〈四〉それぞれの心持ち
翌朝、朝食後。朱華は自室でぼうっとしていた。周りには侍女がいるのに、まるで彼女らが目に入らないかのように虚空を見続けている。
『このまま朝まで一緒にいてください』
昨夜の宵藍の言葉が、頭の中で繰り返される。宵藍の頼みは文字通り朝まで一緒にいることだった。それ以上でも、それ以下でもない。
夫婦が同じ寝室で一晩を共にすれば、大抵の者達は何があったか察してくれる。もし勘違いをしてくれたなら、詳細を聞かれないよう気を付けながら適当に肯定すればいい、と宵藍は補足した。
『それから今後は二日に一回程度、夜はここで一緒に過ごしてください。勿論私は何もしませんから寝てくださって構いません。他人がいると寝られないのなら、申し訳ありませんが読書などで時間を潰してください』
あくまで、周りの目を誤魔化すため。宵藍の目的は承知していたし、朱華もそのつもりだった。だから彼の頼みの内容に全く異論はなかったのだが、どういうわけか昨夜から妙に気持ちが浮ついてしまうのだ。
『このまま朝まで一緒にいてください』
色気も何もないはずの言葉が、声が、頭から離れない。少し気を抜けばあの笑顔まで思い出してしまう。しかもおかしなことに、宵藍があの笑顔でこの言葉を言ったような映像が頭の中で再生されてしまうものだから、朱華は自室に戻ってからずっと百面相していた。
「本当におめでとうございます、朱華様。あなた様が幸せそうで林杏も嬉しいです」
「へ? あっ、そうね。ごめんなさい、ぼーっとしてて……ありがとう、林杏。あなたが喜んでくれて嬉しいわ」
昨夜の思い出に浸っていた朱華は、慌てて林杏に話を合わせた。彼女のこともまた騙さなければならない。それは少し心苦しかったが、侍女達からの祝いは宵藍と和解したことに対してだと思えば些か気も楽になる。
事実、宵藍と以前よりも親しくなれたのは朱華も嬉しかった。態度が軟化したこともそうだが、遠くから調べた彼よりも、近くで見る宵藍の方がずっと魅力的だからだ。
無愛想で有名だったのに、意外と笑うことも分かった。そして、その笑った顔が可愛いことも。
「っ……?」
思い出した途端、身体がぽっと熱を持った。思わず顔に手を当てれば、いつもよりも熱い。「熱かしら……」朱華がこぼせば、林杏が「あらあらあら!」と笑顔になった。
「熱じゃないの?」
心配しているとは言い難い侍女の様子に朱華が首を傾げる。すると林杏は一層笑顔になって、「私を見て治まれば心配いりませんよ」と口元に手を当てた。
言われてみれば、林杏と話し始めた途端に熱が引いた気がする。まだほてりは残っているが、数秒前よりよっぽど良い。
「これは次の夜伽が待ちきれませんね」
ふふふ、と林杏が笑いながら言う。夜伽は二日に一度の約束だから、次は明日だ――そう考え始めるとまた熱が上がってきたのを感じて、朱華はどうなっているんだと首を捻り続けた。
§ § §
軍部にある、宵藍の執務室。いつものように仕事をしていた宵藍を、書類を届けに来た志宇がじっと見ている。宵藍は机の向こう側に立つ相手のそんな視線に気付いていたが、一切気にすることなく仕事を続けていた。しかし――
「……なんだ」
全く動かない志宇に耐えきれなくなって、とうとう宵藍が声を発した。すると志宇はにんまりと口角を上げ、近くにあった椅子を後ろ向きに引き寄せどすんと座る。
「昨日、医官に呼び出されたんですよね?」
志宇がそのことを知っているのは、宵藍が彼にその間の留守を頼んだからだ。志宇は副官であるため当然の人選なのだが、宵藍の中には後悔しかない。
何せ彼は宵藍が朱華を避けていたと知っている。そして医官に呼び出されたとなれば、その理由が分からないほどこの男は鈍感ではない。
