第54話 三章 ―消え行くもの― 15
怯えたエルフィールの顔を覗き込みながら、リィンは大きな声で言ってやった。
「黙っててごめん。地のアンバーオーブがアルズヘイムのどこかにあるのはわかってた。けれど、怪物自体がこの地面の下に埋まってたなんて知らなかった」
シエラは珍しく動揺していた。目が震えている。
「別にお前が謝る事じゃねぇ。もう復活しちまったものは、何を言っても仕方ない」
目の前で、復活した狂獣ロードオブヴェノマスは逃げ遅れたエルフィール族の者を片っ端から飲み込んでいった。まるで自らの糧とするかのように。飲み込まれたエルフィール達は窒息し、身体中の穴という穴から体内に泥が侵食して溶かされていった。触った建物も全てが腐食して倒壊してゆく。
「地のアンバーオーブは、ずっとエルフィール族の村長が守ってた。強力な封印をずっと代々掛け続けているはずだから、本当は復活することなんかありえなかった」
「でも、復活したじゃねぇか。アンバーオーブの封印が解けちまったんだ。何故だか分かんねぇけどさ」
この付近の土壌が豊かなのは、恐らく地の力を持ったオーブが影響を与えていたからなのだろう。ユグドラシルからの恩恵だけではなかったのだ。
エルフィールの戦士達がどこからともなく数人現れ、ロードオブヴェノマスを食い止めるために応戦し始めた。手から次々に魔法を放ってゆく。だが彼らが放っている魔法は穏やかなものであった。
「食らえ、氷の槍!」
空気中の水分を集めて作り出したアブソルートランサーが、彼らの手先から大量に放たれる。風を纏い、鋭い穂先が怪物の身体を貫いてゆく。一本、二本、三本。だが泥状の液体で出来た軟体はその全てを飲み込んでしまっていた。全く効いている様子は無い。
「これまた厄介な相手であるな」
シエラは両手を握り締めて立ち上がった。
「決めた。あれを倒す。嫌いな人達の住む場所だけど、わたしにとっては唯一の故郷だから。守りたいの」
ずっと迫害されてきた思い出しか無い故郷。捨てたはずだった。けれども、シエラにとっては母と暮らした思い出の場所だった。怪物に壊されては全てが無くなってしまう。シエラは鼻を啜りながら、力の限りに両腕に魔力を迸らせた。
「なら、お前みたいな女がやる気になって、俺らがやらないわけにいかないだろうが。いいぜ、戦ってやるさ」
キサラも頭を掻きながら、威勢良く立ち上がる。リィンも、騎士団員達も。
「そうだな。目の前で大量虐殺が行われてて、それを見過ごす事は出来ないな」
「だけど、俺達は丸腰だ。武器を見つけなければ話にならねぇぞ」
目の前に立ちはだかる怪物は、彼らの姿を発見した。目標を全て飲み込まんとする怪物は、液状の両手で這うようにして迫ってくる。
「お、お前たちヴェノマス神と戦うっていうのか。冗談じゃない。あんなの敵いっこないって」
情けないエルフィール男性が尻餅をついたまま、情けない声を出していた。
「あんたも魔法使えるんだろ。エルフィールの端くれなら勇気出して手伝ってくれ。とりあえず協力してあの怪物を倒さなければ、この街は跡形も無くなるぞ」
通る地面は、草木一つ残らない。腐って溶かされて同化する。それを見た男性は、恐る恐る頷いていた。
「わかったよ、協力すりゃいいんだろ。してやるさ。とりあえず、武器ならまだ無事な俺の家に残ってるから、それを持ってきてやるよ。少し待ってろ」
「ありがたい」
エルフィール男性は立ち上がると足早に、直線状に存在する自らの家に向かって走った。その間シエラは既に走り出し、それに続くように武器を持っている自警団員達も少しずつだが協力していた。
シエラの底なしと思われる精神力が、猛進する獣の如く勢いを増してぶつかっていった。自らの体の周りに電撃のバリアを張り巡らせる。
「泥状の怪物かよ。何が効くんだ」
「冷気や水が効果が無いのは先ほど分かった。液体に対してはまるで意味が無い。奴の身体を構成している液体が、もし色々な有機物を含んでいる泥であるならば勝機は見えてくるかもしれない。強力な炎や熱で構成成分を燃やし、同時に液体を蒸発させてしまえばいいのだ」
