〈一〉初めての気持ち
朱華の住まう館は宮廷と同じ敷地内にある。二十五年の周期で三国を渡る〝朱華〟がこの彗国で結婚するたびに建て直されているものだが、場所はずっと変わらない。幼少期は国主一族と共に内廷で過ごし、結婚と同時に夫を伴ってこの館へと独り立ちするのが彗国での通例だった。
とはいえ、ここも宮廷内。警備はかなり厳重だ。館には林杏以外にも多くの侍女がいる。ただし、この館に男性の侍従はいない。朱華がいずれ身ごもる子の父親が、何処の馬の骨とも知れない男では困るからだ。
だからこそ朱華の傍にはいつも侍女の誰かがいた。先日軍部に赴いた時だって、扉の向こう側には林杏が控えていた。あの部屋には宵藍以外にも志宇という男がいたが、あれは例外だ。朱華が来ると同時に身を隠してしまったため彼女らには知る由もないし、そもそも夫のいる場ということで大目に見られた部分もある。
そんなわけで、朱華の周りにはいつも誰かがいる。一人きりになれるのは自室のみ。しかしたとえ人払いをしても、部屋の外には侍女がいる。更に館の外からも侵入者がいないか、常に見張りが目を光らせていた。
「ふう……」
一人きりの部屋で、うんと伸びをする。部屋の外に侍女がいると言っても、今この空間には朱華一人。朱華はそんな今の環境に満足していた。
何せ内廷にいる時はもっと見張りが多かった。侍女も部屋の外に出ることはなかった。館に越してきた時こそその変化に不安を感じたが、考え事をすることが多くなった今、一人きりの時間というのはとても良いものだと思っている。何故なら侍女は朱華が暗い顔をしようものなら理由をあれこれ聞いてくるのだ。それが彼女らの仕事だし、これまで疑問にも思わなかったが、今の考え事の内容は侍女達には言いづらい。
『私に時間をください。もう少しだけ、あなたを理解できるように努めてみます。そしてもし理解できるようになったなら、その時はまた改めてしっかりと話し合いましょう』
『それは……離縁しなくていいと……?』
『保留です』
前日の会話を思い出して、結局保留とはどういうことだろう、と首を捻る。宵藍は朱華に時間がないことを理解してくれていて、しかも前向きな言葉であると思えたから受け入れた。だが、具体的に保留とはどういうことなのかいまいち理解できていない。
「ねえ、己火。保留ってどういうことだと思う?」
窓の外に問いかければ、「保留?」と己火の声が返ってきた。と同時に彼はその姿を現して、「宵藍殿が言ったのですか?」と朱華に尋ねる。
「そう。すぐに離縁するんじゃなくて、自分がわたしを理解できるまで待って欲しいって。でも離縁の話が消えたわけではないし、その間は子作りもしないそうなの。それってどういうことかな?」
子作りはしない、というのは昨夜宵藍から付け加えられた話だ。朱華が子供はどうするのかと聞いたら、彼はきっぱりとそれはまだだと答えたのだ。
「人間の考えることは私には分かりません」
己火の答えに、朱華が口を尖らせる。
「全く分からない?」
「ええ。ですが、朱華様が好意的に捉えていることは分かります」
「わたしが?」
己火に言われて、そうだろうか、と朱華は胸に手を当てた。分からないから困っているのに、そのことを好意的に捉えている。そんなことがあるものかと首をうんと傾ければ、己火が「機嫌が良さそうですよ」と優しく微笑んだ。
「特にここ数日のあなたは思い悩んでおられた。こうして人払いをして、物思いに耽けることが多かった。ですが今は同じように人払いをしていても、どこか楽しそうに見受けられます」
「……言われてみればそうかも。昨日まではあんなに辛かったのに、今日はもうそんなことない気がする。お役目を果たせないのは気がかりではあるけどね」
朱華が苦笑しながら返せば、「一つずつでいいでしょう」と己火が言った。
「人間のことは分かりませんが、この国の軍で高い役職に付く者は思慮深い人物が多い印象があります。宵藍殿の立場から考えても、目の前の問題を一つずつ着実に解決しようとしているのやもしれません」
「問題……わたしが〝気持ち悪い〟って部分ね」
言葉にすると少し悲しいが、しかし宵藍の言う〝気持ち悪い〟が朱華の考え方を指していることは分かり始めていた。
だがまだ、完全には理解できていない。彼との会話の中で自分の考えを言葉にしてみても、それが正解だという反応を返されたことはない。単に宵藍の反応が薄いだけかもしれないが、どことなくそういうわけではない気がしていた。
「宵藍様は多分、わたしの言動が気になっているんだと思うの。おかしいことをおかしいと思わないっていうのはそういうことでしょ? でもどこがおかしいのか全く分からないんだよね……」
「そして朱華様はそれを知ろうとしている、と」
「うん。宵藍様のこともそうだけど、なんかこう、自分の中にあるもやもやの正体も分かる気がして。今まではっきりとは感じていなかったけれど、昨夜宵藍様とお話ししてたら無視できないくらい大きくなっちゃって」
朱華が困ったように笑う。そんな彼女に己火もまた同じような表情を返す。ただ、少し曖昧な表情だった。
しかし朱華は気付かない。考え事をするように視線を落としてしまっていたからだ。
「なんだか不思議。宵藍様にはたくさん嫌なことを言われたのに、今はこんなふうに気が楽になってるなんて」
悩みは解決していないが、どこか心躍るものを感じる。それは未知のものへの期待と似ていた。その未知のものはあまり前向きなものではないはずなのに、一体どういうことだろう、とおかしく思える。
「嫌なことを言われたからでは?」
己火の言葉に、朱華が「ん?」と首を傾げる。
「初めてでしょう、誰かに否定されるのは」
「……物珍しいと思ってるだけってこと?」
「自分を見てくれていると感じられるのでは? 不死鳥ではなく、あなた自身を」
「自分を……」
言われて、妙にしっくりくるのを感じた。すると途端にそこから温かさが広がって、むずむずと慣れない感覚に頬に変な力が入る。
「そっか……これがそうなんだ。ふふ、なんだかこそばゆい」
「嫌ですか?」
「ううん、嬉しい。まだちょっと慣れないけど、でも全然嫌な気はしないの。あ、勿論嫌われるのは嫌よ? でもそういうのも含めて、わたしに話しかけてくれているように感じられる……あの方にそんなつもりはないかもしれないけどね」
はっきりと笑顔になって、手で胸を押さえる。そうするとその温かさに触れられた気がした。指先には布の感触しかしないが、確かに届いていると思えたのだ。
「わたしはきっとこれが嬉しかったんだろうな。この感覚が好きだったから、昔のわたしは人間を愛したのかも」
幸せそうに朱華が微笑む。そんな彼女に、己火は遠くを見るように目を細めた。
『――お願い、己火。人間を嫌いにならないで。〝次のわたし〟にこのことを教えないで』
耳の奥に〝朱華〟の声が蘇る。しかし己火は何もなかったかのように瞬きをして、「……そうですね」と嬉しそうにする朱華に微笑みかけた。