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不死鳥の嫁入り  作者: 丹㑚仁戻
第二章 不死鳥の心
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〈八〉鳥かごの外側・肆

「――紅胡(こうこ)様?」


 その声が聞こえても、朱華は特に何も思わなかった。宵藍がぴくりと指先に力を入れたが、それも一瞬のこと。何事もなかったかのように朱華の頭巾から手を離し、歩き出そうとする。当然朱華もそれに続いた。


 だが、阻まれた。


「紅胡様!」


 声の主が朱華の前にずいと身を乗り出す。男だった。しかし朱華に見覚えはない。「あの……?」困惑する朱華を置き去りに、男は恍惚の表情を浮かべて話し出した。


「紅胡様にございますよね? いや、今は〝朱華様〟か。わたくし(はい)国から参りました。紅胡様には我が国に安寧をもたらしていただき――」

「人違いだ」


 興奮したように話す男と朱華の間に、宵藍が手を差し入れる。


「しかし……」

「〝朱華様〟は宮廷の外には出られない。彼女は私の妻だ。夫の前で妻に手を出すのはやめていただこうか」


 厳しい宵藍の声に、男がごくりと唾を飲む。だが、朱華を見るその目は変わらない。変化があるとすれば、そこに猜疑心が増えたことだろうか。宵藍の言葉に耳を傾けつつも、しかしその内容を信じられないでいると分かる表情だ。

 宵藍はそんな相手の様子に溜息を吐くと、先程よりも低い声で言葉を続けた。


「ここは(すい)国だ。彼女が〝朱華様〟であるならば、私があのお方を勝手に連れ出したことになる。つまりは重罪だ。私にそんな罪を着せようと言うからには、貴殿にもそれなりの覚悟があるのだろう? 私も自身の名誉のために、あらゆる手段を以てそれを否定させていただく。勿論、杷国にも伝わるだろう」

「ッ……」


 宵藍の威圧感に男がたじろぐ。その反応に相手が大事(おおごと)になりかねないと理解したと見て、宵藍は「しかしながら、」と少しばかり声色を変えた。


「杷国の紅胡様のことは私も聞いたことがある。〝朱華様〟と違い、民の前に姿を現すそうだな。だが当然、一定の距離は保たれているはずだ。それに先代の紅胡様は十八年前に身罷られている。ならばいくら杷国の民といえど、背格好のよく似た他人と紅胡様を見間違えてしまっても無理はない、と事情を考慮することもできるが……どうだろうか? 貴殿も見間違えただけだと考えてよろしいか?」


 男に納得した様子はない。だが、狼狽しているのは明らかだった。男はしばし考えるように視線を彷徨わせると、やがて小さく「……そう、かもしれません」と頷いた。


「私の勘違いだったようです。申し訳ない」


 男が一歩後ずさって、頭を下げる。「奥方にもご迷惑おかけしました」と最後に一度だけ朱華を見ると、足早に去っていった。



 § § §



「――申し訳ありません。相手に敵意がなかったものですから、騒ぎにならぬよう出方を窺っていました」


 男が離れてから、少し。あまり人通りのない場所まで朱華を連れてきた宵藍は、そう言って小さく頭を下げた。


「いえ……あの方も納得してくださったようですし、対応は間違いなかったと思います」


 宵藍に答える朱華の声は、いつもよりも小さかった。

 思い出すのは、宵藍と話していたあの男の表情。朱華を見た瞬間は喜びに溢れていたその顔が、最後にはうんと悲しげだったのが辛かった。

 〝紅胡〟というのが杷国での朱華だということは宵藍との会話で理解した。教育係に教わっていた他国での不死鳥の呼び名とも相違ない。だからあの男は朱華を紅胡と思って声をかけたのだ。それに、朱華と紅胡が同じ人間だということも分かっていただろう。

