〈二〉待ち合わせ場所・後
穏やかな時の流れる、霊山の山頂。そこから雲の下を眺めていた朱華は、ふと思い出したように己火を見た。
「そういえば宵藍様って、わたしがここにいること知ってるの?」
別れる時は気が動転していたため記憶に自信がないが、己火は行き先を告げていなかった気がする。そして宵藍も何も言っていなかったように思う。
ならば己火が何らかの手段で伝えたのだろうかと尋ねてみれば、己火からは素知らぬ顔で「知らないでしょうね」という答えが返ってきた。
「えぇ!? どうするの!? 宵藍様、どうやってわたしに追いつくの!?」
「問題ないでしょう。あの者はもはや彗国だけでなく他の二国も敵と見做しています。この島で人間の干渉を受けないのはここだけです。考えればすぐに分かるかと」
「……本当に?」
「ええ。分からないような人間なら、あなたの過去を知ることはできなかった」
己火の説明に朱華が顔を渋らせる。なんとなく己火が宵藍を評価しているのは分かる。彼の言うとおり、人間の干渉を受けない場所を宵藍が探しそうなのも理解できなくはない。
だが、その場所がここだけというのは納得しきれなかった。如何せん自分は世界を知らないのだ。それに己火は妖で、宵藍は人間。妖と人間では考え方も随分違うのではないかと思ったが、「宵藍殿はここを目指しますよ」と己火が繰り返すものだから、朱華にはもう何も言うことはできなかった。
「……宵藍様が着くまで、あとどれくらいかかるの? あっという間だったから分からなくて」
思えば、己火がどうやってここまで自分を連れてきたかも分からない。抱えられ、彼にしがみついているうちに気付いたら麓にいたのだ。朱華の常識になかったその移動方法は、きっと人間の取れる手段ではないのだろう。
「どんなに急いでも人間なら一日はかかりますね」
「そう……」
どのくらい経っただろうか、と朱華は空を見た。館を出る時は暗かった空が、今はもう明るい。地上とは空気が全く違うため気温では判断できないが、太陽は既に真上まで登っている。
とすれば、あと半日。いや、一日はかかるということなら次の夜明けまで待たなければならないかもしれない。
「ねえ、己火」
「なりません」
「……まだ何も言ってないけど」
間髪入れずに返ってきた声に、朱華がむすっと口を尖らせる。すると己火は「聞かずとも分かります」と言って、ふうと溜息を吐いた。
「私に宵藍殿の手助けに行けと仰るんでしょう? それはできません。私はあなたのお傍を離れませんし、宵藍殿が本当に裏切らないとも知れません」
「……宵藍様はそんな方じゃない」
「人間は裏切るものですよ。私はもう二度と、あなたをあんな目に遭わせたくない。仮に宵藍殿が本当に裏切らないのだとしても、あなたにそれだけを信じさせておけるほど私は人間を信用していません」
淡々と己火が言う。理屈っぽさを感じさせるその言葉に、朱華は曖昧に首を傾げた。
「己火って、妖だよね?」
「ええ」
「なんだか凄く人間みたい」
そうだ、己火は人間のようなのだ。口にしてから自分の抱いた違和感の正体に気付き、朱華が満足そうに頷く。一方で己火は、そんな朱華に困ったような笑みを向けた。
「……長く人の世におりましたから」
少し、寂しそうな声だった。朱華が何か言おうとした時にはもう彼は別の方を向いていて、その理由を知ることはできなかった。
§ § §
宵藍が霊山の麓に着いたのは、明るくなっていた空が暗くなってからだった。周りにはもう、誰もいない。宮廷を出るところまでは志宇や青軍の者達が道を作ってくれていたが、その後は一人だ。そうしなければ部下達は自分の逃走を助けたと思われてしまう。あくまで〝侵入者〟を追っているように見えるところまで――それが宵藍が志宇達に許した手助けだった。
彼らは無事にしているだろうか。別れた時は自分がどこに向かったか撹乱するために動くと言っていたが、無茶をしていないといい。宵藍はそう願いながら更に進み、少しすると神殿跡地へと辿り着いた。
そこにはやはり、何もない。いつか通りかかった時に見た記憶どおりだ。しかしよくよく考えてみれば、瓦礫すらほとんど見当たらないのはおかしい。荒屋なら分かるが、消えたのは紆梁の頃から続いていた建物。いくら朽ちても完全に自然には帰らないほど堅牢な造りだったはずだ。
だからきっと、これは人の手によるものなのだろう。
『そんなに知りたいなら教えてやろうか。朱華様が人になったのは――』
いつかの己火の言葉を思い出す。
『朱華様が人になったのは、人間があの方を裏切ったからだ。かの王達は私欲のために不死鳥の血を手に入れようとして、あの方を騙したんだ』
その言葉が事実ならば、かつての三王は明確な悪意を持って不死鳥を封じたのだ。だったら、その不死鳥を祀る神殿を破壊してもおかしくはない。不死鳥の力を手に入れたと誇示するためか、それとも巫女達が抵抗したか。何にせよ、悪意があったのであればいくらでも神殿を破壊する理由は生まれるだろう。
宵藍の背中で、丸められた紙の束が重みを増す。それは気の所為だと分かっているのに、疲れに影響されるような重さでもないのに。それでも確実に今、感じる重みが増した。宵藍の知った人間の罪の分だけ、朱華の自由を奪うそれが存在を主張してきたのだ。
「登山道は……あれか」
宵藍が気を紛らわすように辺りを見渡すと、木々の奥に獣道とそう変わらない道を見つけた。試しに馬を降りて自らの足で進めば、どんどん霊山の方へと近付いているのが分かる。
そうしてそのまま歩いていくと、視界に広がった光景に宵藍は顔を引き攣らせた。
「これを、登るのか……」
そこにあったのは、細い道。馬はとてもではないが通れない。霊山の岩肌を這うようにして伸びるそれは幅が狭く、手すりのようなものも見当たらない。
それが、雲の向こうまで。
「……行くしかないか」
こんな道しかないのなら、朱華の安全は確実だろう。己火が本当に朱華を守ろうとするのであれば、絶対にこういった場所を選ぶはずだ。
宵藍は背中の筒を背負い直すと、崖のような道に歩を進め始めた。




