〈八〉終わり、そして蘇る・前
その瞬間、札が強烈な光を放った。
目を刺すような光は文様に沿って宵藍の身体すらも飲み込み、周囲に異様な威圧感を与えた。
追手の兵達がどよめく。だが彼らの目は、宵藍の方ばかりを向いてはいられなかった。更に大きな威圧感が別の方から発せられたからだ。
「な、なんだ……!?」
兵達が咄嗟に見たのは朱華の方だった。朱華の全身もまた、光に包まれていたのだ。
近くにいた己火が一歩離れる。「己火、これ……!」怯えたように言う朱華に、「大丈夫です」と己火が頷く。その直後だった。
朱華の全身を炎が包んだ。轟轟と燃え上がるそれは一瞬で朱華の身体の大きさの何倍にも膨れ上がり、紫や緑といった不思議な色をも帯びながら形を成していく。
ただの炎の塊が頭を持ち、二本の脚が地面を穿つように伸びる。更に本体からはそれを上回る大きな炎が二つ広がって、力強くも美しい巨大な翼と成った。
「ひ、火の鳥……」
誰かがそう言った時にはもう、炎は完全に鳥の形になっていた。己火のそれが小鳥に見えてしまうほど大きく、猛る炎を纏った火の鳥だ。
その火の鳥が、空に向かって一吠えする。
「ッ――!?」
馬の嘶きのように高く、雷鳴のように重い声。その場にいた兵達が耳を塞ぐ。と同時に火の鳥の方から炎の波が押し寄せて、兵達は「逃げろ!!」と悲鳴を上げながら逃げ道へと向かった。
蜘蛛の子を散らすように逃げていく兵を見ながら、火の鳥――朱華は自分の身に起きたことを探るように足元へと目を移した。
そこには、見慣れた少女の姿がある。……自分だ。いや、紅胡と言った方が正しいだろう。自分の封印が解かれたことで紅胡の肉体が解放されたのだ。
地面に横たわるその身体には傷一つない。宵藍が約束を守ってくれたのだ――そう理解すると同時に、朱華は宵藍の方へと目を向けた。
《宵藍様!!》
札の隣に宵藍が倒れている。いつの間にか札の放つ光は収まっていたらしい。
しかしそれが朱華には恐ろしかった。光と共に宵藍の命まで消えてしまったような――慌てて宵藍の元へ行く。触れようと手を伸ばす。……しかし、そこに手はない。翼しかない。
それでも触れようと更に近付けば、宵藍の隣にある札が炎で燃えた。それに、宵藍の着物の端も燃えている。
訳が分からなかった。火の鳥となった己火は宵藍を無事に運ぶことができたのに、どうして自分にはできないのか。自分の炎に触れた紅胡の肉体は燃えないのに、どうして宵藍のことは燃やしそうになってしまうのか。
分からない。分からないが、これだけははっきりとしている。
触れられないのだ。今の自分では、宵藍にこれ以上近付くことすらできない。
《ッ、己火! 己火! 宵藍様を……!》
このままでは宵藍が燃えてしまう。そう思って己火を呼べば、己火が燃えていた宵藍の着物の火を消した。そして彼を助け起こそうと手を伸ばして、動きを止める。
《己火……?》
嫌な予感がした。それは己火が手を止めたからではない。感じるのだ。宵藍を見ていると、何かが足りないと感じ取れてしまうのだ。
「……亡くなっています」
己火が告げる。火の鳥の炎が揺らぐ。
《うそ……》
信じられない。信じたくない。だが、分かってしまう。己火の言葉が嘘ではないと。宵藍の肉体から、命の気配が感じられないと。
「恐らくは術の発動にご自分の命も使われたのでしょう。……宵藍殿はあなた様との約束を守られた」
己火の声が、遠い。
《嫌……嫌……なんで……!!》
朱華の動揺を表すように、彼女を形作る炎が揺れる。その炎が宵藍の方へと伸びる。
しかし、触れる直前で止まる。何度も何度も繰り返す。触れたい。触れられない。人の姿になればいいと思うのに、うまく形が変えられない。それどころか宵藍を焼かないようにすることさえもままならない。
こんなのは違う。こんなこと、自分は望んでいなかった。
《――嫌ぁああああああああ!!》
朱華の嘆きは不死鳥の叫びとなった。炎が大きく膨れ上がる。空をも燃やそうとするかのように四方へと放たれて、辺り一面に火の雨を降らせる。豊かだった草花は焼け落ちて、その場を荒れ地へと変えていく。
