〈一〉待ち合わせ場所・前
普段は静かな宮廷に、けたたましい鐘の音が響き渡る。異常事態を報せる鐘だ。その音で軍部からは大勢の軍人が宮廷に駆け付け、時間が経つごとに騒々しさを増していった。
宮廷に務める者達は一処に集められ、そこにいない者は〝敵〟と見做される。どういった名目で軍人達が動いているかはまだ正式には明かされていない。しかし時折発せられる〝侵入者〟の言葉が、その場にいる者達に緊張感をもたらしていた。何せ宮廷は国主の住まう場所、この彗国の中枢。そこに〝侵入者〟とあっては一大事にしかならない。そのため自身は関係ないと思っている者達は軍の指示に大人しく従い、事態の早期鎮圧に協力した。
一方で軍人達の間には嫌な空気が流れていた。〝侵入者〟の正体が分からないからだ。不明ではなく、秘匿。上官が明言せずとも感じ取れてしまう。それでも何もしないわけにはいかないと、宮廷中を走り回る。
逃げ場などどこにもないほどの包囲網。その網目をすり抜けるようにして走り続けた宵藍は、前方に人目のない場所を見つけて足を早めた。
人目がないと言っても、この状況では一時的なものだろう。上がりきった呼吸を落ち着ける間もないかもしれない。しかし、一度休みたかった。それだけ疲弊していた。呼吸や疲労感だけではなく、身体中にはこれまでに少しずつ負った傷がある。それらをどうにかしないと、宮廷から抜け出すことなどできない。
宵藍は疲れた身体に鞭打つと、見つけた隠れ場所にすっと身を滑り込ませた。
そこは、建物の横の窪み。外からその建物の地下へと続く階段だ。見たところ地下は物置のようで、人の出入りはあまりないだろう。とはいえただの階段のため目隠しはなく、地上の道からは簡単に見えてしまう。
宵藍は瞬時にその場の状況を把握すると、懐から数枚の札を取り出した。
「《閉》」
階段を下った先、地下への扉に札を飛ばす。ぴたりと扉に貼り付いた札が、描かれた文様に沿って金色の光を放つ。しかしその光はすぐに弱まって、完全に収まった時にはただの紙になっていた。墨で文様が描かれただけの、何の変哲もない紙だ。宵藍はそれを見届けると、今度は残りの札を階段両脇の壁に貼り付けた。
「《朧》」
壁に貼り付いた札が、同じように光を放つ。そしてその光が収まったのを確認すると、宵藍はふうと重い息を吐き出した。
地下の扉は方術で完全に塞いだ。これで中から開けられることはないだろう。しかし、外は違う。自分のいるこの場所は外から丸見えだ。空間を閉じることで外から見えづらくはしたが、方術の訓練を積んだ者が集中して見れば見破られてしまうだろう。
だが、これが限界だった。方術は封じる技。閉じることは得意でも、見た目を誤魔化すことには使えない。それでもどうにか作られたのが朧という術だ。身を隠すという目的で、方術にこれ以上他者の目を欺ける術は存在しない。
この隠れ方では四半刻も持たないだろう。その半分も持てば良い方だ。いや、場合によっては今すぐに見つかる可能性だってある。
宵藍は息を整えながら、手早く自分の身体を確認していった。打撲に切り傷、擦り傷もある。幸い流血はほとんどない。切り傷はどれも浅かったからだ。方術で治そうかと手を動かしかけて、しかし背中にある存在を思い出してその手を止めた。
宵藍が背負っているのは大きな筒。紙を丸めたものだ。複数枚を丸めたそれを布で覆い、その上から札が貼ってある。
恐らく後で気をたくさん使うことになるだろう。であれば、ここでむやみに方術を使うべきではない――宵藍はそう判断すると、着物の一部を破って最低限の怪我にだけ巻き付けた。
そうして、宵藍の呼吸が落ち着きかけてきた頃。地上から足音が聞こえてきた。
「…………」
地上から見えづらいよう、壁に張り付くようにして身を隠す。息を殺す。どうか気付かず行ってくれと願う。
その願いが届いたのか、足音は宵藍のいる場所を通り過ぎて行った。離れていく音を聞きながら、見つからずに済んだと胸を撫で下ろす。
しかしその瞬間、タタタッ、と足音が戻ってきた。そして、すぐそこで立ち止まった。
見つかったか――宵藍が剣に手をかけようとした時だった。
「あんた何やってるんですか!!」
怒声と共に足音の主が階段を覗き込んできた。志宇だ。そういえば彼はかつて方士を目指していたなと思い出すと、宵藍は剣に触れながら探るような目を相手に向けた。
「……捕らえに来たか?」
「待って待って待って! あんたとやり合うのはごめんですってば!」
志宇が両手を上げて降参を表す。地上にいた彼は周りを軽く見渡すと、素早く階段を下りて宵藍の横に身を潜めた。
「全く、少しは考えてくださいよ。通り道の護衛全滅させてるようなヤバい人と戦いたいと思うわけがないでしょう」
小さな声で志宇が不満をこぼす。
