〈九〉生まれた疑惑
町中を朱華と散策してから一週間ほど経った頃。呼び出された先から戻ってきた宵藍は執務室の椅子に腰掛けた。と同時に、ふう、と口から重い溜息が出ていく。ここは軍部だが、疲れは軍の仕事が原因ではない。
朱華だ。正確には、〝朱華様〟のこと。
『朱華様がご懐妊されませんでしたが、きちんとお勤めは果たされているでしょうか?』
問いかけてきたのは医官だ。そこは軍部の外、内廷にあるとある一室。医官の周りには〝朱華様〟付きの侍女やら何やら、とにかく〝朱華様〟が恙無く子を産めるよう各種仕事を任された者達もいた。
曰く、朱華の月のものが来たらしい。そこで方術による確認を行った結果、今回は懐妊の兆候が見られなかった。朱華本人に確認するも事情がよく分からないから、宵藍を呼び出して尋問のようなことをするに至ったというわけだ。
『朱華様にお聞きしましても〝全て宵藍様にお任せしている〟の一点張り。朱華様の純真さを利用して怠慢を行っているわけではありませんな?』
なんて下世話だと、思わず顔を顰めた。しかし同時に、朱華はよくやっているようだとも知ることができた。〝全て宵藍に任せている〟というのは、宵藍が朱華に使うよう教えた言い訳だ。彼女の持つ閨の知識を使いつつ、とにかくそれで押し通せと言ってある。結果、尊き方である〝朱華様〟のことは追求せず、その夫である宵藍の元に来たのだから、この作戦はうまく機能しているらしい。
宮廷の者は〝朱華様〟が嘘を吐くなどと考えていないのだろう――そう思うと、宵藍は少しばかり胸がざわつくのを感じた。信頼と言えば聞こえはいいが、彼女は〝嘘を吐く能力を持たない〟と考えられていると言った方がしっくりと来る。
それは朱華が正直者だからというわけではなく、そのように育てられたからだ。彼女の偏った知識は、認識は、〝朱華様〟を子を成す道具としてだけ利用するために刷り込まれたもの。朱華自身が疑問を持つことすらできないように、周りの者達が彼女に与える情報を制限してきた結果だ。
「憐れだな……」
昔から、きっとそうなのだろうとは思っていた。だから〝朱華様〟の夫となると決まった時にある程度の覚悟は決めたのだ。
だが、夫婦となったその日。直接見た彼女は思っていた以上に歪な無垢さを持っていて、気付けば気持ち悪いと口をついて出てしまっていた。檻の中にいるのに自分は自由だと思っているような矛盾が、それを作ったこの国が。そして何より、そんな仕組みの中に取り込まれようとしている自分の状況が、気持ち悪くて仕方がなかった。
あの時朱華を拒んだのは、自分を守るためだ。一度はその歯車の一つになることを受け入れたはずなのに、いざ目の前にしたら怖気づいて逃げ出したのだ。それも、何の自覚もない朱華を口撃するという手段で以て。
『わたしは自分のお役目を果たしたいだけなのに! 旦那様を愛し、子を成すことがわたしの存在意義です! わたしはあなたに嫁ぐと決まってから、あなたのことを知ろうとできるだけのことをしました。あなたのことを愛そうと……! それなのにそんな簡単に別の男にしろだなんて言わないでください! あなただってそうやってわたしの気持ちを蔑ろにするじゃありませんか!』
あの夜聞いた朱華の叫びは、自分の置かれた環境に対する違和感の現れだったのだろう。本人がまだ自覚できておらずとも、与えられた〝自分〟の中の足りないものを求めようとする本能だったのだろう。
それは道具として育てられた彼女の、ほんの一欠片の自我。思わず理解する時間をくれと言ってしまったのは、その小さな自我が消えてしまうのがしのびないと思ってしまったからだ。
妻に対する情か、幼子に抱くような庇護欲か。未だ宵藍の中で答えは出ていなかったが、自分の元に来た医官達を見て安堵したのは、少なくとも彼女を守りたいと思っている証かもしれない。
『怖いんです――』
祭りの時に聞いた朱華の声が、宵藍の脳裏に蘇る。
『その方を受け入れる自分が想像できません。受け入れない理由などないはずなのに、お役目を果たそうとする自分が想像できません。わたしはお役目のために存在しています。なのに未来の自分がその役目を果たすかどうか確信が持てないんです。本当にこれでいいのか、それは本当に〝わたし〟の望んだことなのか、もう全く分からないんです……!』
今の朱華はきっと、自分のいる場所が檻の中だと気付いている。まだうまく言葉にできずとも、自分の置かれた環境に違和感を抱いて、それへの答えを探そうとしている。
恐らくそれは、朱華にとっては酷く恐ろしい行為だろう。自分を形作っていた全てが信じられなくなるのだ、怯えてしまうのも無理はない。
思わず伸ばしてしまった手は、本当はどうしたかったのか。手を握ったのは、本当にただの庇護欲からなのか。
答えはまだ、知りたくなかった。知ってしまえば後戻りができなくなる気がするのだ。
今の揺らいだ彼女に必要以上に近付いてはいけない。庇護欲と妻への情を履き違えてはいけない。一歩間違えば彼女のためだと嘯いて、他でもない自分が別の檻を作ってしまうことになるかもしれない。それは歯車の一つとして子を成す道具となることよりも、ずっと酷い嫌悪感がある。
だからまだ、今のままでいい。今のままでも朱華を守ることはできる。彼女を道具としか見做していない者達に、彼女が〝自分〟を見つける邪魔をさせないように。
『閨を共にする頻度を増やしてみては如何でしょうか。それかあなたの気の流れを検査してもいいでしょう。薬も用意できますし、軍に掛け合えば仕事量を調整することもできます』
こんな下世話で無礼な言葉を、朱華に向けさせるわけにはいかない。
「……朱華様はきっと、まだおかしいと思えない」
こんな、個人の秘密を暴くような質問をされることも。普通ならば暴言とも取れるようなことを言われたとしても、お役目のためには必要なことだと納得してしまうのだろう。
だとしたらそれは、なんという地獄だろうか。個人の尊厳が全く守られていないのに、当の本人はそれに気付くことも、苦痛に感じることすらもできない。
まるで実験動物か何かのように、人として扱われていない。その上〝朱華様〟の記憶は死と同時に消えてしまうから、彼女を蔑ろにした者達の罪悪感も残らない。
「不死鳥は何故こんなことを受け入れる気になったのか……」
どうせ記憶はなくなるからと気にしなかったのだろうか。それとも神にとっては、こんなこと取るに足らない問題だったのだろうか。
しかし、伝説では不死鳥は人を愛していたという。愛していたのであれば、その存在の価値観を多少なりとも理解しているのではないのか。理解しているのであれば、自分に向けられるものが何なのか分かりそうなものだ。それなのに分からないというのなら、それはかの神が人間に興味を抱いていなかったということではないのか。
「……不死鳥は本当に人を愛していたのか?」
口にした途端、ぞっと背筋に怖気が走った気がした。
それは駄目だ。考えてはいけない。そこに疑念を持ってしまえばあの伝説の内容全てが信じられなくなる。あの伝説はこの土地の人間にとって、空に太陽があることと同じくらいに当たり前で、疑う余地のないものなのに。
しかし一方で、宵藍の思考は彼を無視してその可能性へと向いていた。
「ッ……血を分けるのは、不死鳥の意志ではない?」
だとすれば、それは――……この歪んだ慣習を正当化する理由が、存在しないということだ。