リィンがそれを言うが早いか、シエラは遠距離から電撃の魔法を放っていた。一直線に光の筋が明滅した途端、粘性の高い泥の身体が焼かれて煙を上げた。表面が焼け焦げているかのようであった。どうやら熱に弱いのは確かであるようだ。
同時に、前衛で援護してくれている騎士団員に対して、不得手であろう補助の魔法を掛けている。身体能力の強化のようだ。どうやらシエラは攻撃術に関しては天才的な能力を持っているようであるが、援護には向いていない。性格的なものであろう。
「シエラちゃんこっちも!」
「はい、はいっ」
軽く念じて魔力を騎士団員に向けて飛ばしてゆく。魔法を掛けられた団員は、文字通り水を得た魚の如く活気づいて動いた。跳躍力も通常の人間のそれとは比べ物にならないほど強化される。平屋の建物ほどの高さであれば一気に飛び上がれるほどであった。だが相手を選んで援護しているのは明白であった。同じように戦っているエルフィール族へは全く援護をしていない。シエラが援護をするのは人間のみ。
目の前でエルフィールの男がロードオブヴェノマスに飲み込まれても、助け舟一つ出さなかった。無表情でその様子を見つめているだけ。彼らがシエラに対して行った仕打ちを考えれば、当たり前の事かもしれない。現にシエラは、彼らに復讐をするために世界を回っていたのだから。
急ぎ走った様子で、エルフィールの男性は武器を手に抱えてきた。狩猟用と思われる簡素な長槍が一本と、鉄製の長剣が二本。いずれも最低限の機能しか備えていない粗悪品のようであるが、無いよりはマシであった。剣に至っては一本は研ぎ澄まされているものの、もう一本は半分錆び付いた鈍らだった。
「キサラ、いつから二刀流になったのだ」
「ん、あぁ。基本的に俺は一刀しか使えないんだけど、何かの役に立ちそうだろ。もう一本持ってれば。いざとなったら投げ付けて使えるしな」
「剣は投げて使うものではない」
「お、俺も援護してやる。ありがたく思えよ」
エルフィールの男性は、リィンの槍へと炎を付与してくれた。鉄の穂先が溶けない程度に熱されて赤くなり、炎を吹き出した。それは魔法で消えない不思議な炎で、振ると軌跡が描かれる。
「先に行くぞ」
獣姿のリィンは、体毛に覆われた皮膚の上から鎧を着て槍を構えている。獣姿独特の大股の走りで、街の中央へと向かっていった。次にエルフィールの男性は抜き身の綺麗な方の剣に手をかざすと、同じように魔力を込めてくれた。すると不思議な事に剣の刃が熱を持ち出し、炎を吹き出し始めた。顔が焼けるのではないかと思えるほどに燃える剣は、なぜか持ち手は熱くない。まさしくこれが『魔法』だった。
「きっとあいつには、普通の武器は効かないぜ。これでも足りないくらいだ」
炎は激しさを増してゆく。これならば液状が相手であっても効果はありそうであった。
「剣自体に魔法力を注ぎ込んだ。しばらくはこのまま持つだろ。魔法で生み出した炎は、多少の水分じゃ消えないからな」
炎の剣を握り締め、キサラも街の中央へと駆け寄った。炎の軌跡が真っ直ぐに後ろに伸びてゆく。数十メートル先には、先に槍を構えて突撃していったリィンの姿が見える。もっと先には、ユグドラシルの樹までも全て飲み込んでしまいそうな巨大な泥の塊が咆哮を上げている。
無人となった家に泥の両手を掛け、腐食させて倒壊させた。最前線で戦っているエルフィール達の数名がそれの下敷きとなった。逃げ遅れ、既にその時点で圧死している者もいたが、怪物は生きている者死んでいる者分け隔てなく、容赦無しに身体に取り込んでいった。あの泥の手につかまれればもう助かる事は出来ない。
エルフィール達が一人、二人と倒れていく中、シエラの表情は逆に晴れていった。口元に笑みを湛えるその姿は、ある意味歪んでいた。自分と母親を苦しめた連中が、強大な力によりゴミのように死んでゆく。
「おい。お前、まさかシエラか」
戦いの最中、突然一人の男性に声をかけられた。
