〈五〉恩恵と迷い
「――大将? 大将ってば!!」
突然の大声が宵藍の耳を貫く。その声と同時に、宵藍は視界いっぱいに志宇の顔があることに気が付いた。「ッ……」驚きのあまり一瞬声を失って、しかしすぐにむすっと眉間に不満を刻み込む。
「気持ち悪い」
「ひっど! 大将が悪いんですよ。人が散々呼んでるのにぼーっとしちゃって。そんな隙だらけじゃそこらの女性に唇奪われますよ。ま、今は朱華様の夫って肩書きがあるから大丈夫でしょうけど」
「……そんなに呼んでいたか?」
呼ばれた覚えはないぞ、と宵藍が込めて言えば、志宇が「嘘でしょ……」と口をあんぐりと開けた。
「どうしたんですか、大将。何か変なものでも食べました? あなたがそんな呆けるなんて一大事ですよ」
「……うるさい」
そこまで自分は考え込んでいたのか、と宵藍は目を閉じた。思えば、志宇がここに来た記憶もない気がする。
ここは宵藍の執務室だが、志宇は宵藍の返事を待たずに入室する。本来はご法度だが、宵藍がいちいち返事をするのが面倒だからと志宇に言ってあるためだ。副官である志宇に聞かれて困る話なんて滅多にないし、それがある時は事前に伝えておく。たとえ何らかの理由でそうすることができずとも、志宇が部屋に入ろうとした瞬間に後にしろと言えばいいだけだ。
だから志宇がここにいること自体は何ら問題はない。問題なのは、自分が彼の来訪に気付かないほど深く考え込んでいて、それを志宇に知られてしまったということだ。
「何があったんです?」
案の定、志宇は心配そうに宵藍に問いかけてきた。まだ何について考えているか知られていないうちはいい。面倒なのはその後だ。軍の仕事ならまだしも、朱華関連と気付かれれば面倒な予感しかしない。
「何でもない。気にするな」
「気にするでしょう。あなたがそんなに考え込むだなんて初めて見ますよ。あ、分かった。朱華様のことでしょう?」
「違う」
「嘘ばっかり。男の勘を舐めちゃいけませんよ」
ニマァっと志宇が笑みを浮かべる。それを鬱陶しそうに睨みつければ、「ほらやっぱ朱華様のことだ!」と志宇が歓声を上げた。
「ほらほら、俺に言ってみてくださいよ。何が問題なんですか? とうとう今まで人の気持ちに無頓着だったツケが回ってきたんですか?」
「……違う」
「じゃあもしかして、朱華様に下手くそとか言われました?」
「今すぐその下世話な考えを捨てないと一人で武器庫の点検に行かせるぞ」
「うっわ、それ大勢でやって一日かかるやつ……。いいじゃないですか、別に。シモの話なんて普通にみんなしてますよ。そうやって毛嫌いするのは大将くら……い、なことはないです、みんなしませんすみません」
早口の志宇が両手を上げて降参を示す。それを見て宵藍が視線を緩めれば、志宇は安心したように息を吐き出した。
「冗談はこのくらいにして……大将が何に悩んでるか知りませんが、真面目な話、朱華様のことならいくら悩んでも仕方がないと思いますよ」
ぽりぽりと頭を掻いて、志宇が続ける。
「お役目のことだろうがお互いの気持ちのことだろうが、悩みが何であろうと関係ありません。あの方が子を産むことは決定事項なんです。この国だけでなく、三国間のね。三国がちゃんと決まりを守って朱華様の子を待つから平和でいられるんですよ。いくら大将ほどの身分がおありでも、そんな大義の前じゃご自分がただの歯車に過ぎないことくらい自覚されているでしょう?」
「……分かってる」
渋々と返した宵藍に、志宇は「どうだか」と肩を竦めた。
「俺みたいな平民からすれば、大将は十分に朱華様の恩恵に預かってますよ。不公平だって思えるくらいにね」
「夫となることが?」
「違いますよ、それ以前の話です」
志宇の言葉に宵藍が眉根を寄せる。記憶を辿ってみるも、心当たりはない。宵藍が諦めて「なんだ」と問えば、志宇が「大将、いくつになりました?」と問いかけてきた。
「二十二だ。知っているだろう」
「かつての三王の寿命は?」
続いた問いに、志宇の言わんとしていることを理解した。「……二十五前後だな」そのまま答えを返せば、志宇は「そういうことですよ」と言って話を再開した。
「あなたの身体にも呪い血が流れている。それなのに寿命を気にしないでいられるのは、その身に朱華様の血も流れているからです。と言っても、何世代も前でしょうがね。そしてその血のお陰で江家含めた国主の分家は、方士として必要不可欠な気の保有量がとても多い……分家の方々が方士として名を馳せているのは朱華様のお陰でしょう。一般人からしたらずるい以外の何物でもないですよ。特に方士になりたかった人間にはね。方士になるには努力じゃどうしようもないものが必須なのに、一部の人間がそれを独占しているようなものなんだから」
