〈六〉できること
いつもは落ち着いた雰囲気の漂う江家の屋敷。しかし今日はそこに物々しさがあった。大勢の軍人が屋敷を取り囲むように配置されているからだ。
そして、異様な空気の原因はもう一つ。
「――まさか陛下自ら会いに来てくださるとは」
屋敷の一室で暁菫が言う。彼は部屋から続く庭の方を向いており、そこには彗王の姿があった。
「おもてなしもできず申し訳ありません。何せここから動くなと言われているものでして」
「随分余裕そうだな。その飄々としたところは父親譲りか」
「底を知られるなと教育されたんです。内心ではいつ首を落とされるかとひやひやしていますよ」
笑いながら言う暁菫に、彗王が嘲るように口端を上げる。しかし、何も言わない。暁菫は相手の機嫌が悪くはなさそうだと判断すると、「良いのですか?」と会話を続けた。
「私の弟を追うのが近衛軍だけでは不足でしょう。追手の数が少なければその分時間がかかるかと存じますが」
「問題ない。どうせ行き先は知れている」
「霊山ですか。宵藍を追うのは、あの者が何かを持ち出したからでしょう? 恐らくは朱華様の封印に関わるものだ。放っておけば宵藍が朱華様の封印を解いてしまうのでは?」
「貴様も知りすぎているようだな」
彗王は一瞬だけ顔を顰めたが、すぐにまた笑みを浮かべた。
「安心しろ、貴様はまだ生かしておいてやる。宵藍大将ごときにあれはどうこうできるはずもないが、少しほころびを作ってしまうことくらいはあるだろう。貴様にはそれを繕ってもらわねば」
「それは私を評価していただいていると考えてよろしいですか?」
「貴様がこの国一の方士であるということは認めている」
「お褒めいただきありがとうございます。しかし、弟のことは随分と過小評価されているようだ」
暁菫が目を細める。それは彼らしからぬ鋭い眼差しだったが、彗王は鼻で笑っただけだった。
「事実だろう。奴が持ち出したのはかつての三王が文字通り心血を注ぎ組んだ封印だ」
「……やはり汪琥の罪を繰り返したわけですか」
「口が過ぎるぞ。だがまあ、貴様もその血筋だ。今回は見逃してやる」
そう言う彗王の目には悪意があった。お前にも罪人の血が流れているのだと、だから何も言う権利はないのだと語りかけてくるようなその目に、暁菫が思わず苦笑いをこぼす。
「同胞に寛大なお心を持たれているようだ。となれば、宵藍もそうだと考えてはいただけませんか? ……近衛軍に追わせているということは、命を奪う気でしょう?」
「忠告を聞かなかったのは奴の方だ。それに寛大になれと言うが、十分にそうしているだろう。奴の部下を一人ずつ殺して待ってやっても良かったが、それはしないでおいてやっているんだからな」
「その方法だと時間がかかるからではなく?」
「時間なぞいくらかけたところで問題はない。いかに奴が方士として力を持っていようと、たかが一人の力ではどうすることもできないからな。頼みの綱である貴様はここにいる」
「やはり陛下は、私の弟を過小評価されているようだ」
暁菫はにっと笑うと、挑発するような目を彗王に向けた。
「宵藍は一度やると言ったことは必ずやり遂げますよ。どんな手を使っても」
言いながら、暁菫は宵藍ならどうするだろうか、と思考を巡らせた。
彗王が宵藍一人ではどうにもできないと断言するということは、何かが決定的に足りないのだ。それも他者から測りにくいものではなく、疑う余地もないほど明らかなもの――となると、宵藍の知識や技術は違うだろう。
方術に必要なのはそれらと気の力。だとすれば足りないのは気だ。気の総量は他者からは見えないが、解こうとしている封印が優秀な方士であった三人の王により施されたものだと考えれば、確かに宵藍一人では難しいのも頷ける。
方術は何も、一人で術を実行しなければならないわけではない。術者は何人いてもいいし、それとは別に気を提供するだけの存在がいてもいい。例えば人間、例えば過去に封じた妖魔。三王が心血を注いで組んだという彗王の言葉は、その三人だけの気で封印を実行したという意味にはならないのだ。
では解除にも同じだけの気が必要かと言うと、それも少し違う。箱を閉じる労力と開ける労力、どちらが上かはその封印次第。だから必ずしも宵藍一人では気が足りないと言い切れるわけではなかったが、彗王の発言から考えてそれしかないだろう、と暁菫は考えていた。
