〈二〉最後の大巫女
遮るものが何一つない広い空、暖かな空気。美しい花々が揺れるその場所で、一人の女性が跪いている。
「――では、そのように」
何者かにそう答えた女性は立ち上がると、くるりと身体の向きを変えて、それまでの後方に向かって歩き出した。歩く先には女性の腰ほどの高さの岩の壁がある。その向こう側に地面はない。代わりにあるのは眼下に広がる雲、その更に先には森。女性は岩の壁までやって来ると、遠く下方に見えるそれらを横目に、壁に沿って進んでいった。
女性が歩くのは、岩肌を這うように作られた細い道だった。足が竦んでしまいそうなくらいの高さがあるのに、落下を防ぐ柵はない。誰ともすれ違えないくらいの幅しかないそこを、女性は淀みなく下りていく。死の危険と隣合わせだというのに、彼女の足取りは地上の道を歩く人々のそれよりもよっぽど速い。彼女の歩くその道は、霊山に唯一ある登山道だった。
女性が地上に辿り着いたのは、一刻以上歩き続けた後。森の木々よりも少し高いそこには立派な神殿が鎮座している。その神殿へと向かって女性が歩を進めれば、彼女の帰りを待っていたらしい他の女性達がねぎらうように集まってきた。
彼女らは巫女だった。霊山の巫女だ。そして、下山してきた黒髪の女性も同じ。他の者達よりも少しばかり装飾の多い着物が、女性の身分を表していた。
「文を」
黒髪の女性が、周りの巫女達に告げる。「内容はいかに」巫女の一人が尋ねれば、その女性はゆるりと後ろを振り返った。
「火神は三王の呼びかけに応じる、と」
§ § §
場面が変わる。女達しかいなかった神殿に、三人の若い男の姿がある。彼らは皆、身分の高さが分かるほど上等な着物に身を包んでいた。背にはそれぞれ筒のようなものを背負い、腰には剣を差している。
「大巫女よ、不死鳥に我らの意向を届けてくれて感謝する」
男達のうちの一人が言う。彼が言葉を向けたのは、あの黒髪の女性だった。
「三国が手を取り合うとのこと、火神は大変喜ばれておいでです。そのために必要ならばいくらでも手を貸そうと仰っております」
黒髪の女性――大巫女が男に頭を下げる。すると別の男が「我らが求めるもののことは?」と大巫女に問いかけた。
「お伝えしております。三国の平和に繋がるのならそれもやむなし、と」
「なんと寛大な御心よ。無理な願いなのはこちらも承知している。しかし不死鳥の血はあらゆる傷を癒やし万病に効くという……もはや頼るほかないのだ」
「火神は事情も理解されております。しかしながら、事前にお伝えしましたとおり、口にするだけでは子には引き継がれないと……」
「分かっている。だから我らが責任を持って、自らの治世で戦乱を鎮める。そのための時間が稼げさえすればそれで良い。不死鳥には既に多くの恩恵をもたらしていただいている」
真剣な眼差しだった。その言葉に納得した大巫女は男に頷くと、三人の男達を順に見た。「その、背中にお持ちのものは?」見慣れないものを揃って背負う男達に、大巫女が怪訝そうに尋ねる。
「土産だ」
答えたのは三人目の男だった。
「不死鳥が貢物を好まないのは承知しているが、それでは我らの気が済まないのだ。同じものを差し出すことで三国の協調を示すこともできる。どうか不死鳥に献上することを許して欲しい」
男が慇懃に頭を下げる。彼に倣って、他二人も同じようにする。そんな相手の姿に大巫女は少しだけ戸惑った様子だったが、「判断は火神に任せましょう」と言って、彼らの願いを受け入れた。
§ § §
場面はまた、山頂へ。不死鳥の住処だ。美しい自然の広がるその広場の奥に、人の身の丈の二、三倍はありそうな大きな炎の塊が浮いている。その前には大巫女が炎を背にして座り、そして更に彼女と向かい合うようにあの三人の男達が腰を下ろしていた。
「――それではこれより、分血の儀を執り行わせていただきます」
大巫女が三人に告げる。すると彼女はくるりと後ろを向いた。炎に向かって一礼し、立ち上がる。手には大きな器と、短刀らしきものがある。それらを持ってするすると炎に近付いていくと、「火神、お翼を」と再び頭を下げた。
炎が動く。大巫女の呼びかけに、炎は片翼を広げるように形を変えた。そして、それを大巫女の前へ。炎の翼が目の前に来ると、大巫女は「失礼いたします」と言って、その翼に短刀を押し当てた。
すうっと引けば、炎の中から赤い血がどろりと流れる。大巫女はすかさずそれをもう片方の手に持っていた器で受け止めた。器の中に、赤い血が満ちていく。燃えるような赤だ。どことなく光を帯びているようにも見える。
