〈九〉はなしたくない
「お疲れですか?」
ある日の夫婦の寝室で、朱華は隣に座る宵藍に問いかけた。宵藍は今この部屋に来たばかり。朱華としてはすぐにでも寝て欲しかったが、日に日に宵藍の顔が暗くなっていく気がして問いかけずにはいられなかったのだ。
「あ、もしかして夜ゆっくり眠れていませんか? わたしが隣にいるせいならどうぞ言ってください! 床でもどこでもわたしは寝られますから!」
宵藍が何か調べ事をしているのは知っている。そのせいで気を揉んでいるらしいというも察している。であれば、どうにかこの時間くらいはゆっくりと休ませてやりたい。周りに怪しまれないよう眠ることしかできないのだから、せめてその眠りの時間はしっかりと摂らせてあげたい。
そう意気込んだ朱華を、宵藍の目がじっと見つめる。相変わらず美しいが、疲れを感じさせる目だ。「宵藍様?」何も言わない宵藍に朱華が首を傾げた時、宵藍がすっと身体を動かした。
「そんなことしなくていいですよ」
「ッ……!?」
言葉と共に、宵藍の腕が朱華を包み込む。今までにはなかった事態に朱華の頭が一気に混乱する。
宵藍が朱華をこうして抱き寄せるなど、以前侍女の前で内緒話をして以来だ。今はそんなことをする必要なんてないのに、宵藍の腕が強く朱華を抱き締める。
「あ、あの……宵藍様!?」
声が裏返って、朱華は羞恥に襲われた。宵藍に身体が密着しているせいで、自分の心臓の音がいつもよりも大きく聞こえる。それがきっと相手にも聞こえてしまっているのだろうと思うと、余計に大きくなっていく気がする。
そうして朱華が狼狽したまま動けずにいると、宵藍の腕にまた一つ、力が込もった。
「朱華様は、このままでいいですか?」
頭の上から、宵藍の声が落ちてくる。それだけでもいっぱいいっぱいなのに、密着した彼の胸からも声が響く。まるで宵藍に包まれているかのようだと考えて、実際に包まれているのだと思い出した朱華は更に体温が上がるのを感じた。
「このまま、とは……? あの、この状態のことでしたら、その……」
「嫌でしたか」
「ッ、違うんです!」
勢い良く否定してから、その言葉の意味に気が付いた。これでは抱擁をせびっているみたいではないか――そう気付くととうとう頭が真っ白になって、「いや、ちが……」と口が中途半端な言葉しか発してくれない。
「あ、あああああのすみません! わた、わたしってば、はしたない……!」
宵藍の胸に向かって必死に否定する。顔がそこに当たっているせいで心做しか息が苦しい。顔がまた熱くなったのは吐息の熱がこもったからか、それとも別の理由か。朱華が答えを出せないでいると、宵藍が「これははしたないんですか」と朱華の言葉を繰り返した。
「なら、先にした俺もはしたないということになりますね」
「そ、そんなことは!!」
思わず否定した後に、宵藍が〝俺〟と言っていることに気が付いた。最近、時々宵藍は自分のことを〝私〟ではなく〝俺〟と言う。きっとそれが宵藍本来の一人称なのだろう。そう思うと心を開いてきてくれたのかと嬉しく思う反面、どことなく不安が募った。
「あの、宵藍様……? どうしたんですか……?」
朱華が把握している限り、宵藍は疲れ切っている。恐らくは体力的なものだけでなく、精神的にも。そんな彼が、こんなふうにいつもとは違う行動を取る。それがどうしても、よくないことのように思えて仕方がない。
「離したくないだけです」
言って、宵藍が腕に力を込め直す。その声がなんだか弱々しく感じる。するとそれまで朱華を苛んでいた羞恥や熱がすうっと引いていって、「……そう、ですか」と返した声もまた弱々しくなった。
「その、お話の続きなんですが」
「はい」
「この状態のことじゃないのなら……わたしのこと、ですよね」
「……ええ」
ややあってから返された宵藍の声に、朱華がきゅっと縮こまる。
このままでいいのか――それはきっと、朱華が自分自身を理解できていないことを指している。最近自分が何か行動を起こそうとしないから、だから宵藍は痺れを切らして問いかけてきたのかもしれない。