「で、結局昨夜は仲良くしたんですか?」
ニマァっと笑みながら問うてくる志宇に、宵藍はぶっきらぼうに「下世話」とだけ返した。そんなことはしていないと言いたくとも、そうすると昨日朱華と閨を共にした意味がなくなる。これからも同じ手段を使って周りの目を欺こうとしている以上、いくら相手が志宇でも正直に話すことはできない。
そんな宵藍の反応に、志宇もまた勘違いをしてくれたらしい。「結局抱くんじゃん!」と上半身を仰け反らせて、「いいなァ! 俺も彼女欲しいなァ!」と足をバタつかせた。
「なら離縁しなければ良かった」
「……出てっちゃったもんはしょうがないでしょ」
宵藍の言葉に、志宇が半眼になって姿勢を元に戻す。
「時期が悪かったんですよ、あれは。なんでこの平和な国で立て続けに遠征なんてしなきゃならなかったんですか。ちょーっとくらい妖魔が出たっていいでしょう。そもそも妖魔退治の主役は方士なんですから、その補助の軍人はもっとこまめに人員変えてもよかったはずですよ。それなのにその方士が誰かさんだったせいで世話係として俺までずっと……『こんなに家にいないとは思わなかった』って言うけど、俺もだよ! 新婚だからたくさんいちゃいちゃできると思ったのに、結婚早々半年も帰れないとか聞いてないよ!!」
椅子の背もたれにしがみつき、大きな喚き声を上げる。いつもだったらうるさいと突っぱねる宵藍だったが、志宇の言う〝方士〟が自分だったため、ごくりと不満は飲み込んだ。
志宇の破局について、自分にも責任の一端はあると自覚しているのだ。当時まだ志宇とそう変わらない階級にいた宵藍は、軍人としてではなく江家の方士としてその遠征に参加した。
数の少ない方士には軍から護衛や世話係が出される。しかしこの性格のせいで誰も長続きしない。というより、みんな方士としての宵藍に近付くことを嫌がった。同僚ならまだしも、江家の人間としてそこにいる以上、相手がどんなに腹の立つ言動をしてきても粗相は許されないからだ。
そういうわけで、宵藍と仲の良かった志宇が世話係に抜擢された。完全に周りから押し付けられた形だ。そのせいで本来であれば定期的にあるはずの交代はなく、志宇は遠征の期間中ずっと宵藍の傍から離れられなかったのだ。
「大将に分かりますか? 『仕事と私、どっちが大事なの?』って現実に言われる気持ちが。そんなのみんな大袈裟に言ってるだけだろと思ってたら本当に言われましたからね。ずるいでしょう、あんな質問。仕事しなきゃ彼女を守れないのに、彼女を取るような答えじゃないと即断罪だなんて」
「だがお前は妻が大事だと答えたんだろう?」
「そうですよ! なのに『嘘吐かないで!』って平手一発……いや無理でしょ。どっちで答えてもキレられるとかどうしようもないでしょ。自分の中で答えが決まってたんならあんな質問しないでよ……」
話しているうちに当時の感情まで思い出してきたのか、志宇がしくしくと背もたれに項垂れた。
「俺ァもう結婚なんて諦めましたよ。またあんなことになるなら独り身の方がずっと楽ですもん。でも人肌は恋しいぃぃぃ……」
まるで背もたれを人に見立てたかのように、志宇が木製のそれをぎゅうっと抱き締める。そんな三十歳過ぎの男の行動に宵藍が何とも言えない顔をしていると、志宇がのっそりと頭を擡げた。
「大将の嫁さんが〝朱華様〟じゃなけりゃたくさんお話できるのに……大将の格好悪い話いっぱい持ってるのに……」
「その分俺もお前のしょうもない話を知っているがな」
「他言無用ですよ!? 特にあれ、飲みすぎて寝ゲロした話とか絶対女性相手にしないで!」
「するわけがないだろ、気持ち悪い」
「……もうちょっと柔らかく〝キモい〟くらいで済ませてくれません?」
