〈四〉不死鳥の心・後
「でも、逃げようとはしなかったの……? 切り離したっていう力があればどうにかなったんじゃ……」
おずおずと問いかける朱華に、己火が「なったでしょう」と頷く。
「しかし先程も申しましたように、それは自分を騙した三王が一時的にせよその力を得てしまうことを意味します。紅胡の肉体を守りながらでは時間もかかる上、下手に抵抗することもできない。人間への愛は変わらずとも、三王は信じるに値しないと考えていたのでしょう。もし自分の力が戦に悪用されたら……あなたはそれを避けるため、力を取り戻すことはしなかった。そのための記憶ごと捨てたのです」
「賢明な判断でした」己火が付け足す。
それは自分を慰めようとしている声だと分かったが、朱華の心は晴れなかった。何せそうしようとした記憶がない。実感がない。
あるのはただ、何も知らずに生きてきたという事実だけ。自分を騙した者達のために、何度も何度も利用されてきたという衝撃だけ。それが誰かを守るための判断だったのだと言われても、守ろうとした記憶すらないのだから上手くいったという満足感もない。
「だけど、紅胡は……? 不死鳥は紅胡の身体の中にいたんでしょ? それなのに記憶を捨てるって、わたしは自分を助けようとした人を放置しようとしたってことじゃないの……?」
紅胡の状況は何も変わっていない。それだけは教えられずとも分かっていた。それなのに何もしないまま記憶を手放したということは、紅胡を蔑ろにするのと同じことなのでは――朱華が問えば、己火は「放置などされておりません」と首を振った。
「でも……!」
「紅胡は、今もあなたと共にいる」
「それが放置したっていうことなんじゃないの!? だって紅胡は……わたしのこの身体は……!!」
紅胡の顔には見覚えがあった。知っている顔よりも幾分か大人びているが、見間違えるはずがない。何せ物心ついた時から毎日目にしてきた。幼かった顔がだんだんと大人になっていく様を見てきたのだ。
紅胡は、今も自分と共にいる――この身体は紅胡のものだ。朱華が胸元を握り締めれば、己火が「そうです」と頷いた。
「あなたのその肉体は、あの時あなたが紅胡を癒そうとした時から変わっていない。紅胡ごと封じられたまま、あなたは何百年という時を生きてきた」
「っ……わたしが封じられたままだから、紅胡にこの身体を返せないってことじゃないの……? それでいいの……? だってわたしがこの身体を使っているなら、紅胡自身はどこに……」
今までこの身体で生きてきて、自分以外の誰かの存在など感じたことがない。そう思って投げかけた朱華の問いに、己火がゆっくりと首を横に振る。嫌な想像が朱華の脳裏を過る。
「紅胡は死にました。あなたがその身体で二十五までしか生きられないのは、紅胡の肉体の時がそこで止まってしまったからです。……紅胡は、あなたが封じられた時に死にました。魂が肉体を離れたのです。たとえ傷は治せても、一度離れてしまった魂は戻せない。あなたが全てを受け入れたのは、紅胡への懺悔もあるのでしょう。魂を失くした肉体など守ったところで意味はないのに、あなたは紅胡の身体が壊れることを嫌った。記憶を捨てる時も最後まで悔いておられた」
己火の言葉に朱華の頭が冷えていく。凍えそうなほど冷たくなる。紅胡のことは知らない。面識がない。けれど、他人事とは思えない。
それは毎日ともにあるこの肉体の持ち主だからでもあるが、己火の記憶を見たせいでもあった。あの時の不死鳥は、自分は、紅胡を助けるために封じるられることを選んだのだ。それなのに己火は、その時に紅胡が死んだと言う。
つまりは無駄だったのだ。自分が封じられたことも、ずっと人間に利用されてきたことも。紅胡を助けられるならまだしも、助けられなかったのに代償だけを払い続けてきたのだから。
朱華が思考に沈みかけた時、ふと、ある疑問が頭に浮かんだ。
「待って……それだとおかしい。だって最初の三王はわたしと直接契ったって……でもあの時死んだなら……」
「あの場であなたは再生しました。赤子として」
「やっぱりおかしい! あの頃の三王は赤ん坊が大人になるのを待てるほど生きていられなかったはずじゃ……!」
「あの場にはあなたの血が残っていました。裏切りが起きる前に、あなたが彼らに与えた血が」