だとするとこの抱擁は、自分を逃さないためか。答えに窮した朱華が部屋から逃げ出さないようにこうして捕らえているのかもしれない。そう考えると、宵藍の彼らしくないこの行動がすっと腑に落ちる。
だが――
「言いたくないです」
言いたくない。自分がこのままでいいと思っているということなど。自分を知らないことに対する不安は、宵藍が近くにいてくれるだけで和らぐのだ。
「……言いたくない?」
案の定、宵藍は怪訝そうに問い返してきた。その言葉に心が痛くなる。この人の優しさを利用しようとしている自分が嫌になる。
けれど、言うわけにはいかない。
「はい。宵藍様に理解していただくためにはお伝えせねばと思うのですが、言いたくないんです」
「何故?」
「……はなしたくないから」
話したくない。話してしまえば、離さなければならなくなる。
離したくないのだ、この人の手を。もう自分のことを知らなくても構わないと思っているだなんて知られてしまったら、宵藍はきっと呆れて自分を見放してしまうから。
すぐには離れないと、言ってくれたけれど。同情のようなその優しさと、答えを知ろうとする自分を支えるための優しさだったら、後者がいい。
「ずっと、このままじゃ駄目なんでしょうか……」
その音が聞こえてから、朱華は自分が口走ってしまった内容を理解した。宵藍からの返事はない。これはとんでもないことを言ってしまったと朱華は顔を青ざめさせると、「言ってみただけです!」と慌てて口を開いた。
「ごめんなさい、冗談にしたってこんなの困らせてしまいますよね。ちゃんとわたしがお役目を果たさないと宵藍様が責められてしまいますし、そうならないためには早くどうするか決めて次の夫を――」
「このままでいいですよ」
宵藍の声が、朱華の口を止める。
「せめて今は、このままでいましょう」
全身を包み込むその声に、朱華の目に涙が滲んだ。きっと宵藍は自分を甘やかしてくれているだけだ。弱音を吐いたからこうして元気づけようとしてくれているだけ。そうと分かっているのに、どうしようもなく嬉しい。
「……はい」
朱華が返せば、宵藍の頬が頭に当たる感覚がした。まるで体勢を整えるように腕が動き、ぎゅっと身体が締め付けられる。
心地良い力強さだった。どこかから落ちそうになっても支えてくれるような、そんな安心感がある。
しばしの間その感覚に浸っていた朱華だったが、ふとあることに気が付いた。
「……あの、もしやこのまま寝ると?」
そんな馬鹿な、と頬を引き攣らせる。このままでいようという言葉は恐らくそういう意味ではない。何か比喩的な表現のはずだ。それなのに宵藍は全く動かないし、なんだったら今の発言をきっかけに布団に向かって力をかけられた気がする。
まさか本当にこのまま寝るのだろうか――朱華が混乱していると、「そのつもりですが?」と宵藍の声が降ってきた。
「えっ!? や、それは……!」
「嫌ですか?」
「だ、だって宵藍様のお邪魔に……! わたしやっぱり床で寝ま……あの、笑ってますね?」
話している途中から、何やら身体が小刻みに揺れ始めた。言葉を切って確認すれば、宵藍の肩がくつくつと動いている。
これは笑われている――朱華が確信を持って問いかければ、「ええ」と楽しげな声が返ってきた。
「からかってますね!?」
「そうですね」
悪びれもせずに言う宵藍は、きっとその麗しい顔に笑みを浮かべているのだろう。体勢のせいで全く見えないが、その表情だけは手に取るように分かる。そう思って朱華が身悶えていると、「でも、」と宵藍が言葉を続けた。
「このまま寝るのは本当ですよ」
「っ……なにゆえに……?」
「両手を塞いでおきたいので」
「りょうて……?」
「こちらの話です」
そこまで言うと、宵藍は今度ははっきりと布団に向かって力を込めた。突然のことに朱華の身体が布団に沈む。宵藍に抱かれているため痛みはなかったが、本当にこのまま寝るのだという実感で何も考えられなくなった。
「朱華様。俺はあなたを傷つけることはしない。それだけは誓えます」
それまでよりもずっと真剣な声で、宵藍が告げる。相変わらず顔は見えない。