志宇の目が厳しくなる。〝方士になりたかった人間〟からのこの言葉は、今の宵藍には重い。
志宇の言うとおりだった。方士になるには肉体に多く気を保有していなければならず、これは訓練で増やすことができない。生まれた瞬間に方士になれるかどうかが確定してしまうのだ。
そして、朱華の血のお陰で分家が方士としての地位を保っているというのも事実だった。元々は呪いによって短かった寿命を人並みに延ばすために不死鳥の血を取り入れたが、人間はその副次効果として膨大な気の力を得たのだ。
朱華の、不死鳥の血を得ることができるのは、三国のどこでも国主一族とその血縁者。つまりこの者達は方士としての地位も独占していることになる。
宵藍も曾祖母が〝朱華〟の子だった。〝朱華〟は複数の子を成す使命がある。だから〝朱華〟の産んだ子のうち最も適正のある者が国主の配偶者とされるが、残りは分家に〝下賜〟されるのだ。そうして国主の血を引く分家もまた定期的に呪いを打ち消し、寿命と共に常人を逸する気の力を得る。
自分が今こうして生きていられるのも、方士として持て囃されているのも、過去の〝朱華〟のお陰なのだ――志宇の言葉からそれを改めて実感して、宵藍は顔を伏せた。
「俺は、一族が受けた恩を返さなければならないということか……」
ぽつり、呟く。曾祖母なんて顔も見たことがないのに――と考えかけて、はたと動きを止めた。
「……大将?」
突然固まってしまった宵藍に、志宇が怪訝そうに呼びかける。しかし宵藍は答えなかった。ある考えに思考を支配されていたからだ。
〝朱華〟の血は、一度混じれば何世代も効果が続く。……では、どこまで?
「志宇」
宵藍が鋭い声で呼べば、志宇はばっと姿勢を正した。
「お前に頼みがある」
§ § §
ある日の真夜中のこと。しんと静まった夫婦の寝室で、朱華は隣に眠る宵藍を見ていた。
「綺麗……」
ほとんど吐息のような声が、朱華の口からこぼれ落ちる。
こうして宵藍の寝顔を見るのは初めてだ。いつもは朱華の方が先に寝てしまうから、彼の寝顔を見る機会はなかった。
だが今日は、偶然にも夜中に目が覚めた。なんとなく目を開ければ、そこには珍しい宵藍の寝顔。この機会を逃すわけにはいかないと、朱華はこっそりと宵藍の寝顔を見つめていた。
最近、宵藍は忙しいようだ。これは予想ではなく、事実。やることがあるから寝室に来る時間を遅らせたいと、宵藍から直接言われたのだ。
しかし、軍の仕事ではないという。あまり言いふらさないでくれと口止めもされているから、周りには知られたくないことなのだろう。朱華には見当も付かなかったが、宵藍が大事なことだと言うからその言いつけを守っている。
ただ、少し心配だった。宵藍が待てと言うなら待てる。大事なことだと言うのなら、本当にそうなのだろう。相手を疑う気が起きないのは、宵藍がそういった隠し事はしない性格だと知っているからだ。そして、自分と真剣に向き合ってくれていると実感しているから。
『俺はあなたを嫌っていない』
その言葉が、朱華の胸を満たす。宵藍に嫌われていないと思うとこんなにも嬉しくなる。もうこれだけいいと、思ってしまう。
結局、自分の何がおかしいのかは分からないままだ。祭りの後も宵藍と語らい、それとなく町の様子も周りから聞いている。そのたびに新しいことを知るのに、特に収穫はない。たまに自分はおかしいのだと実感させられるが、ではどうおかしいのかはやはり分からないまま。
自分で自分が分からないということは、酷く恐ろしい。独りぼっちで、周りには足の踏み場もないのと同じだ。だから自分を知るために一歩踏み出したいが、それをすれば真っ暗な奈落に落ちてしまいそうで、どうにかなってしまいそうなくらいに怖かった。
今もその状況は変わっていない。だが、宵藍の手がここにある。たとえ彼自身がその時近くにおらずとも、どんな時でもどこかから彼の手が伸びてきて、その場に立ち尽くす自分の手を握ってくれる――そう思うと、この恐怖が、不安が、すうっと引いていくのだ。
だからもう、これでいい気もしている。分からないことは分からないままだが、宵藍がいてくれるなら、それでいい。
「……だめ、ですか?」
眠る宵藍に、そっと問いかける。起こさぬように吐息すらも聞こえないくらいの声。それなのに返事を期待してしまう。
と同時に、返事がなくてよかったとも思った。宵藍はきっと、自分がこうして諦めてしまうことを好まない。そんな自分の心持ちが知られれば、もしかしたら今度こそ見限られてしまうかもしれない。
結局わたしはどうしたいのだろう――答えの出ない問いが、朱華の気持ちを暗くする。それから逃れるように、目を閉じる。
宵藍の静かな寝息が、朱華の心を慰めた。