 けれど紅胡と呼ばれた朱華が困惑を返した時、彼の顔には確かに悲しみがあった。驚愕があった。そして、微かな嫌悪も。


「大丈夫ですか?」


 宵藍が問いかけてくる。その声に最初のような嫌悪はない。だが、朱華は感じていた。あの男が一瞬見せた嫌悪と、かつて宵藍が自分に向けていた感情は非常に良く似たものだと。


「あなたが気に病むことはありませんよ。紅胡様のことは前世のようなものです。蘇る前のことですし、記憶もないのですから他人とそう変わりません」

「……ですが、あの方にとっては現実です」


 答えながら、朱華はゆっくりと顔を上げた。見つめるのは宵藍だ。面の向こう側にある、千草色の瞳。小さな穴しか空いていなくてよく見えないが、きっとそこにあるだろうと見つめ続ける。


「あの方の目、あなたに似ていました。わたしに〝気持ち悪い〟と言った時のあなたに。あなたはきっと、あの方の気持ちが分かるのでしょう?」

「…………」

「わたしには、分かりません。あの方が戸惑っているのも、目の前の出来事を受け入れられないでいることも分かるのに、何を感じてそうなってしまったのかが分からない」

「……他人の気持ちなど、そこまではっきりと理解できるものではありませんよ」

「ですが!」


 大きな声で言って、朱華は慌てて周りに目を向けた。幸い人通りが少なかったお陰もあって、誰の注目も集めなかったようだ。

 ほっと胸を撫で下ろし、息を吐く。高ぶりかけた気持ちを鎮める。そうして少し冷静になったのを感じると、朱華は話を続けた。


「わたしはやっぱり、おかしいのだと思います」


 初夜の翌日、宵藍にお前はおかしいと言われても理解できなかった。自分の何がおかしいのか分からなかった。彼がおかしいと言ったことは、朱華にとっては当たり前のことだったからだ。

 だが、今なら分かる。自分はおかしいのだ。何がおかしいのかはまだ分からずとも、何かが確実に変なのだ。


「わたしは知りたいんです。あなたとこうして話すようになって、何かがおかしいと感じるようになってきたんです。そしてそれは、見過ごしてはならないことだと……。何がおかしいのかが分かれば、あなたの気持ちを理解できるかもしれない。言葉では及ばない本当の理解ができるかもしれない」


 そう言って宵藍を見つめる朱華の目には鬼気迫るものがあった。理解しなければならないと、心の奥底から何者かが追い立ててくるのだ。

 本当ならそんなことを気にしている場合ではない。自分の役目は子を成すことで、宵藍を理解することはその役目には関係がないのだ。彼が朱華を理解したいと言ってくれているからといって、それを待つ必要だってない。

 だが朱華には、もうこの感情が無視できなくなっていた。宵藍がおかしいと言った、自分の置かれた状況。自分のことなのに自分では何一つ知らない。知っているのは、自分以外の他人に教えられたことだけ。


 それは本当に、わたしのことなのだろうか――そう疑問に思った瞬間、朱華は寒気を感じた。


「ぁ……」


 震える喉から、声が漏れる。なんてことを思ってしまったのだと後悔しても、もう遅い。


「朱華様?」


 宵藍の声に落ちかけていた視線を上げる。朱華を見つめる宵藍の表情は、面のせいで読めない。

 顔が見たかった。どんな表情でもいい、宵藍の顔が見たい。たとえそれが嫌悪感に溢れたものでも。それをこちらに向ける宵藍の目は、間違いなく自分を見ているから――朱華はぎゅっと目を瞑って、脳裏に宵藍の顔を思い浮かべた。


 蘇ったのは、最初の頃の表情。よりにもよってこれかと嗤いたくなったものの、しかし宵藍の顔には変わりない。


「怖いんです……」


 頭の中の宵藍に向かって、想いを告げる。


「もしこのままあなたのことを理解できなかったらと思うと、不安でいっぱいになるんです。わたしだけでなく、あなたもわたしを理解できずに離れていった時、どうなるのかが全く分からないから……」