「っ……」
そうだった、と朱華の顔が険しくなる。元々彼らはそれを求めてきたのだ。結局は演技だったが、しかし不死鳥は間違いなく自らの血を彼らに与えていたのだ。
「あなたが力を切り離したことは、三王にとっては想定外だったでしょう。封じたあなたを利用しようにも、そのあなたに大した力がないことはすぐに分かったはずです。しかし力を失う前のあなたの血が残されていた。それを飲んで彼らの呪いは弱まりましたが……あれは、口にするだけでは子には引き継がれない。そこで三王は様々な手段を試し、あなたに自分達の子を産ませればいいという結論に辿り着いたのです。あなたには平和をもたらすために時間を欲すると言っておきながら、彼らはあなたを利用する方法を探すためにその時間を使った。なんと愚かで浅ましいことか……」
最後の言葉は、吐き捨てるようだった。心底忌々しいと言いたげな声だ。
だがもう、朱華にはどう反応したらいいか分からなくなっていた。己火から教えられることは全て受け入れ難い。何を聞いても悪い答えしか返ってこない。それが自分の過去だというのだから尚更だ。こんなにも悪いことが自分の身に起きていたのかと、その上で自分は何も知らずに能天気に生きてきたのかと笑いたくすらなる。
「信じ難いことは分かっています。しかし、全て事実です。あなたが知りたいと望まれましたが、もしもう忘れてしまいたいというのなら、また手放していただいても……」
「記憶って、そんな簡単に消せるんだ……?」
はは、と乾いた笑いが朱華の口からこぼれる。
「己火が凄いのかな……? そうだよね、何百年も生きてるくらいだもん……。けど……だけど! そんなに凄いならどうして今まで何もしてくれなかったの? あなたは確かにわたしの傍にいてくれたけど、それだけ。全部見てたんでしょ? だったら何かしてくれればよかった! そうしたらせめて紅胡は助けられたんじゃ……!」
これまで知ったことへの衝撃が、苛立ちに変わる。己火を責めてもしょうがないと分かっているのに、どうしても彼を攻撃してしまう。
罪悪感と怒りが綯い交ぜになる。それでも朱華が言葉を続けようとした時、先に己火が「無理です」と口を開いた。
「ッ、どうして!!」
「私はあなただから」
「え……?」
己火が、真っ直ぐに朱華を見つめる。狼狽して瞳を震わせる朱華を見ながら、何かを決意したようにすうと息を吸った。
「あなたが紅胡の肉体に封じられた時に切り離した力の塊……それが私です」
朱華の顔に驚愕が浮かぶ。そんな主の姿を見ながら、己火は古い出来事を思い出していた。
それはまだ、己火が己火ではなかった頃のことだ。
『あなたに名前をあげる。そうね、きか……きかがいい。己の火、己の火。……お願い、己火。人間を嫌いにならないで。〝次のわたし〟にこのことを教えないで』
苦しげな表情で不死鳥が言う。あの頃の彼女の名前は玲緋だった。瑰国での不死鳥の呼び名だ。まさか彼女はその次の国、杷国で自分が紅胡と呼ばれることになるなどとは思ってもみなかっただろう。
しかし、知らなくて良かったと思う。記憶を持ったまま自分を紅胡と同一視する杷国で過ごしていたら、きっと彼女は罪の意識に苛まれただろうから。
「私に自我が芽生えたのは、あなたが記憶を捨てた直後……いえ、あなたの記憶を私が預かったから、ただの力の塊でしかなかった私に自我が芽生えたのです。それまでの曖昧なものではなく、こうして自分で物事を考えられるだけの自我が」
そして、自分の正体を知った。役目を思い出した。自分は何を置いても彼女を守るために在るのだと。
未だ困惑する朱華の前に、膝をつく。かつて何度も繰り返した動作を、他でもないこの場所でできることに心からの喜びを感じる。
「朱華様。私はあなたであり、あなたのために存在します。その私があなたに悪い感情を抱くなど有り得ない。私は絶対に、あなたを裏切らない」
記憶を欲した時に朱華が恐れていたことを、否定する。
「あなたは一人ではありません。この先あなたがどれだけの永き時を生きようと、私は常にあなたの傍に在り続けます」
そう言い終わって己火が朱華を見上げれば、そこには当惑したままの見慣れた顔があった。




