〈四〉無意味な努力
『いつでも言ってください――……わたしを、理解できそうになかったら』
諦めたような朱華の声が、宵藍の耳に残る。
『宵藍様がわたしを嫌っていることは分かっています。受け入れています。ですがこれ以上嫌われたくはありません。無理をさせてしまうことでわたしへの嫌悪感が増すならば、どうか約束など気にせずわたしの元を……元、を……』
何故素直に離れるなと言えないのかと、苛立ちを感じた。だが、すぐに気が付いた――これを言わせているのは自分だと。
自分のこれまでの振る舞いが朱華を嫌っていると、そして理解できなければ去ると彼女に思わせてしまっていたのだ。
確かにそれは嘘ではない。あの頃の自分はそのつもりだった。しかし、今はもう違うのだ。もし朱華を理解できずとも、簡単に去ったりはしない。嫌ってもいない。むしろ――
「ッ……考えるな」
それは考えてはいけない。今調べていることがはっきりしない以上、朱華に邪な気持ちなど持ってはいけない。
『俺はあなたを嫌っていない』
そう、これが限界だ。朱華を嫌ってはいない――それ以上の感情は、抱いてはいけない。
宵藍は余計な考えから気を逸らすように、目の前のものに意識を戻した。
ここは、国の記録庫。建国から全ての記録が揃っている。不死鳥を人にした術の調査が進展しないため、宵藍は最初から洗い直すことにしたのだ。
最初から――つまりは伝説以前。この島には不死鳥がいて、その恩恵を求めて人が移住した。この島最初の国である紆梁を建国したのは汪琥一族。この一族が呪いに蝕まれていた、というのが伝説の冒頭での話だ。
優れた方士一族であった汪琥は長年手を尽くしたが、呪いで短くなった寿命を元に戻すことはできなかった。そのせいで一族は閻家、馮家、寉家の三つに分裂し、それぞれが瑰国、杷国、彗国を興した。
伝説では、ここまでが前置き。本題は不死鳥が人になる場面だ。不死鳥が人間になったという事実は、この三国の人々の価値観の基礎となっている。
だから、今調べるべきはその前。今でこそ良好な三国関係が、不死鳥を嘆かせるほど険悪だった頃のこと。
幸い、その頃の資料は残っていた。ほとんどが戦乱の歴史だ。やれどの国の誰を討ち取っただの、やれどの国のどこに多大な被害をもたらすことに成功しただの、ただの人殺しの記録が淡々と、しかし自慢げに記されている。
その中で唯一、平和な内容があった。それに関する記録では滅多に人は死なず、そしてその死すら意図したものではないと分かるものだ。
「霊山の巫女……」
それはまだ、不死鳥が霊山にいた頃。最初の国である紆梁が、不死鳥を敬うために神殿を建てたらしい。そしてその神殿は紆梁が分裂した後もそれまでの機能を保ち続けた。人間の争いと信仰は関係がなかったからだ。
驚くべきは、戦時中の三国は決してその神殿を軽んじなかったということ。紆梁時代からの基準で選ばれる巫女は、出身を問わずその基準でのみ採用された。つまりこの神殿は、動乱の時代の中で唯一平和を保ち続けた場所なのだ。
この神殿には三国それぞれの出身の巫女がいたが、彼女らが争い合うことはなかった。自らの役割に集中するためだ。
彼女らの役割とは、人と不死鳥を繋ぐこと。不死鳥を火神と呼び、自らを火神の遣いと称した。特に大巫女と呼ばれる存在は、不死鳥と直接言葉を交わすことが許された至上の役割。不死鳥の恩恵で生きてきた人々は、この大巫女を不死鳥と同じく敬ったという。
「巫女の選定基準は……クソ、ここにはないのか」
宵藍は悪態を吐くと、疲れたように額に手を当てた。
ここにあるのは彗国の記録だけだ。神殿に関することも最低限の記録だけ。巫女達の出身には軽く触れられているが、その選定基準という神殿の運営に関わるようなことは残っていない。
それらがあるとすれば神殿内部だろう。しかしそれは絶望的だと、宵藍は調べずとも知っていた。この神殿も巫女も、もう残っていないのだ。大昔に失われ、今では歴史を学びでもしない限りその存在を知る機会すらない。
霊山の巫女の選定基準に方術の才が含まれるかどうか――宵藍が今知りたいのはこれだった。もし巫女達が方士であるならば、大巫女という存在はかなりの実力を持った術者なのではないか。だとすれば不死鳥を人にする術を使うことも可能かもしれない。だから巫女について詳しいことが知りたかった。
