〈七〉神殺しの一族・後
「だけど宵藍、」兄の厳しい声が、宵藍に緊張をもたらす。
「よく覚えておきなさい。確かに人間でも神を封じることはできるかもしれない。けれど、それは神殺しだ。神殺しは術者だけの問題では済まない」
かつてないほど圧のある兄の声に、宵藍の身体が固まる。全身を緊張に包まれた彼を見ると、暁菫はふっと、放つ空気を少しだけ和らげた。
「汪琥を蝕んでいた呪いはお前も知っているね? どれだけ世代を重ねても弱まらなかった強力な呪いだ。私達の血にも、未だ潜み続けている」
「……ええ」
神妙な面持ちで宵藍が頷く。不死鳥の血で打ち消されているとはいえ、この身に汪琥の血が流れているのは紛れもない事実。もう呪いが再び力を持つことはないかもしれないが、そこに呪われた血がある以上、いつ何が起こるか分からない――自分の置かれた状況を思い出す。これまで一度も恐れたことはなかったが、改めて言葉にされると急にその存在が近くに感じられて、自分の命が危うく思えてくる。
不気味な感覚に宵藍が黙り込むと、暁菫は「東の大陸にこんな伝説がある」と静かに話し出した。
「かつて海と見紛うほど大きな湖があって、その湖には守り神がいたそうだ。しかしある時、その神は湖の水と共に姿を消してしまった。一晩の出来事だ。以来その湖は枯れ果てて荒野となり、あらゆる生物の墓場となった……ってね」
「それが、神殺しの結果だと?」
「彼の地ではそう伝わってる。私も、そうなんだろうなと思ってる。でなければそんな大きな湖の水がたった一晩で干上がるわけがないからね」
そこで暁菫は一呼吸置いた。真剣な目は遠くを映し、かすかに迷いが見え隠れしている。言うか、言わまいか――暁菫が迷っていることは宵藍にも分かった。
だが、内容が分からない。だから宵藍が固唾を飲んでその続きを待っていると、やがて暁菫が意を決したように、「それから――」と話を続けた。
「――その湖が枯れた時期は、この地に汪琥が渡ったとされるのと同時期だ」
遠くを見ていた目が、真っ直ぐに宵藍を射抜く。「ッ……それは、考えすぎでは?」二つの出来事に関連性を見出しているような兄の言葉に、宵藍の額に冷や汗が滲む。
「そうかもしれないね。でも汪琥を蝕んでいた呪いの強さを考えれば、神殺しの代償だとしてもおかしくはない。人間なんかが何世代にも渡る呪いをかけられるとは思えない。血が薄まるにつれ、呪いの力も弱まるべきだ。だけど記録ではそうじゃない。それに汪琥がこの地に渡った理由もそうだ。水の神の呪いに怯えるならば、火の神である不死鳥のお膝元にいた方が安心だろう。しかも不死鳥は再生を司る神……藁にも縋りたい人間にとって、これほどうってつけな存在はない」
「…………」
兄の言葉に、宵藍は何も返すことができなかった。あまりに衝撃が大きすぎるのだ。
汪琥が東の大陸で神を殺し、その時に受けた呪いから逃れるために、水の神とは対極の存在である火の神の庇護を求めた――暁菫が言わんとしているのはそういうことだ。しかしその汪琥は自分達の祖先。それどころかこの島にある三国全ての国主一族の祖でもある。
汪琥を貶める言葉など、この地では誰も口にしない。遠すぎて言及されないということもそうだが、皆どこかで〝そうしてはいけない〟と思っているのだ。汪琥を貶めることは、三王を貶めることと同じ。だから誰も疑問を持たない。何故汪琥は呪われたのかと、誰もそのことについては触れない。
しかし、だからこそ宵藍には兄の言葉が酷く現実味を持って感じられた。誰も触れないということは、誰も知らないということ。もしくは、触れてはならない理由があったということ。
今の時代の者達は誰も知らないが、もし、かつての民衆が〝触れてはいけない〟と考えていたのであれば――宵藍が再び緊張を滲ませた時、「そんなに考え込まない」と場違いなほど穏やかな暁菫の声が聞こえてきた。
「実際のところどうだったかなんて分からないんだからね。あ、それと今した話は内緒だよ? この国でこんな考えを持ってるって知られれば投獄じゃ済まない」
いつもどおりの笑みで暁菫が言う。それが宵藍には恐ろしかった。兄はこんなことを知っていたのかと、知った上で何も知らないふりをしていたのかと空恐ろしくなる。
「兄上は、正そうとは思わないのですか……?」
今の三国の繁栄は神殺しという重すぎる罪の上に成り立っているものだと込めて言えば、暁菫が困ったように眉を落とした。
「証拠がない。これはただの妄想かもしれない。それにもし事実だったとしても、どうやって正す? 単純なのは湖の神の封印を解くことだろう。だけどどこに封じられているかはいくら調べても分からなかったし、仮に分かったとしても、今度はその封印を解いたら何が起こるか分からない。それこそかの神の逆鱗に触れてこの三国が滅ぼされてしまうかもしれない。私一人の正義感だけで、この土地に住まう全ての命を賭けるわけにはいかないよ」
事の重大さを説くように暁菫が告げる。それがまるで宵藍には自分が諭されているように感じられた。お前一人の感情だけで動くなと、そんな責任はお前には負いきれないのだと言い聞かせられている気分になる。暁菫は宵藍が何のために過去を調べているか知らないはずなのに、全てを見透かされているような気になってくる。
「何にせよ、人が神をどうこうしようとするのはそれだけで大罪だ。人の法が定めたからではなく、この世の理がそうなんだよ。だったら、それをした者達は恐れたはず。恐れた人間が取る行動なんて大体決まっている。そのあたりについては、ここで安全に暮らしている私よりお前の方が詳しいんじゃない?」
宵藍の緊張を解すかのような言い方だった。先程までは止めようとしているように感じられたのに、これではまるで――宵藍は顔を上げると、怪訝な面持ちで兄を見つめた。
「人が神に手を出すのは大罪と言いましたね」
「うん」
「それなのに何故俺にこんな話を? 俺がしようとしていることは――」
宵藍の口の前に、暁菫が人差し指を差し出す。
「分からないよ、お前がしようとしていることなんて。知らない方がいいとも思ってる。だけど困ったことに、私はお前のことならよく知っているんだ。……お前は優しい子だ、宵藍。人付き合いは上手とは言えないけれど、でも思いやりがあって、間違いを見過ごすのが苦手。そんなお前が私に頼るほど必死になるんだ、きっと助けたい人がいるんだろう?」
それは何もかも分かっているかのような言い方だった。
暁菫はもしかしたら不死鳥のことも知っているのかもしれない。だから自分がしようとしていることも、本当は分かっているのかもしれない――宵藍が動けなくなっていると、ふっと、暁菫が微笑んだ。「私が知っていることは教えた」と目を細め、慈しむように宵藍を見る。
「あとはお前次第だ、宵藍。だけどこれだけは忘れないで。――何があっても、私はお前の味方だよ」
慈愛に満ちたその眼差しに、宵藍は何も返すことができなかった。