 息を吸う。吐く。繰り返す。

 そうして目を開ければ、そこには宵藍がいた。相変わらず顔は見えない。

 心細かった。しかし、いてくれてよかったとも思う。この恐怖を誰かに話して紛らわしたい。これを話せる相手は、宵藍しかいない。


「あなたがわたしを理解できなければ、離縁ということになるでしょう。それは分かっているんです。そしてきっと、次の夫はお役目に積極的に取り組む方になるのだと思います。わたしにとって喜ばしいことです。お役目を果たさなければならないから、協力的な方はありがたい」

「……では、何が分からないのです?」


 静かに宵藍が問う。その声に心が落ち着くのを感じながら、朱華は唇に力を入れた。


「その方を受け入れる自分が想像できません。受け入れない理由などないはずなのに、お役目を果たそうとする自分が想像できません。わたしはお役目のために存在しています。なのに未来の自分がその役目を果たすかどうか確信が持てないんです。本当にこれでいいのか、それは本当に〝わたし〟の望んだことなのか、もう全く分からないんです……!」


 全てが、揺らいでいく気がした。心許なかった足元が更に見えなくなっていく。自分の歩んできた道が全て崩れて、それなのに進むべき道もどこにも見つけられない。

 そんな不安が、朱華を蝕む。これが宵藍の言っていたことの正体ではという予感はあるのに、そのことを考えなくてはならないのに、あまりに恐ろしくて逃げ出したくなる。


 その時、朱華の右手に温かいものが触れた。咄嗟にそこへ目を向ければ、宵藍が朱華の手を握っていた。身体の横にあった手を、胸の前へ。優しく、しかし弱すぎるわけでもない力加減だ。


「……宵藍様?」


 思わず名前を呼べば、面越しでも宵藍が自分を見たのが分かった。名前は呼ぶなと言われているのだ。「ごめ、なさ……」朱華がぼそぼそと謝れば、宵藍は「謝らなくていいです」と首を振った。


「誰かに手を握られたことは?」

「え? ……えっと、どうでしょう。幼い頃はあったかもしれませんが、あまり覚えていません」


 突然の質問に朱華が困惑しながら答えれば、宵藍は「私はよく覚えています」と言って話し出した。


「幼い頃、入ってはいけないと言われていた蔵に兄と忍び込んだんです。そうしたら誰もいないと思った使用人が鍵を締めてしまい、閉じ込められてしまいました」

「それは……大変、でしたね?」


 何が言いたいのだろう、と朱華が首を傾げる。どうにも脈略がない。しかし宵藍が完全に意味のない話をするとも思えず、一生懸命耳を傾ける。


「大変でした。真っ暗で何も見えない上に、普段は誰も来ない蔵です。兄と二人、このまま見つけてもらえなかったらと不安になりました」


 そこまで言って、宵藍が手に力を込める。指先にそれを感じ取るも、朱華はどうしたらいいか分からなかった。


「ですが、心細くはありませんでした。兄がずっと私の手を握っていてくれたからです。今思えば私はこんな性格ですし、当時の兄は非常に怖がりな人間でしたから、きっと兄は自分が安心したくて私に触れていたんでしょう。それでも私は、兄が手を握っていてくれたお陰で心細くならなくて済んだんです」


 宵藍の顔は、未だ見えない。しかし朱華はそんなことは気にならなくなっていた。

 指先が温かい。しっかりと握られている。顔が見えずとも、宵藍が自分を見てくれているのだと分かる。


「約束します。もし私にあなたを理解することができなかったとしても、急には離れません。あなたが次に進めるようになるまで、こうして手を握っています。だから恐れなくていい。元凶の私に言われたいことではないかもしれませんが」


 最後は少しだけ困ったようにそう言って。そんな宵藍の心遣いに、朱華は恐れが消えていくのを感じた。

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― 新着の感想 ―
お礼(?)を言いに来た男の身勝手な様子を見て、夫(仮)は少しは自分の主人公に対する理不尽な態度を振り返ってもらいたいものだね。 主人公は自分自身がよく分からないのに、それでも知りたいとしているのは本…
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