〝朱華〟の血を継いでいる宵藍は、かつての三王よりも一人当たりの気の力は大きいはずだ。しかし彗王はそれでも足りないと確信している。
だが、途方もないほど足りないわけでもないのだろう――暁菫は今の状況を思い返した。彗王が真っ先に自分を捕まえに来たのは、それが必要だったからだ。恐らく彼が今一番優先しているのは、不死鳥の封印を解かれないようにすること。ならば彼のこの行動はその目的に直結している。自分を捕まえたのは、そうすることで目的が達成できると考えたからだ。
つまり、自分さえいれば宵藍にも不死鳥の封印が解ける――辿り着いた結論とそれの意味するところに、暁菫は表情を険しくした。
自分と宵藍の二人の気があれば、不死鳥の封印は解ける。しかしそれは、常識的に考えればの話だ。
この程度の不足であれば、宵藍一人であっても封印を解く手段はある。そして宵藍はそれを知っている。彗王はそんなことをするはずがないと除外しているようだが、自分の知る聡く優しい弟ならばその方法を取ってもおかしくはない。
「……できれば、やって欲しくないけどね」
暁菫は誰にも聞こえないほど小さな声で呟くと、どこか諦めたように瞼を伏せた。
§ § §
霊山の山頂に着いてからの宵藍は、ずっと札と向き合い続けていた。既に傷だらけだった手を更に切り、そこから流れた血を使って札に直接変更を書き込んでいく。少しずつ術を実行しながら上書きできればいいが、今はそれができないため全て頭の中で結果を想像するしかない。
一歩間違えれば全てが無駄になる。それどころか朱華に酷い苦しみを与えてしまうかもしれない。そんな緊張に包まれながら、宵藍は少しずつ、けれどできる限り急いで手を動かし続けていた。
何せ先程から、音が近くなっているからだ――追手が霊山を登ってくる音が。
「まだかかりそうか?」
外を監視していた己火が宵藍の前に降り立つ。人の姿であるところを見る限り、まだそこまで差し迫った状況でもないのだろう。
そういえば音は上に響くのだったな、と宵藍は思い出したが、しかしそれでも油断はしていられない、と緩みかけた気を引き締めた。
「しばらくかかります。追手は?」
「道をところどころ崩している。あの細さだからそれでほとんど防げているが、だんだん崩れた道を通るのに慣れ始めてきているようだ」
「幻覚は見せられますか?」
「できるが、下手をすれば足を踏み外して死ぬぞ」
「……それは避けたいですね」
追手が命を落とすことは、できれば避けたい。事故などどうしようもない理由もあるだろうが、故意に相手が死にやすくするようなことはしたくなかった。
逃げている立場でそれは甘い考えだとは分かっている。だが、自分が敵対しているのは国の仕組みであって民ではない。それに朱華にも負担をかけたくなかった。自分のせいで人が死んだなどと言われれば、この少女はまた思い詰めてしまうのだろう。兄が捕まっただけであんな顔をしていたのだ、犠牲者が出れば必ず胸を痛める。
しかしそれもそろそろ限界だった。封印解除のための術式はまだできそうにない。どうするか、と宵藍が悩んでいると、「己火」という朱華の声が聞こえてきた。
「いま幻覚を見せられるって言ったよね? ならわたしが炎を使っているように見せかけられる? 不死鳥が怒ってるって思わせられれば時間を稼げるかなと思ったんだけど……そういうものじゃないかな……?」
思いついたと言わんばかりの声で、しかし最後は自信なさそうに。朱華には人間にとっての不死鳥がどういうものか実感がないのだから当然だ。それは己火も同じようで、彼はすぐには返事をしなかった。確認するように宵藍を見て、「どう思う?」と尋ねる。
話を聞いていた宵藍は「……いけると思います」と頷くと、朱華に向き直った。
「ただの兵はあなたがどんな方なのかを知りません。うまくやれば不死鳥の怒りに触れたと畏れて退却してくれるかもしれません」
「本当ですか? わたし、頑張ります! 神様が出てくるお話は読んだことがあるので、それっぽくなるように頑張ってみます!」
「ええ。しかし絶対に無理はしないでください」
嬉しそうに言う朱華に、思わず宵藍の頬が綻ぶ。しかしすぐに真顔に戻すと、「己火様」と視線を移した。
朱華の安全を守ってくれ――浮かんだその言葉を、宵藍が口にする必要はなかった。
「言われるまでもない」
己火はそれだけ言うと、朱華を伴って追手の方へと向かった。