「断る」
宵藍が答えれば、志宇はむむっと眉根を寄せた。その大袈裟な振る舞いに、いつもの調子に戻ったか、と宵藍が胸を撫で下ろす。
しかし志宇は不意に真剣な表情をすると、「そういえば、」と宵藍を見据えた。
「朱華様にはそれ、やめた方がいいですよ」
いつになく真面目な志宇の声に、宵藍の眉間に皺が寄る。
「それ?」
「その言葉の足りなさ。俺は慣れてるからいいんですけどね」
志宇はふうと息を吐くと、ゆっくりと背筋を伸ばした。
「副官としてではなく友人として言います。あなたのその単語で答える癖、慣れてない人間にはかなり気まずい思いをさせるんですよ。顔も常に仏頂面ですからね。今まではそれでも良かったかもしれませんが、嫁さん相手にそれはちとよろしくないです」
それは志宇が相手を指導する時の言い方だった。宵藍が軍人になったばかりの頃から、階級が逆転した後まで。今までずっと変わらない、志宇が相手のことを本気で考えている時のものだ。
だから宵藍は志宇のその指摘に不満はなかった。自分の癖を引き合いに出された苦しさもない。
あるのは、心当たり。そしてバツの悪さ。
既に朱華には志宇が駄目だと言うような態度を散々取ってしまっている。彼女に対して嫌悪感を顕にしていた時もそうだが、先日の夕食時にもそれで困らせてしまったことは記憶に新しい。
昨夜はどうだったろうか。できるだけ気を付けたつもりだが、その癖は出てしまっていなかっただろうか――宵藍が思い出そうとしていると、志宇が「心当たりがあるんですね」と呆れた表情を浮かべた。
「ま、大将がどこまで〝朱華様〟とまともに接するか次第ですよ。お互いお役目のためだけにって付き合い方だったらどうでもいいでしょう。でもそうじゃないんだったら気を付けないと」
志宇の目が宵藍を見つめる。まるで確信しているような視線だ。宵藍が思わず眉を顰めて「含みがあるな」と返せば、志宇は「ええ」と涼しい顔をした。
「先日食事に誘ったと小耳に挟みましたからね。しかも二回。ま、朱華様の立場上、食事と言っても自宅だったんでしょうが」
「……それがどうした」
「お役目以外の考えがあるのかなァって」
ニマっと志宇が笑む。
「あなたがそう簡単に心変わりしないことは知っていますから、最近のあれそれはきっと何かしら企んでいるんでしょう? 言っときますが、女性は目敏いですよ。朱華様お一人が相手ならまだしも、彼女の侍女達も頭脳として控えてますからね。特に宮廷勤めの侍女なんて腹の探り合いがお得意なご令嬢ばかりじゃないですか。そうでなくたって徒党を組んだ女性の怖いこと怖いこと。一度敵と見定めれば、相手がどれだけ態度を改めようと親の仇かのように嫌いまくるんですから」
何かを思い出したのか、志宇が両腕を抱えてブルっと身震いする。「ありゃ地獄ですよ……」遠い目をした彼に呆れた顔をした宵藍だったが、しかし前半の内容を思い出すと表情を渋くした。
「……そういうのじゃない」
何かを企んでいるのかという部分に対し、否定を口にする。明確に言葉にせずとも志宇には宵藍が何を指しているのか伝わったらしく、彼は「ほほう?」と顎に手を当てた。
「ま、そういうことにしときましょうか」
そう笑う志宇はニマニマと意地の悪い顔をしていた。見透かすようなその態度に、宵藍の顔に力が入る。何か言い返そうと思っても、下手に何か言えば墓穴を掘りそうで口を開きにくい。
「それはともかく、女心が分からなかったらいつでも聞いてくださいよ。人生経験豊富な先輩が教えてあげますから」
「捨てられたくせに」
「それも込みで人生経験ですよ。ところで今度誰か紹介してください」
矛盾しているではないか、と言いたくなったものの、宵藍は適当に相槌を打つに留めた。