき。
アルテナは胴体を両断され、下半身は焼き焦げている。
いずれも、致命傷。
対して霜天の魔女には、傷一つ無い。
「あ、ごめんね。傷は直しておくよ」
彼女は一瞥だけで、二人の傷を癒してしまう。
それは、敵対者に向ける最大にして最悪の慈悲。
命を取りに来た者の命を救う。
その慈悲は、二人にとっての屈辱へと反転する。
「貴様……なんのつもりだ」
「私が勝った。なら、敗者は勝者へどんなことをされても怒る権利なんてないでしょ?」
それは、勝ってから示すべき感情だ。
敗者には、勝者に怒る権利もない。
そんなものは、負け犬の遠吠えで。
文句があるなら勝ってみろ、と。
かつて弟子に教えた通り、彼女は実践する。
……いいや、今回はもっと悪質か。
「そもそも、君たちの生死なんて興味無いし」
死んでようが、生きてようが。
霜天の魔女にとって、些事に過ぎない。
言わば『どうだっていい』存在。
オルドも、アルテナも。
歯を食いしばり、されど何も言い返せない。
その二人を見下ろして。
勝者は余裕で、一人の少年へと思いを馳せた。
「私の興味は、いつだって彼に対してだけのもの」
シュメル・ハート。
待ち望んだ、勇者の『次』の希望。
もう、失敗なんてしない。
間違えたりなんてするもんか。
必ず、君を最強へと育ててみせる。
それ以外、何を犠牲にしても構わない。
他人の人生も。
この世界も。
彼の人生を踏み潰したとしても。
必ず、一人の魔女を殺してもらう。
「私は期待してるんだよ、シュメル・ハート」
☆☆☆
その魔女は、その人生に退屈していた。
最強であるがゆえに。
敗北を知らず、死の恐怖を知らず。
自分に並び立つものがいないということは。
競い合える相手がいないということは。
分かり合える相手がいないということで。
果てなき孤独の証明でもある。
ゆえに、彼女は強者を求めた。
自分を理解してくれる相手を追い求めた。
自分を愛してくれる誰かを欲した。
自分を殺してくれる、誰かを願った。
その果てに、一人の怪物の誕生に恵まれた。
自分を超えうる潜在能力と出会い、ソレを育てることにした。
いつか、自分に並び立てるように。
いつの日か――退屈なこの人生を、終わらせてくれますように。
白髪の少女は。
数千年を生きる怪物は。
霜天の魔女――フォルス・トゥ・ステラカヴァズは、弟子の成長を見守っている。
彼を守る最強の味方であり。
同時に彼がいつか殺すべき、邪悪として。
「あ、そうそう。この話は内緒でね?」
最後に、魔女はそう告げる。
まるでイタズラを仕掛けようとする子供のような無邪気さで、霜天の魔女は、世界を人質に。
「じゃないと、私が次の『魔王』になるから」
きっとその時。
もう、次なる勇者は現れない。
世界に、救済なんて残されてはいないのだ。
【豆知識】
〇フォルス・トゥ・ステラカヴァズ
数千年の時を生きる霜天の魔女。
伝説上の大英雄であり、まごうことなき地上最強の生命体。
神の目に反転という天文学的な確率の上に生まれてきた。
死を生に、破壊を再生に、不能を可能に、そして、敗北を勝利へと反転できる彼女に、未だかつて『誰かに負ける』という経験は存在しない。
おそらく、全世界を敵に回しても余裕で一人勝ちできる程度には、パワーバランスがぶっ壊れている。
そんな彼女は善性として生まれ。
両親にも愛されて育ち。
何一つ不自由なく成長し。
勇者を導き、英雄としての職務を果たした。
――ただ、それでも『寂しさ』だけはなくならなかった。
数千年。
分かり合えず、誰にも愛されず。
異物、として存在し続けるだけの地獄。
希望も、友人も、家族も何も消えていった。
大切だった思い出も、何一つ残ってはいない。
そんな、『何を忘れたかもわからない』風化の数千年は。
いつしか善性だった彼女を、根底から腐らせてしまう。
今の霜天の魔女は、善性ではない。
転生者、半田塁。
彼が【反転】の魔法使いだと知るや否や、行動を開始。
用意していた『とびっきりの手札』を動かし、彼を攻撃。
その体内に『ソレ』の魔力を流し込み、強制的に意識を断絶させた。
その後、応急処置と言い張り、両親や騎士の見る目の前で、堂々と彼の人格を改変した。
半田塁、としての意識が生きていたのは、その時まで。
目が覚めたその時点から、彼は『シュメル・ハート』でしかなかった。
当然、消されたのは人格のみ。
前世の記憶、経験、素質など都合のいいものはそのままに。
ただ、不必要な設定、人格のみを反転させられている。
いわば、洗脳だ。
第3話において、多くを犠牲に転生したことも、多くの騎士たちを犠牲にして生き残ったことも、何もかもを【気にしない】様子で、明るく前を向いて楽しんで生きていこう、という狂気を見せたのは、そのため。
そして、おそらく洗脳の影響か。
彼には転生時の記憶が、ちょっと足りていない。
次回【シュメル・ハート】
出会いは必然。
導かれた道は作り物。
だけど、その始まりだけは。
「嘘じゃなかったんだよ、フォルス」
僕は『半田塁』として、お前に憧れたんだから。