壊れてしまったかのように泣き続ける朱華を見て、己火は悲痛に顔を歪めた。その火の影響が及ばないように宵藍の身体を守りながら、彼と朱華を見比べる。そして少し離れたところにある紅胡の肉体を見つめると、己火は「朱華様」と不死鳥を見上げた。
「私をお使いください」
だがその声は、嘆く朱華には届かない。
「私を使えば、宵藍殿を助けられるかもしれません」
もう一度言うと、朱華は動きを止めた。火の雨は未だ止まないが、己火の話に耳を傾けようとしているのは見て取れる。
「私はあなたの一部です。その記憶もお預かりしています。それらを全てあなたにお返しします。あなたは不死鳥、再生を司る神。それでも本来であれば死者を蘇らせることはできませんが、そのお力が私を形作っていたように、今度は宵藍殿に分け与えれば……あるいは、息を吹き返すかもしれません」
己火が言い終わると、天へと慟哭していた不死鳥の首が動いた。金色の瞳が己火を見つめる。《本当に……?》呟いて、しかしすぐにまた炎が小さく揺れた。
《でも、あなたはどうなるの……? わたしに全てを返してしまったら、あなたは残らないんじゃ……》
朱華の言葉に、己火が微笑む。
「そうですね。しかし、それでいい。私はあなたの解放を願いながら、これまでどうすることもできなかった。ただあなたを見守り続けることしかできなかった。それを宵藍殿は変えてくれたのです。そんな彼に私も報いたい」
《だけど……! あなたを消さない方法があるんじゃ……!》
「ありません。死を覆すほどの力を彼に分ければ、私を形作る分がなくなります。それに……私が彼と混ざってしまっては、目覚めた宵藍殿が宵藍殿であると言えなくなる。だから私は消えなければならないのです」
そこまで言うと、己火は困ったように眉尻を下げた。
「私は元々あなたの一部だった。あるべき形に還るだけです。だからあなたが今心配なさるべきは私ではありません。宵藍殿が蘇るかは確実ではない……それに宵藍殿を蘇らせるためには、あなたは全ての記憶を受け入れなければならないのです」
《それって……》
不死鳥の炎がまた、揺らぐ。己火の言わんとしていることが朱華には理解できてしまったからだ。
全ての記憶を受け入れる――それは、不死鳥として生きてきた膨大な記憶を取り戻すということ。朱華の中には朱華しかいないのに、そこに想像もつかないほどの長い時を生きた記憶を取り入れるのだ。
それは果たして、朱華だと言えるのだろうか。大量の記憶に朱華が飲み込まれてしまうかもしれない。そうなった時、朱華は朱華のままでいられるだろうか。
そして何より、宵藍を愛おしいと思い続けられるだろうか。
《ッ……!》
怖かった。自分で自分を知らないことに不安を感じていたというのに、今は全く逆のものを恐れている。
本当の自分を知ってしまったら今の自分はいなくなるのではないか。たとえ宵藍を想う気持ちは残っても、宵藍にとって自分は見知らぬ他人のようになってしまうのではないか。
そんな自分を、宵藍は受け入れてくれるのか。
怖かった。己火を失ってまで得るものが、そんな絶望かもしれないだなんて。これまで自由になることについて深く考えていなかったのだと思い知らされる。
犠牲を払ったのに何も残らなければ、己火すらもいなくなってしまえば、その時は本当に孤独になってしまう。
「悩まれるのも分かります。ですがあまり時間はありません。宵藍殿の魂がまだ肉体にあるうちに決めなければ、それこそ目覚めた彼は別の何かになってしまう」
《ッ……それは、あなたのように自我を持つということ?》
「いいえ、それは有り得ません。私が自我を持ったのは、あなたの記憶をお預かりしたからです。そうしてこの力の中に混ざっていた魂が目覚めたからです」
《混ざっていた魂……?》
「あなたが力を切り離した時に混ざったものです」
《まさか……》
朱華の脳裏に、己火に見せられた映像が蘇る。あの時の自分は、不死鳥は、紅胡を助けるために彼女の肉体に入ったのではなかったか。力を切り離したのはその後ではなかったか――事実を悟って愕然とした朱華に、己火が優しく笑いかける。
「私は紅胡です、朱華様。あなたがあの時助けてくださろうとした、あなたの巫女にございます」
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