〈六〉神殺しの一族・前
「宵藍がお兄ちゃんを頼ってくれるなんて嬉しいなぁ」
楽しげな声が聞こえて、宵藍はそれまでしていた作業の手を止めた。身体ごと相手の方へと向けば、部屋の入口に立った若い男の姿が目に入る。名を、暁菫。宵藍の三つ離れた兄だ。顔立ちはよく似ているが、宵藍とは違ってにこにこと穏やかで愛想の良い笑みを浮かべている。
宵藍はそんな兄に頭を下げると、「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と慇懃に謝った。
「いいのいいの。普段は全然役に立たないお兄ちゃんなんだから。むしろお前が頼ってくれて嬉しいんだよ」
暁菫が部屋の中に入りながら言う。ここは宮廷の外にある江家の屋敷――ではなく、その離れ。普段は誰も使わないため埃っぽいそこに、部屋中を埋め尽くすかのような量の箱が置かれている。
それを苦労して避けながら近付いてくる暁菫に、宵藍は苦笑を返した。
「当主が何を言っているんです。兄上が役に立たないだなんてことはないでしょう」
「当主って言ってもお飾りだよ。私は宵藍ほど武勇に優れてもいないし、目立たないし……」
「兄上のお陰で俺は方術以外のことに取り組めたようなものです。そう卑下なさらないでください」
強い声で宵藍が言う。すると暁菫はくっと眉尻を下げた。
「ごめんね。やっぱりちょっと後ろめたくてさ」
「……朱華様とのことでしたら、兄上が責任を感じる必要はありません」
「だけど私としては、可愛い弟には好きな女性と一緒になって欲しかったよ。折角お前は家のしがらみがなかったのに、よりにもよって〝朱華様〟だなんて……あの方自身が悪いとは思わないけれど、先立たれるのが決まっているようなものだからさ」
そう言う暁菫の顔は悲しげだった。男やもめとなることが決まってしまった弟を案ずる表情だ。「確かに、先立たれるのは辛いですね……」宵藍が返せば、暁菫ははたと動きを止めて、その目を瞬かせた。
「珍しいね。お前がそんなふうに言うなんて」
「言ったでしょう。兄上が責任を感じる必要はないと」
「……好きなの? 〝朱華様〟のこと」
「さあ」
「へえ? じゃあこれはその可愛い奥さんのためかな」
にこにこと笑って両手を広げる暁菫に、宵藍は決まり悪そうに顔を背けることしかできなかった。暁菫が指しているのは部屋に置かれた箱のことだ。その中身は宵藍が兄を頼って取り寄せた、霊山の神殿に関する他国の資料。
暁菫は宵藍と違い武術の才には恵まれなかったが、代わりに方士としてこの国一番と言っても良いほどの実力を持っていた。気の保有量から方術を扱う技術、更にはその知識と、どれも宵藍を凌駕している。その上方術の研究者としても名を馳せているため、彗国以外の資料を集めるには彼の力が必要だったのだ。
だが、本当ならできるだけ自分一人でやりたかったと宵藍は思っていた。たとえ目的を告げずとも、関わらせてしまったのは事実。もし今後自分が罰せられるようなことになったなら、兄にも迷惑をかけかねない――黙り込んでしまった宵藍に、暁菫がくすりと笑みをこぼす。「心配しなくても大丈夫だよ」と助け舟を出すように言って、宵藍の視線を自分の方へと戻させた。
「ここにあるものは全部、私の研究のためと言って調達してある。その様子じゃあ誰かに知られるのは困るんだろう? 館に置かないってことは、〝朱華様〟にも知られたくないんだね」
「……そうですね」
「好きなだけここを使うといい。人払いはしてある。あ、他に必要なものがあったら言ってね。お前は私のたった一人の家族なんだ、気負う必要なんてないよ」
「……ありがとうございます」
気恥ずかしそうに宵藍が言えば、暁菫はにっこりと微笑んだ。その顔が随分大人びて見えて、宵藍に時の流れを思い知らせる。
最後にこうして兄と話したのは、彼が家督を継ぐ前だ――古い記憶が蘇る。宵藍と暁菫の両親は事故で早くに亡くなった。だから当時十九歳だった暁菫が当主の座を継いだのだが、その頃の自分は駆け出しの軍人で、その仕事にばかり集中してほとんど家に帰っていなかったことを思い出した。
兄にはきっと、自分が思っている以上の苦労をかけてしまったのだろう。彼から助けを求められなかったため大丈夫だろうと思ってしまっていたが、ろくに準備もできないまま江家当主を引き継がざるを得なくなったのだから大丈夫なはずがない。
それなのに、暁菫は自分にいくらでも頼れと言ってくれる。そんな兄の心遣いに宵藍は気持ちが軽くなるのを感じて、もう少しだけ頼りたくなった。
「あの、兄上」
「ん?」
「人間に、神を封じることはできると思いますか」
「……また怖いことを言うね」
宵藍の言葉に、部屋を出ていこうとしていた暁菫が扉を閉める。僅かに宵藍を探るように見て、ふう、と息を吐きながら彼の元へと戻った。
「何に封じるかによる、と言っておこうか」
「何に……」
「そう。神と呼ばれるような妖の力は膨大だ。なら当然、それが収まる箱を用意してやらなきゃならない。それくらいはお前も分かるだろう?」
「ええ。しかし、神を封じられる箱など……」
真剣な暁菫の眼差しに、宵藍が考えるように目を伏せる。そんな彼に暁菫は「そう、存在しない」と言うと、「だから神は神なんだ」と言葉を続けた。
「神とは人間の力の及ばない存在……でもお前は、神を封じられると思っているね?」
「ッ……」
突然図星を刺され、宵藍の眉がぴくりと動く。一体いつ気付かれたのかと考えてみても、思考に集中していたせいで思い当たらない。
「妖魔を払う時に、過去に封じた別の妖魔を使うことがあるだろう?」
身構えた宵藍の緊張を解すように、暁菫が穏やかな声で問いかける。その声に宵藍は安堵すると、問いの答えを頭に思い浮かべた。
「ええ、対象の妖魔を弱らせるために」
「なんで弱らせるのかな?」
「それは、その方が封じる力が少なくて済むからで……――ッ」
宵藍がはっと息を呑む。すると暁菫はにっこりと笑って、「そういうことだよ」と頷いてみせた。
「強いなら弱らせればいい。力が足りないなら足せばいい。そうすればもしかしたら、人間でも神に対抗できるかもしれないね」
それが人間が神を封じる方法なのだ――穏やかな暁菫の声を聞きながら、宵藍は自分の心臓が騒ぎ出すのを感じていた。
理論上は人間にも神を封じることができる。それも、こんなにも単純な方法で。単純すぎて考えもしなかった。そして、単純であるがゆえに難しいということも分かる。人間の手が届くほど神を弱らせることも、その弱った神を封じるための力を集めることも。
しかし、宵藍の疑問を一つ解決した事実は変わらない。ただ、あまり良い気分とは言えなかった。方法を知ったが、代わりに〝人間にもできてしまう〟のだと確信を得てしまったせいで心が落ち着かないのだ。
不死鳥は自分の意志で人間になったわけではないのかもしれない――その可能性を補強する現実に、宵藍の表情が強張る。
そんな彼を更に緊張させたのは、兄の「だけど宵藍、」という厳しい声だった。
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