〈三〉不死鳥の心・前
朱華の額から、己火が離れる。風が当たれば急に額が冷えて、朱華は全身が寒くなった気がした。
恐る恐る目を開ける。今見たものが信じられないとばかりに正面にいる己火を見つめると、「これが現実です」と静かな声が聞こえてきた。
「あの者達はかつての三王……彼らは最初からあなたを封じる気で来たのです。三国が手を取り合うということは事実でも、そのやり方が違った。彼らは共同であなたを封じることで、その力を三国で分けようとしたのです」
「そんな……どうして……ちゃんと話し合えそうだったのに……!」
「彼らに話す気などありませんでしたよ。神殿には不死鳥の血が欲しいだけだと伝えていました。だからあなたも承諾した。しかし大巫女も言っていたとおり、口にしただけでは効果は限定的で、呪いを打ち消す力は子には受け継がれない……それを解決するために彼らはあなたを封じようとしたのです。封じて、あなたの力を自分達の思うままに使い続けようとしたのでしょう。謙虚なように見えたのも、あなた方を騙すためにそう振る舞っていただけです」
「酷い……」
なんてことを、と朱華は顔を青くした。不死鳥が自分だという実感はまだ湧かない。しかし協力しようとしていた不死鳥と大巫女を騙した三王の行動は、人として酷すぎると感じる。
三王が不死鳥を封じようとしたのは分かるのだ。分かりたくはないが、理由を聞いて納得できなくはない。だが――
「どうして、あの女の人まで……? それも〝使う〟って……どういうことなの……?」
見せられた記憶の最後で、三王は倒れた大巫女の身体を使うと言っていた。その意味が朱華にはよく分からない。すると己火は視線を落として、「そのままの意味です」と話し出した。
「あの時のあなたは、瀕死の紅胡を癒そうとしていた。だから抵抗できなかったんです。抵抗するために紅胡の身から離れてしまえば彼女を癒せなくなる。あの状態で治療が遅れれば紅胡は間違いなく死んでいたでしょう。王達はあなたが紅胡の治療を優先すると、あの一瞬で見抜いたのです。そしてそれを利用することにした。彼女ごとあなたを封じることにしたのです」
「…………」
今度は己火の言葉がすんなりと理解できた。彼女ごと朱華を封じることにした――その結果を朱華は知っていたからだ。何故なら彼女の、紅胡の顔には見覚えがあったから。
「あなたは紅胡を癒やすために、抵抗せず一時的に封じられることにしました。しかし封印が強すぎた。三王が準備してきた札はかなりの力を持っていて、簡単にあしらうことはできなかった。それでも普段であれば、あなたは封印されたとしてもすぐに抜け出せたでしょう。しかし無理に抜けようとすれば人間である紅胡の肉体が耐えられない。かと言ってそうならないよう時間をかければ、その間は欲深い人間の手に自らの力が渡ってしまうことになる。それを恐れたあなたは、封印される直前にそのほとんどの力を自分の外へと切り離した……残ったのは、紅胡を癒やすために必要な最低限の力だけ。結果、自ら封印を破ることができなくなったのです」
己火の話を聞きながら、朱華はいつの間にか口元に手を押し当てていた。その手は小刻みに震え、目には涙が滲んでいる。
不死鳥は人間である紅胡を守ることを優先したのだ。そんな過去の自分の行いには心の底から安堵できる。本当に人間を愛し守ろうとしていたのだと、聞いていた自分の在り方と変わらないことが良かったと思える。
だが一方で、三王のしたことは酷すぎると思った。自分達の欲求のために紅胡を騙し、更には彼女を助けようとする不死鳥の行動までもを利用した。そんなこと、人のすることとは思えない。朱華の知る人間はそんなことをするような存在ではないのだ。
だがきっと、それも嘘なのかもしれない――諦めにも似た感情が朱華の胸に落ちる。朱華が自分から人間の力になりたいと思うように、きっと人間は自らを守る価値のあるものだと朱華に教え込んだのだろう。