器がいっぱいになった頃、自然と血が止まった。炎の翼にあったはずの傷はなくなり、それと同時に翼が元の炎の塊へと帰っていく。
大巫女は最後にもう一度深く礼をすると、器を大事そうに持ちながら男達の方へと戻って行った。
「御三方、こちらへ」
元いた位置に腰を下ろし、大巫女が自分の前あたりを示す。すると男達が各々持っていた器を差し出した。その器に、大巫女が血を注いでいく。三つの器が均等に満たされたところで大巫女は手を止めると、「どうぞお納めください」と言って、男達に頭を下げた。
男達が器を持ち上げる。感慨深そうにその中の血を見つめ、顔を近付ける。
と、その時。一人の男が動きを止めた。「人が飲んで平気なものなのか?」器の呑み口を指で撫でつけながら大巫女に問う。彼に倣うように、他の二人もまた動きを止めて大巫女を見やった。
「望まれたのはそちらでは?」
大巫女の声が低くなる。今更何を言うのかと言いたげな声だ。
「ああ、だがそなたは人間だ。何を企んでいるか分からない。まずはそなたから飲んでみせよ」
そう言って男は大巫女に自分の器を差し出した。突然の出来事に大巫女が眉を顰める。「なんと無礼な者達だ……」と嫌そうに呟いたが、「火神の御血を無駄にすることは許しません」と言って、器に口を付けた。
コクリと、細い喉が動く。器から口を離し、「これでよろしいでしょうか」と怒りを抑えた声で言う。
「こちらは貴重な火神の一部、わたくしが全部いただくわけにはまいりません。しかしながらこれで害などないことはお分かりになられたでしょう? 神の御前でそのような疑いを持つことは許しがたいですが、あなた方三国の関係を鑑みて今回は……――っ!?」
突然、大巫女の手から器が落ちた。残っていた血液が地面にこぼれ出る。その隣に大巫女が崩れ落ちる。
「ぁ……うっ……」
大巫女は自分の胸を押さえていた。顔に苦悶を浮かべ、その額からは大量の冷や汗が流れている。「毒か!」自分の器を持った男が言う。すると大巫女に器を渡した男が「やはり謀ったな!」と声を上げ、大巫女を睨みつけた。
「おかしいと思ったのだ! これまで我ら三王には分かれて詣でよと主張していた巫女共が急に手のひらを返すなどと! 貴様、巫女の立場を利用して我らを始末するつもりだったな!?」
「なっ……ちが……!」
「大方この器に毒を塗ってあったのであろう!? こうして飲んだということは自分は毒を飲まぬよう安全な呑み口を残しておいたのだろうが、やはり山籠りの世間知らずは知恵が足らん。念の為毒があれば広がるように器を撫でつけて正解だったわ!」
男が高らかに笑う。大巫女は、もう言い返すことはなかった。倒れた彼女は動かなくなっていたからだ。「自らの盛った毒で死ぬとは」そう見下すように言って、男は「火神よ!」と立ち上がった。
「この巫女はあなた様を利用して我らを排そうとしました。これは神職としてあるまじき行い! もはやこの女狐の触れたものなど恐ろしゅうて口にできませぬ! 今一度我らにその御血をくださいませ!」
その男に続くように残り二人も立ち上がる。炎は、揺らいでいた。動揺したように形を忙しなく変え、しかし段々と一つの形に収束しようとしている。
それは鳥だった。大きな鳥だ。「おお……!」男達が感嘆の声を漏らす。それまでただの炎の塊でしかなかったそれが、みるみるうちに美しい火の鳥になっていったからだ。
あと少しで完全な火の鳥になりそうだった。しかし、それを止めた声があった。
「なりません、火神……!」
大巫女だ。「貴様、まだ……!」男達が驚きを顕にする。しかし地面に突っ伏した彼女はそれを無視して、真っ青な顔で火の鳥を見続けた。
「わたくしではございません! この者達が何か企んで……――ッ」
大巫女の言葉が途切れる。男の一人に蹴り飛ばされたからだ。宙を舞った大巫女の身体は近くにあった岩に叩きつけられ、だらりと地面に崩れ落ちた。その後頭部からは、滴るほどの血液が流れ出していた。
《紅胡!》
火の鳥が叫んだ。嘶きにも似た、鳥の叫び声。しかしその中には確かに人の言葉があった。
その叫びと同時に火の鳥が動いた。鳥の姿から、再び炎へ。そして地面に横たわる大巫女――紅胡の中へと飛び込む。地面に広がり続けていた紅胡の血液が、ぴたりと止まる。
「ッ、今だ! その女の身体を使うんだ!!」
男達の誰かが吠える。その声と同時に彼らは背中の筒から紙を取り出し、炎に包まれた紅胡を取り囲んだ。