朱華は何故彼が今そんな話をするのか分からなかったが、問い返すことはしなかった。してはいけないと感じてしまったからだ。
「……はい」
朱華はどうにかそれだけ答えると、今感じたものを誤魔化すように宵藍の胸に額を押し付けた。
§ § §
明くる日、自分の執務室へと出勤した宵藍は朝からしきりに腕を回していた。凝り固まった筋肉を解すような動作だ。
流石に大人一人を一晩中抱えたまま眠るのは無謀だった、と溜息を吐く。だがそうして自分の身体の自由を奪っておかないと、そろそろ何をしでかすか分からなかったのだ。
最初に朱華を抱き締めたのは、ほぼ無意識だった。彼女を腕の中に閉じ込めてから自分のしたことに気が付いた。これは非常に良くない、と思う。不死鳥が自分の意志で人間になったのではないということはもう確信を持っている。他でもない己火があの日認めたからだ。
『そんなに知りたいなら教えてやろうか。朱華様が人になったのは――』
己火の言葉が、頭から離れない。彼の語ったことが真実だとすれば、朱華は解放されなければならない。
彼女が解放され人の元を去れば、ほどなくしてこの国は、三国は、再びかつての動乱の世に戻るだろう。しかしだからと言って、このまま朱華一人に全ての役目を押し付けるだなんてことは見逃せない。
宵藍が考え込んでいると、志宇が執務室にやってきた。「うわ、くっら……」宵藍を見るなり志宇が眉を顰める。
「……そんなことを言うために来たのか?」
「まさか。こないだ調べてくれって言われてた件、ちょっと分かってきたんで報告しようかなぁと思ったんですよ」
志宇の言葉に宵藍が背筋を正す。「どうだった?」そのまま厳しい様子で問えば、志宇は驚いたような顔をした後、すぐに「いましたよ」と頷いた。
「国主の分家に生まれたのに、平民と駆け落ち同然で結ばれたっていう奇特な方が。つってももう二百年近く昔っぽいですけどね」
「子孫は」
「いましたいました。その分家出身のご先祖様が持ってた品を、家宝だって自慢げに見せてくれましたよ」
志宇の話を聞きながら、宵藍は自分が緊張していくのを感じていた。志宇には彼が話したような条件に合う人物を探して欲しいと頼んでいたからだ。
その理由は、ただ一つ。
「その者は方士なのか? 年齢は?」
待ち切れないとばかりに宵藍が急かせば、志宇は「ちゃんと聞きましたから!」と上司を宥めるように両手を出した。
「方士じゃないですよ。才能もなかったみたいです。俺も見てみましたけど、まあ本当でしょう。んで、その人は今四十ちょっと。ちなみに親御さんは七十歳近いですが、ちょっと足腰が弱ってるくらいでご健在でしたよ」
志宇の報告に宵藍が言葉を失う。志宇も宵藍が何を気にしているのか悟ったのか、「大将、これって……」と表情を強張らせる。宵藍はそんな部下の様子に気が付くと、「この件は忘れろ」と志宇に告げた。
「これは命令だ。この件は一切他言無用、俺との間でも話題にするな」
宵藍の剣幕に、志宇がゴクリと喉を動かす。「……一応、そのご先祖が載ってる分家の家系図もありますよ」と宵藍に持っていた紙を差し出して、「大将」と神妙な面持ちを浮かべた。
「命令には勿論従います。ですがあなたも変なことには首を突っ込まないでください。これは深入りしていいことじゃない」
「……分かってる」
志宇から受け取った紙を開きながら、宵藍が一層表情を険しくする。
二百年――〝朱華〟の血が汪琥の子孫に混ざらなかった時間だ。家系図で見る限り、実際の期間はそれよりも数十年は長いだろう。
その間〝朱華〟の血が足されていないのに、その子孫は短命に苦しんではいない。それだけならばまだ良かった。しかし〝方士の才能はなかった〟という志宇の言葉が、宵藍の胸を掻き乱す。
呪いを打ち消すためならば、もうきっと〝朱華〟の血は必要ない。必要だとしてもこんな頻繁に取り入れる意味はないのだ。……欲しいのが、呪いを打ち消す力だけならば。
「こんなことが許されるのか……!」
今も尚〝朱華〟の血が必要とされるのは、方士としての力を得るためだ。