「しかも全員気絶させただけって、逆に凄いっていうかもはや気持ち悪いですよ。手練れ相手によくもまあ……で、捕まる危険を冒してまで殺さないようにするってことは、本気で敵対したいわけじゃないんでしょう?」
「…………」
志宇の口振りは〝侵入者〟が誰だか知っている者のそれだった。だが、宵藍に驚きはない。〝侵入者〟が青軍大将なのであれば、その副官には事実が知らされて然るべきだからだ。
でなければ青軍を動かす者がいなくなるし、何だったら既に宵藍について聴取されているかもしれない。本来なら副官ほど近い立場の人間もまた疑われそうなものだが、志宇が自由に動いているあたり、彗王は宵藍単独のものと確信しているらしい。
まあ、それも当然か――宵藍が昨夜の会話を思い出しながら納得していると、志宇が怪訝な顔で「でも一体何やらかしたんですか?」と続けた。
「陛下の近衛軍まで動いてますよ。〝朱華様〟の夫にする対応としては有り得ない状況です」
「お前は知らなくていい」
ぴしゃりと志宇の質問を撥ね付ける。志宇を関わらせたくない。それに志宇が自由なのは、自分を捕まえるための可能性もある。そんなことは疑いたくなかったが、軍人という立場を優先するなら有り得ないことでもない。
志宇もそんな宵藍の考えは分かっているだろう。しかし彼は一歩も引く気配を見せなかった。
「あのことと関係があるんですか?」
あのこと、とは先日志宇に調べさせた件だとすぐに分かった。〝朱華〟の血を継いだ人間の子孫は、二百年以上の時が経っても呪いに苦しまされることがない。しかし同時に、〝朱華〟の血を引いていれば持っているはずの方術の才がなくなっている――宵藍が言葉にせずとも、志宇ならその問題に気付いているはずだ。
だからこそ宵藍を見る志宇の目は厳しい。彼は宵藍の背の方に視線を向けて、表情を更に険しくした。
「その背中にしょってるやつ、どこへ持ち出す気です? ご丁寧に札まで貼ってるのは、それ自体が何かヤバいものってことなんでしょう?」
「知る必要はないと言っただろ」
「江家に近衛軍が向かったって言っても?」
「……兄上には既に謝ってある」
「いや俺にも謝ってくださいよ」
険しかった顔が、呆れ顔へ。「急に大将を捕まえろって言われた俺の気持ち分かります?」と溜息を吐き出す。
「しかもそれ言ってきたの、近衛軍のお偉いさんですよ。一番関わりたくない人じゃないですか。こないだ調べた件があったから咄嗟に誤魔化せましたが……何も知らなかったら俺だってあなたを捕まえる立場になってたでしょう」
「構わない。下手に俺と関わればお前まで罰せられる」
「ンなこと分かってますよ。でも青軍の連中はなんだかんだあなたの味方になろうとしてますよ。表立って行動させるわけにはいきませんが、撹乱くらいならできます」
「駄目だ、下がらせろ。近衛軍にでも見張らせておけ」
「――いい加減にしろ!」
志宇が怒声を上げる。珍しい彼の怒りに、宵藍が目を見開く。
「一人で何でもかんでもやろうとするな! 守るために仲間を遠ざけるな! あんたのそういうところが他の連中に嫌われる原因なんですよ! 仲間の力になりたいのに、その仲間であるあんたがそうやって壁を作るから拒絶されてる気分になるんです! 嫁さん迎えるほど図体が大人になったなら頭の中も成長しろ!!」
大声で言い切って、志宇ははっとしたように辺りを見渡した。今は隠れているのだ。やってしまったと言わんばかりの顔をしながら周囲を確認し、動きがないことに胸を撫で下ろす。「すみません、軽率でした」謝りながら再び階段に隠れる。しかし、その顔は険しいままだった。
「あんたがとんでもないことに手を出したってことはみんな分かってます。たった一人捕まえるために近衛軍が動くってのはそういうことでしょう。でもあんたが私利私欲のためにそんなことするだなんて、うちの連中は誰も思っちゃいないんですよ。少しは俺達にも手伝わせてください」
懇願するように志宇が言う。その視線に、宵藍が決まり悪そうに目を逸らす。顔を左下に向けて、志宇の言葉を反芻する。
宵藍が再び口を開いたのは、志宇が返事を急かそうとした頃だった。
「……行きたいところがある。そこまで無事に着きたい」
小さく呟かれたそれに、志宇が表情を明るくする。
「何のためかは聞いても?」
「駄目だ。流石にこれ以上教えるわけにはいかない」
「知っていることが罪なんですか?」
「ああ」
不死鳥に関する嘘など、志宇に教えるわけにはいかなかった。今度は志宇もそんな宵藍の心境を察したのか、「分かりました」と神妙に頷く。
「なら理由は聞きません。ですが絶対にあなたを無事に送り届けてみせます」
志宇はそう言うと、「とりあえず馬を調達しますか」と言って宵藍に笑いかけた。
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