〈三〉封じる力・後
「――なんだか誤解がありそうですね」
苦笑した宵藍が話し出す。
「大変な問題というのは否定しませんが、そもそも朱華様は方術を随分と難しいものだと考えているようだ」
「違いますか? 方士は希少と聞いていますから、てっきり狭き門なのかと……」
「方士が少ないのは、方術を使うために必要な気の力が足りない人間が多いからです。基本となる気の流れについては訓練すれば誰でも読むことができますよ。仕組みを理解すれば、方士にはなれずともある程度扱うことも難しくありません」
「……その仕組みが難しいのでは?」
疑うような目で朱華が宵藍を見る。その視線を受けた宵藍はくすりと笑うと、「箱と同じです」と話を続けた。
「箱?」
「ええ。朱華様は箱を閉じたことがありますよね?」
「それは……流石に、勿論」
「方術は箱を閉じる術です」
「……んん?」
簡単な質問に答えたら、簡単な説明が待っていた――が、朱華には全く理解できない。箱を閉じるという言葉の意味は分かるのに、方術がそれをしているものだと言われてもぴんとこない。
「方術は封印術なんですよ。今でこそ〝方術〟という名ですが、かつては封じると書いて〝封術〟と呼ばれていました。応用すれば様々なことに使えるということで、いつしか方術と名が改められたんです」
「封印術……」
そこまで言われてやっと、箱を閉じる術という説明が分かった気がした。宵藍は箱を閉じることを封印と言っているのだ。
「箱にはいくつか種類があるでしょう? 種類によって閉じ方も違う。方術は最終的に箱を閉じることを目標とします。封じたい対象によってどんな箱でどう閉じるのが最適か――それを考え実行するのが方術です」
「なるほど、なんとなく分かるような……あれ? でもそうなると妖魔退治はどうなるんですか? 退治というからには消えて失くなるものかと思っていたのですが」
「あれも封印しているだけですよ。基本的には札に封じて、時々再利用もします」
「再利用……?」
「他の妖魔を弱らせるのに使ったりとか」
「ああ!」
朱華が合点がいったとばかりに声を上げれば、宵藍は「難しくないでしょう?」と首を傾けた。
「はい! あ……いや、宵藍様の説明でそう思ってるだけなんじゃ……」
「それは私の説明が褒められているということですね」
そう冗談めかして言った宵藍の顔には笑みが浮かんでいた。その笑みも少しだけ自慢するような、得意げに見える笑みだ。
最近の宵藍はただ笑うのではなく、こうして冗談を交えて、それに合わせた表情をするようになった。朱華にはその変化が嬉しかった。宵藍との距離が縮まったように感じられるのだ。
それに――
「よかった……」
「何がですか?」
思わず出てしまった声に、朱華がしまったと口に手を当てる。しかも宵藍にそれを拾われてしまった。これは誤魔化せないぞと悟ると、朱華は「えっと……」ともごもごと口を動かし始めた。
「その……宵藍様が元気になられたようでよかったな、と。宵藍様の抱える問題には全く役に立っていないのでしょうけど、でもさっきよりあなたの顔が明るくなりました。それが嬉しいんです」
「っ……――」
朱華の言葉に、宵藍はすっと顔を背けた。口元に当てた手はまるで表情を隠そうとしているかのよう。その反応に朱華は何かまずいことでも言ってしまっただろうかと眉尻を下げると、「宵藍様?」と首を傾げた。
「いえ……」
宵藍の弱々しい声が、静かな寝室に落ちる。その声に朱華が怒っているわけではなさそうだと安堵する一方で、宵藍は隠した顔に一層力を入れていた。
『いえ……あなたが真っ直ぐなものですから』
今、本当に言いたかったのはこれだった。しかし宵藍は口にしかけたそれを声に出すことはできなかった。
朱華は時々、相手が戸惑うくらいに真っ直ぐなことをおくびもなく言う。それも、本当に幸せそうだと思えるような笑顔で。思わずこちらまで同じ感情になりそうなくらい自分の気持ちを前面に出してくるものだから、つい調子を崩されそうになる。
……それが、少しばかり怖かった。
もしこれが他の人間であれば、素直な性格だと褒めることができただろう。だが、朱華相手では難しい。それが彼女本来の性格であればいいが、もしかしたら無知ゆえの、情報を制限されて育ったがゆえのものかもしれないからだ。
そう思うと、言葉に出せない。勇気がない。自分をおかしいと自覚しているという彼女を傷つけてしまうかもしれない。
「……役に立っていないだなんてことないですよ。あなたのお陰で気持ちが軽くなりました。ありがとうございます」
だから、自分の感じたことを言うしかない。まるで自分を曝け出すような発言は宵藍にとっては少々、いや、かなり気恥ずかしかったが、他にやりようがないのだ。それでも朱華の顔がぱあっと明るくなったのを見て、宵藍はこれで良かったのだと頬を緩めた。
「っ!」
その宵藍の笑みに、今度は朱華が顔を手で覆い隠す。指の隙間から覗く頬には朱が差し、目元は心底幸せだと言わんばかりに弧を描いている。
その表情のとおり、朱華は自分の胸が満たされるのを感じていた。
