〈十一〉苦しまないために・前
『猶予をやろう、江宵藍。〝朱華〟に子を産ませろ。一人でも多くの子を成せ。そして、ここであったことは忘れろ。〝朱華〟の死後、十分な実績とお前が忘れたことを確認できたなら、今回のことは不問としてやる』
彗王の言葉が、宵藍の頭の中で何度も繰り返される。
これは罰だ。過去を暴こうとした自分への罰。朱華を抱くことがどんなことかを知りながら、それでも命が惜しければ彼女を犯せと彗王は言っているのだ。そうして自分諸共朱華を苦しませ続けろと、彼はそう言っていたのだ。
こんな人間が我が王だなんて……! ――宵藍の全身が、言いようのないほどの怒りに熱くなる。
再生の間を後にすると、宵藍はその足で江家の屋敷に向かった。時刻は深夜、誰もが寝静まる時間だ。
宵藍は屋敷にやって来るとずいずいと中を進み、ある部屋の前で止まった。
「――兄上」
そこは暁菫の寝室だった。宵藍がそのまま部屋の前で待てばすぐに戸が開いて、そこから眠そうな暁菫が姿を現した。
「宵藍? 一体こんな時間にどうし――」
「お許しください」
それだけ言って、宵藍が頭を下げる。暁菫は何度か目を瞬かせると、不意に神妙な面持ちとなった。「悪さでもするのかな?」困ったように笑えば、宵藍が思い詰めた顔で頭を上げる。
「悪さで済まぬやもしれません」
「……そう」
暁菫がゆっくりと瞼を閉じる。「大事なことなんだね?」問いながら、開いた目で宵藍を見据える。
「愛する人を、これ以上苦しませないためです」
その言葉に暁菫は驚いたように目を丸くした。だが、それも束の間のこと。「なら私なんかに謝っている場合じゃないだろ」と笑うと、「用がそれだけなら早く行きなさい」と続けた。
「言っただろう、私はお前の味方だと。こちらのことは気にしないでいい。早く彼女の元へ行っておあげ」
「ッ……ありがとうございます!」
言うやいなや、宵藍が踵を返す。慌ただしい足取りで屋敷を去っていく弟の背を見ながら、暁菫は「大変なことになりそうだ」と苦笑をこぼした。
§ § §
江家の屋敷を出た宵藍は、今度は宮廷内にある自分と朱華の住まう館へと向かった。今日は閨を共にしない日だ。朱華は自分の部屋にいるだろう。
そう思ってそこを目指せば、朱華の部屋の前に侍女を見つけた。いつものように、彼女に他の男が寄り付かないよう見張っているのだ。「旦那様?」驚いたように問いかけてくる侍女を下がらせ、宵藍が扉に手をかける。
「いけません! 朱華様は今お休みになって――」
「添い寝くらいならいいだろう?」
「っ……!」
うんと愛想の良い笑みを作って言えば、侍女が頬を赤らめた。いつだったか、志宇に言われたことだ。
『もっとにこにこ笑えばいいのに。大将が愛想良く笑えば大抵の女性は言う事聞いてくれますよ。男もね』
あの時はどうでもいいと突っぱねたが、覚えていて良かったと思う。この侍女は朱華の健康を守ることも仕事だが、夫なら眠りを妨げても良いかと迷い始めたらしい。そこですかさず「可愛い妻の傍にいたいんだ」と畳み掛ければ、侍女は感極まったという顔をして、「何も見なかったことにいたします」と今度こそ引き下がった。
障害のなくなった扉をそっと開けて、宵藍はその奥に身体を滑り込ませた。
部屋の中は静かだった。優しく閉めた扉の音さえ響くほどの静寂だ。明かりは落とされて暗く、耳を澄ませば規則正しい寝息が聞こえてくる。
宵藍は寝台に腰掛けると、朱華の寝顔を見つめた。何の憂いもなさそうな顔だ。できればこのまま寝かせてやりたいと思う。このまま何の苦しみもなく、これまでと変わらぬ生活をさせてやりたい。
「ッ……」
だが、無理だった。自分が朱華と子を成さなければ、彼女にはすぐにでも別の男があてがわれるだろう。そんなこと耐えられるはずがない。ならば朱華を抱けるかと問われれば、宵藍には無理だとしか答えられなかった。