だが詳細が記されたものが神殿にしかなかったのだとしたら、その術に関する記録もまた神殿と一緒に失われてしまったということになる。不死鳥を人のまましておくため、今もその術が伝わっているはずだという推測とは合わなくなってしまう。
それでも、宵藍は調べずにはいられなかった。とにかくこの巫女に関する詳細が欲しい。人が不死鳥を人間にしたのかもしれない。その可能性を消すためには、調べられるだけ調べなければならない。
そうしてもし、人がやったという証拠が出なかったら――
「――出なかったら……俺は、どうしたい……?」
朱華が自分の意志で人と交わるようになったと確信が持てたなら。その時自分は、彼女を抱くのだろうか。この因習の中に自らも取り込まれてしまうと恐れながら、それが朱華の望みだと自分に言い聞かせて、あの幼気な少女に自らの欲をぶつけるのだろうか。
「ッ……」
おぞましい、と思う。無垢な彼女にそれをしてしまうことが。そして、そうしたいと感じてしまっていることが。
「まだ早い……まだ……まだ、人間の仕業でないと決まったわけじゃない……」
宵藍は邪念を振り払うように頭を振ると、再び目の前の資料に手を伸ばした。
「――やめておけ」
「ッ!?」
突然聞こえた声に宵藍が振り返る。誰の気配もなかった。何も感じなかった。それなのに何故――そう混乱する宵藍の前に、赤い人影が姿を現す。
「己火様……」
何故、彼がここに。朱華に仕える己火は、基本的に彼女の前にしか姿を現さない。だから夫である宵藍さえもその姿を間近で見たことはなかった。それなのに、己火が今ここにいる。朱華が近くにいるわけでもないのに、こうして自分のすぐ近くにいる。
その事実に宵藍は嫌なものを感じた。
「やめておけ、というのは……私に調べられたら困るということですか」
己火は全てを見てきた唯一の存在。そんな存在が自分の調査を止める理由など、宵藍にはそういくつも思い付かない。
だから宵藍の振る舞いには自然と敵意が滲んだが、己火はそれを全く気にした素振りも見せず、「そんなところだ」と肯定を示した。
「人の子が生半可な気持ちで手を出すものじゃない。ましてや自らの劣情を隠すためにはな」
「…………」
「安心しろ、朱華様は気付いておられない。ただ私の目が肥えてしまっただけだ。お前のような男は初めてじゃない」
お前のような男は初めてじゃない――その言葉に、宵藍は自分の中に醜い感情が湧き上がるのを感じた。……これは嫉妬だ。朱華をお役目以外の目的で抱こうとした男がいるのだと、それが何人もいたのだという己火の言葉が、宵藍の中の嫉妬心をちくりちくりと刺激するのだ。
「……成功した者は?」
「全てを知った者がいたかという意味か? いない。私が排除してきた」
「何のために……!」
そんなことをして意味があるとは思えなかった。排除したということは、朱華に知られたらまずいということ。朱華を守るためならば仕方のないことなのかもしれない。だが、今の朱華は不安を感じている。自分のことなのに自分では分からないという状態に、あんなにも怯えているのだ。
だったら朱華には全て教えるべきではないのか。何故朱華を守る存在である己火がその邪魔をするのか――そう思うと怒りを感じずにはいられない。
だから宵藍は己火に厳しい眼差しを向けたのに、やはり己火が反応を示すことはなかった。
「無駄なことだからだ」
静かに己火が告げる。宵藍を見る。朱華と同じ金色の瞳には、何の感情も見つけられない。
「お前はいずれ死ぬ。そして蘇らない。しかし朱華様は蘇る。お前を知らないまま、また同じように過ごされる。今ここでお前があの方の心を乱すことに何の意味もない。ただあの方を苦しめるだけだ」
「……だからと言って、何も知らないまま過ごさせるのですか」
どうせ忘れるから、何も教える必要はない――それを意味した己火の言葉に、宵藍の顔が険しくなる。
「そうだ。第一、お前にとっての朱華様はあと七年で死ぬ。ならばお前自身にも大した意味はないはずだ」
朱華の死に何も感じていないかのような声だった。何故、どうして。宵藍が自らの中に浮かんだ疑問を言葉にする前に、己火は彼の前から姿を消した。