触られれば即死もありうるこの敵相手に、近距離戦を挑むのはある意味自殺行為であったが、後ろで強力な魔法を放ってくれているエルフィール達を守るためにキサラ達は猛進した。自分達が時間を稼げば、それだけ勝率は高くなる。怪物の頭には分からない、知恵を持った生き物ならではの魔法戦の必勝法である。
街中であるために被害は大きいものの、エルフィール達は無事に大勢残っている。戦える者は皆、魔法で応戦してくれていた。広場に怪物を閉じ込め、周囲を取り囲む。魔法に精通した者達が集うこの街において、ある意味分が悪いのは怪物の方であった。
熱に弱いのだというのは分かっていた。そのため、火の魔法を起こす者が多かったが、中には前衛のエルフィールに直撃する場合もあり、「やれ」と「やめろ」の罵声が飛び交っていた。恐らく、魔法に精通した者達が大勢いるのは確かなのだろうが、皆が戦い慣れていないのだ。上手く制御が出来ないのが原因。
「あぁうるせえなぁ、エルフィールども」
怪物の攻撃を引き受けながら、軽い身のこなしで泥を避けていく。投げ付けてくる汚泥の塊が宙を舞う。地面の草は溶け出して煙が上がった。攻撃を受けながらも怪物は反撃の手を緩めない。後衛のエルフィール達目掛けて連続で魔法を放ってゆく。まるで群れる雑魚を散らすかのように。
魔法を放っていた何人かのエルフィールが、魔法によって生み出された猛毒の沼に沈んだ。一瞬の内に広範囲に正常な地面が融解し、土が紫色に変色したと同時に液状化した。猛毒の沼に足を取られた女性のエルフィールは、声にならない叫びを上げながら沼地に身体を沈ませていった。引き上げようと周りの者達が手を引っ張っても、絡み付くように身体についたコールタールのような泥が非常に重たく、引き上げる事は出来なかった。
「な、何て事だ。この沼地に足を取られたら死ぬぞ!」
後衛に動揺が走った。それをいい事に、ロードオブヴェノマスは動揺している集団の中に広範囲魔法を叩き込み始めた。泥で溢れる口から、くぐもった声で何かを唱えている。強力な地の魔法は大地全てを飲み込む危険な力である。
「ま、まずい。散らばれ! うわ」
叫んだエルフィールの足元に魔法が展開される。足元が沼地へと変化し、飛沫が吹き上がる。それを浴びた周りのエルフィールは患部が爛れた火傷のような怪我を負い、大勢が体勢を崩された。男は一瞬にして足を取られ、沈んでいった。同時に、泥に飲み込まれた家屋が倒壊し始めた。柱が折れ、木の屋根が潰れる。家も全て沼地の中に消えてゆく。
「あ、あたしの家が――」
一人の女性が毒の沼地に走り出しそうになり、別の男がそれを制止した。
「駄目だ、あの沼に入るな!」
「放しとくれ、あの家にはあの人との思い出が!」
騒ぐエルフィールを横目に、キサラとリィンは駆け出した。強化された身体能力により、地を蹴ると遥か上空まで飛び上がった。高い木の枝の上に二人は上がる。
「行くぞ!」
二人は息を合わせて、それぞれの武器を振り下ろしながら飛び降りた。素早い身のこなしは見ている方も圧巻する。炎の軌跡が斜めに怪物の顔面を薙いだ。鋭く亀裂が入った泥は一部が崩れ、ぐちゃぐちゃに辺りを汚してゆく。周りの騎士団員達は飛び退ると、一秒前まで立っていた場所が崩れてきた泥に飲み込まれる。斬れば斬るほどに泥が飛び、それを浴びた物が腐食してゆく。戦いが長引けば長引くほど、危険地帯が増えてゆく事になる。怪物は咆哮を上げながら、身体が崩れた事など全く関係無い様子であった。腕を振り回し、周りをなぎ払おうとする。
シエラは一瞬にして顔が強張っていた。昔、確かに見た顔。
「何だお前よぉ、生きてたのかよ。とっくにくたばっちまったかと思ってたぜぇ。ハッハッハ、シケた面した女になっちまったな。何しに戻ってきたんだ、こんな化け物引き連れてアルズヘイムを滅ぼしにでも来たのか」
「ザック……。あんたこそ、まだ生きてたんだ。死んでてくれても良かったのに」
その男は、シエラよりも遥かに大きな図体をしていた。