役に立てたことが嬉しい。宵藍が笑ってくれるのが嬉しい。自分自身を見てくれる人の存在がこんなにも心を満たしてくれるのだと初めて知った。分からないこと、不安なことが多い今の生活の中で、宵藍と過ごす時間がたまらなく好きだ。
「…………」
ただ、そう思えば思うほど怖くなる――顔に手を当てたまま、朱華はそっと視線を落とした。
宵藍はきっと、まだ自分を嫌っているだろう。だから無理をさせているかもしれないし、急にこの生活に終わりがくるかもしれない。
宵藍が朱華を理解できるまで、という期限付きなのは忘れていない。理解できたらまた話し合うことになっている。
では、理解できなかったら? どこかで彼は自分を見限るのではないか。
「ッ……」
そう考えると、恐怖が一気に強くなった。怖い、どうしよう――感じたことのないほどの恐怖が朱華の背筋を凍らせる。
宵藍は朱華を理解したいと言う。だからなるべく自分の思ったことは伝えてきた。最初は宵藍の助けになるようにと思ってのことだったが、今では理解してもらいたいという気持ちの方が強い。理解してもらえなければ宵藍は離れていってしまうからだ。
けれど、この恐怖は伝えられない。宵藍に見限られることを恐れているなどと言ったらどう思われるか。それこそ呆れられるだろう。それか、もしかしたら宵藍なら気遣ってくれるかもしれない。
最初の印象とは違い、彼が律儀で優しい性格だと知った。そんな人ならこんな自分すら気遣って、結果として無理をさせてしまうかも――そう思うと、尚の事この恐怖を明かすわけにはいかなかった。
「……宵藍様は、嫌なことは嫌だとおっしゃる方ですよね?」
顔から手を離しながら、確かめるように問いかける。
「割合そうですね」
「相手があることでも?」
「……何かしてしまいましたか?」
朱華に問い返す宵藍の眉間には力が入っていた。怒りではない。苛立ちでも。そこにあるのは優しさだ。自分が気付かぬうちに朱華に何かしてしまったのではないかと案じているのだ。
それが分かると、朱華の中の恐怖がまた一つ、大きくなった。
「違います。違うんです。ただ、その……」
言葉にするのが怖い。でも言わなければならない。こうして気遣ってもらった今、宵藍の優しさを期待してしまう。
そこに、縋ってしまう。どんなに彼を呆れさせるようなことを言っても、すぐにでも見限りたいと思わせるようなことを言ってしまっても、宵藍なら自分を気遣って傍にいてくれるのではないかと。嫌いな相手にすら気遣える人なのだ、自分が泣いて懇願すればその意志を曲げてくれるかもしれないと、期待してしまう。
だが、それは駄目だ。もし宵藍がそうやって無理をしてくれたなら、それこそその先に待つのは辛い未来になってしまう。
「いつでも言ってください」
だから朱華は、結論から先に告げた。そうすれば後戻りができないからだ。これからその理由を言っても、途中で縋るような言葉は言えなくなるから。
「何をですか」
案の定、宵藍は訳が分からないとばかりに聞き返してきた。でも、これでいい。彼が理解しづらい順番で話すことで迷惑はかけてしまうが、伝えたいことはもう伝えた。
朱華は息を吸い込むと、恐る恐る口を開いた。
「……わたしを、理解できそうになかったら」
わたしを理解できそうになかったら、いつでも言ってください――伝えたかった文章が出来上がる。朱華を理解できないと宵藍が判断したなら、いつでも離れていって欲しい。自分にはその覚悟があるのだ。……そう、込めた言葉だ。
これで宵藍には伝わるはずだ。理解できなかった時のことを宵藍が明言したことはないが、状況から考えて彼が離縁を想定していることは嫌でも分かる。
だから、無理だと思ったら自分を気遣わなくていい――朱華がそう願いながら顔を伏せれば、「朱華様」と厳しい声が降ってきた。
「約束したはずです。私は急にはいなくならないと」
強い声だった。最初の頃のように厳しく、しかし突き放すような声音ではない。
これは多分、怒っている。宵藍の怒声は一度だけ聞いたことがある。あの時ほど攻撃的な声ではないが、だが確かに怒りを感じる。
「……でも、それは……無理をすることになりませんか?」
顔を下に向けたまま、朱華が続ける。
「宵藍様がわたしを嫌っていることは分かっています。受け入れています。ですがこれ以上嫌われたくはありません。無理をさせてしまうことでわたしへの嫌悪感が増すならば、どうか約束など気にせずわたしの元を……元、を……」
去って欲しい――言いたいのはそれだけなのに、言葉が出ない。
「嫌っていません」
どうにか続けようとする朱華を遮るように、宵藍が告げる。
「俺はあなたを嫌っていない」
そう言って、宵藍は朱華の両頬に手を当てた。その手が、朱華に顔を上げるよう促す。そうして朱華の視界に映った宵藍は、苦しげな面持ちをしていた。
「忘れないでください。たとえ俺があなたを理解できないと判断する日が来ても、あなたのことは嫌いにならない」
まるで懇願するような声だった。彼には珍しい振る舞いに朱華の目が熱くなる。だが、何も答えられなかった。
答えられないまま目を瞑り、また顔を伏せる。頬に添えられた宵藍の手を感じながら、朱華はただただ湧き上がった自分の感情をやり過ごすことしかできなかった。