だから不死鳥の在り方はそのまま伝えて、その不死鳥が人間となった経緯は捻じ曲げたのだ。か弱い人間を守るために、人間を愛していた不死鳥が自ら望んで力を貸していると言えば、朱華自身のやる気にも繋がるから。
教えられたことしか知らない――いつか宵藍に言われた言葉を、嫌な形で思い知らされた気がした。
「なんでそんな酷いことができるの……それも紅胡まで! あの人は同じ人間なのに! あんな物みたいに蹴りつけて……っ……しかも毒だって!」
あの毒のくだりは、三王の自作自演だったのだろう。紅胡が自分達を害そうとしたと不死鳥に見せつけたかったのだ。
だが、何も彼女に毒を飲ませる必要はなかったはずだ。死んだと見せかけたいなら眠るだけの薬にすればいい。三王が不死鳥を封じるために紅胡を使うと決めたのは、偶然そうしやすい状況になったから。だとすれば紅胡をあそこまで痛めつける必要などなかったはずだ。
しかし朱華に問われた己火は首を振って、「相手は不死鳥です」と答え始めた。
「生半可な手では見破られると思ったのでしょう。毒も、恐らくは相当強いものを用意したはずです。何せ一緒に飲ませようとしていたのは不死鳥の血、万病を癒やす血液です。いくら紅胡が少ししか口にしないことは予想できたとはいえ、すぐに効果が打ち消されてしまうようでは意味がない。たとえ殺す気がなくとも、弱い毒を使うという選択肢は最初からなかったかと」
「それは……ちょうど良い毒の強さが分からなかったってことでしょ? 王達は紅胡が死んでも仕方がないって思ってたってことじゃないの……?」
「むしろ明確な殺意があったかもしれません。巫女は人間の欲から常に不死鳥を守ってきた存在です。あの時の三王はあなたに多くの血を流させることで弱らせ、そこを狙って封じようとしていました。紅胡はその邪魔になると考えたのでしょう。不死鳥と言葉を交わせるのは神殿でも大巫女だけでしたから、彼女さえ始末すればゆっくりと不死鳥を封じられると思ったのやも」
なんてことだと、朱華は何も言えなくなっていた。否定しようにも己火に見せられた記憶がそれを阻む。
あの時の三王の悪意は記憶越しでも伝わってきた。朱華がこれまで一度も見たことのないほどの悪意だ。
動乱の世に生きた人間はああも他人を顧みないのか。自分の目的のために他者を犠牲にしても何とも思わないのか。その犠牲になったのが不死鳥を守ろうとした紅胡だと思うと、苦しくてたまらない。
「記憶は……? この時にわたしは記憶を失ったの?」
宵藍は朱華が自分で記憶を手放したと言っていた。確かにこんな経験をすれば全て忘れたくなるかもしれない。そう思って朱華は問いかけたが、己火から返ってきたのは「いえ」という否定だった。
「あなたが記憶を捨てられたのは、それよりも後……最初に瑰国で多くの子を産むよう強要された後です」
己火が辛そうに眉根を寄せる。
「あなたはご自分が逃れられないことを知っていました。けれど同時に、人間を愛していた。形は変わってしまえど、自分の力で人間達が平和に暮らせるならと、その身を捧げることにしたのです。記憶は……邪魔だと判断されたのでしょう」
逃げられず、何度蘇っても子を成すことを強要されるなら。だったら全て忘れてしまった方がいい――過去の自分はそう思ったのだろうか。
それも理解できなくもない、と朱華は吐息を漏らしながら目を伏せた。
全てを忘れてしまわなければ、きっと耐えきれなかった。今こうして過ぎたこととして知っただけでもこんなにも苦しいのに、それを体験した記憶を持ったまま生きていくなんて辛すぎる。
「でも、逃げようとはしなかったの……? 切り離したっていう力があればどうにかなったんじゃ……」
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