朱華に触れたい。彼女が嫌な思いをしないように、これ以上ないほど優しく愛でてやりたい。しかしいくら宵藍がそうしたところで、その先に待つのは苦しみだ。子を産む苦しみではない。子を産む道具として生きねばならない苦しみだ。
朱華は自らが産んだ子を愛する間もなく、すぐに次の子を求められるだろう。身体を十分に休める時間すら与えられず、この国最高の医術を以て子を宿せるよう体調を整えられる。
かつての彼女ならそれを喜んだかもしれない。だがきっと、今の朱華はおかしいと気付く。そして一度気付いてしまえば、彼女はそこから目を逸らし、自分を騙しながら生きるしかなくなる。
朱華と二人、これは違うのだと感じながら、逆らうこともできずに生きていくのだ――それは嫌だった。自分一人なら我慢できても、朱華にまでそんな感情を抱かせたくない。
「……しょうらんさま?」
眠っていた朱華が薄っすらと目を開ける。眠そうで、とろけそうな声だ。平和なそれに宵藍は笑みをこぼすと、「ええ、私です」と朱華の頬を撫でた。
「どうして……――っ、寝過ごしましたか!?」
ぼうっとしていた朱華が、突然何かに気付いたかのように身体を上げる。今日を一緒に寝る日だと勘違いしているのだろう。きょろきょろと辺りを見渡して、しかし自分の寝室だと気付いたらしい。「あれ……?」混乱する朱華を宵藍は抱き寄せて、「落ち着いてください」と背中を擦った。
「朱華様に何も落ち度はありませんよ。私が勝手にここに来ただけです」
「あ……え? どうして……?」
未だ朱華の混乱は治まらないらしい。宵藍はそんな朱華の肩を掴むと、優しく自分から引き離した。
「ここを出ましょう、朱華様」
「出る? 急に何を……あ、部屋を移動するのですか?」
「私と一緒に外で暮らしてください」
朱華の目がまんまるに見開かれる。零れ落ちそうなくらいに開いた目が、宵藍を見つめる。
「どう、いう……? でも……」
「あなたをこれ以上、ここに置いておきたくはない」
そこまで言って、息を吸う。本当は朱華に理由なんて教えたくはない。教えたくないが、それは駄目だ。それでは彼女を縛り付ける人間と同じになってしまう。
朱華には全部教えなければならない。教えて、自分で選ばせなければならない――宵藍は意を決すると、未だ事態を飲み込めないでいる朱華の目を真っ直ぐに見つめた。
「あなたは利用されているだけなんです」
朱華の金色の瞳が、揺れる。
「不死鳥は自らの意志で人間となった……それは嘘です。人間が不死鳥を捕らえたのです。無理矢理人間の肉体に封じて、そして子を産ませ続けている」
「嘘……」
「嘘じゃありません。己火様も認めました。あなたは、不死鳥は……人間に裏切られたと。だからあなたは自ら記憶を捨てたんです。そうして記憶を持たないあなたを、人間は洗脳し利用してきました。血だってもう本当は必要ない。あなたの血はとうの昔に呪いを打ち消した。今人間があなたを利用するのは、その血で大きな力を得るためなんです」
「っ……」
朱華は何も言わなかった。言えなかったのだ。息すらまともに吸えないまま、唇を震わせることしかできない彼女が、宵藍には哀れで仕方がなかった。
こんなことを知って平気なはずがない。受け入れるどころか、話を理解することすら難しいかもしれない。だが宵藍は口を止めるわけにはいかなかった。
もう言ってしまった。朱華は知ってしまった。ならば最後まで言葉を紡がねば、朱華を余計に苦しませてしまうだけだ――泣きそうな顔の朱華を見ながら、心を鬼にする。
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