第56話 三章 ―消え行くもの― 17
宿屋で寝かせていたが、しばらくしてシエラは目を覚ました。全身血塗れだった服は、宿の女性エルフィールにもらった服に着替えさせてもらった。簡素な上下ワンピース状のローブだが、とりあえず着る物が無いよりはマシであろう。
ベッドで上半身を起こし、ぼんやりと窓の外を眺めている。小鳥のさえずりが森に響く。風のざわめきは大木達を静かに揺らしていた。
「お前、怪物と戦ってる最中に居なくなっただろ。何があった」
口をつぐむシエラは、重い表情を宿していた。
「そうか、言いたくないか。まぁ、何があったのかは大体分かってるんだ。お前が出てきた森の中を、寝ている間に調べてみたからな」
「え……」
向けられた顔は青ざめており、血の気が引いたようであった。両手の平に視線を落とし、小刻みに震えていたのが分かった。
キサラの口は淡々としていた。
「お前は『森の中でたまたま事故により死んだ男を見つけ、埋めて葬ってやろうとした』。そうだろ」
「ちが」「そうなんだろ!」
その目は、否定させまいとする強い力があった。事実を無理矢理納得できる形に変えて。うん、と一つ深く頷き、シエラはその嘘の真実を肯定した。
「『埋めてやろうとしたけど、自分一人ではどうにもならなかったから他の奴の助けを呼びに出てきた。そこで体調を崩して倒れてしまった』。そうなんだろ」
「うん」
握られる拳。ベッドの掛け布団に、一滴、二滴、瞳から雫が落ち、濡らしてゆく。
「大丈夫だ。あの男の死体は、俺が完全に埋めておいた。だから」
キサラは椅子から立ち上がる。静かに机の上の蝋燭に火を灯すため、マッチを手に取る。夕暮れの沈み行く夕陽により、部屋は徐々に闇に包まれてゆく。
「もう、心配するな。お前は『何もしてない』」
「うん……」
シーツを握り締めるシエラの声は、嗚咽で上手く聞き取れなかった。
レッサーエルフィール相手に、アルズヘイムの者達は冷たかった。食事すらまともに取らせてもらえなかった。人間とのあいのこに食わせる物は無い。そこまで言い切られた。
「このリンゴ、固ぇな。まずい」
「ホント、ろくな物ないね」
宿に出してもらったキサラの分の食事を、二人で分けた。とても満腹になる量ではなかったが、それでも二人の表情には笑顔が少し戻ってきた。
「たまにはアップルパイが食いてぇなぁ。こんなまずいリンゴじゃなくってさ、いいリンゴで作るとこれがまたうまい。んで、砂糖たっぷり掛けて食うのがまたいける」
「なんでアップルパイなの」
「好きだからに決まってるだろ」
外見に反して意外に甘党なキサラの好みが可笑しく思えたのか、シエラも久しぶりにはにかんで笑った。
「お前は好き嫌いとか無いのか」
「んー、なんでも好きかな。嫌いなのとか特にない。しいて言えばあれかも、いぬうしの肉はちょっと苦手。出されれば食べるけど」
キサラは腕を組み、何度か頷いた。
「あぁソレ分かるなぁ、外見がもろペットみたいで可愛らしいしな。あれを食うのは抵抗ある。それに、肉自体も結構臭みがあるよな」
いぬうしとはイノセント・ランド全般に生息しているモンスターで、簡単に言うと犬のような頭と牛に似た体を持つスタイリッシュな生物である。誰もが想像するとおり、犬と牛の祖先の交配の結果、生まれたと思われる動物だ。
肉は柔らかく、イノセント・ランドにおいては主食用の家畜として育てられている。だが普通の牛と違ってキサラの言うとおり肉に臭みがあり、それを嫌う人も割と多い。
「ま、いぬうしは安いから助かるんだけどさ。俺の給料も厳しくてね」
「……わたしも真面目に働かないとダメかなぁ」
上目遣いで見てくるシエラに、やんわりと答えた。
「そうだな」
キサラは何か思い出したかのように立ち上がると、机の上に置いておいた紙袋に手を伸ばした。
「寝てる間に用意してきた。着てみろよ」
「えっ」
「お前の着ていた服は、血でべとべとだった。洗った所で、もう着れそうになかったからな」
袋を開けながら、小さく呟く。
「それに、あんな血の付いたもの、もう着たくないだろう」
微かに頷いた。
「エルフィールの作った服だから、嫌かもしれないけど、受け取ってくれないか。俺の選んだものだから、センスも合わないかもしれないけどさ」
紙袋から出てきたのは、キサラがシエラのために用意した新しい服だった。シエラの両手に丁寧に畳まれたそれが乗せられた時、蝋燭でぼんやりと照らされた薄闇の中で、目元が雫で光っていたのが見えた。
「うん、着てみる」
キサラは無言で部屋の外へと出て行った。扉が閉まった音を確認すると、シエラは強引に目元を手で拭った。
すぐに部屋の中からシエラの呼ぶ声が聞こえた。中に入ると、今までの彼女とは全く違った印象の、線の細い姿となっていた。
上は青空のように澄み切った、セルリアンブルーに近いブラウスで、胸元は大きく広がっており、細かい網状の紐で無数に左右が結ばれている。下は黒のティアードスカートに腰垂れの布が一体化していた。前や横からは覆わず、腰から下のみに垂れ下がる、短いマントのようなものだった。
デザインが人間の服とは少々趣が違うようだ。エルフィールの民族性が出ている。シエラはそれを着こなしていた。
「どう?」
「良く似合ってる。いいじゃないか。エルフィールの服も」
エルフィールと縁を切れない女。これから先もずっとその事実は付き纏っていくのだろう。それでも、シエラはそれを受け入れなければならないのかもしれない。運命論のような得体の知れないものが複雑に絡み合っているようであった。
「わたしは人間でもあり、エルフィールでもある。わたしはね、思うんだ。少しでもいいから、互いに互いをわかり合える世界が作れないのかなって」
「分からない。俺達は目の前の事をするだけで精一杯なんだ。そこまでやる時間は、一生のうちに作れるかどうか」
「そうだね」
ベッドに腰を下ろすと、プレゼントしてくれた自身の服を見ていとおしそうな瞳をしていた。
「さっき、村長が見つかった。アルズヘイムの出口付近で死んでいるのが発見されたんだ。何者かによって強制的に封印を解かされたらしい」
シエラはあまり聞いていない。
「明日、ユグドラシルへ出発しよう。気になる事が多すぎるんでね。早めに確かめたい」
「うん」
月明かりが窓から差している。天上も同じような光景が広がっているのだろうか。それを知る事が出来るのはもう少し先のようだ。