第50話 三章 ―消え行くもの― 11
自分のベッドを取り戻し、時間を忘れて惰眠を貪っていた。起きた時に同じようにベッドで眠っていたのは一つ下の寝床に入っているシエラだけであった。他の二人は甲板に出ているのかもしれない。同じ船室に姿は無い。
キサラは梯子を降りて大きく伸びをすると、下のベッドで暢気に眠っているシエラをちらと見た。薄い毛布を丸めて抱き枕のようにして眠っている。一晩中、右に左に寝返りを打っていたようで、髪型は激しく乱れていた。頭頂部の髪などはくりんくりんとカールを巻いている。いつもこうなのだろうか。だとすれば普段から彼女は寝癖直しのために多大な努力を続けているに違いない。
「しかし良く食って、良く寝る女だな」
彼がシエラと出会ってからというもの、食べてばかり、寝てばかりといった場面を多く見ている。それだけを見ると実に不健全な生活を想像できるが、消費するエネルギーの方が遥かに勝っているらしく、彼女の身体は驚くほどスリムだ。
丁度、毛布が手から離れて寝返りを打つ。偶然にもシエラは仰向けになった。何かいたずらしてやりたくなるような衝動に駆られたキサラ。
「耳でもつねってやるか」
いつもやられっぱなしだからというちょっとした仕返しのつもりで、キサラは耳に狙いを定めた。人間のものとは違う、細長い耳。間近で良く見るのは初めてであった。寝ている間でも、時折ぴくりと動く耳が見ていて面白かった。
(いや、やっぱりいたずらはやめとくか)
いたずらのつもりでシエラの顔に近付いていたが、ついまじまじと見てしまうと妙に照れ臭くなってしまったらしく、キサラは自然と顔が紅潮していた。
「ふあぁ」
その時、ぱちりと彼女の目が開いてしまった。間近にあるキサラの顔に気付き、びっくりして飛び起きる。キサラも突然の事に飛び退った。
「お、おはよ……」
シエラは寝ぼけ眼で動揺し、一体何がどうなって今の状況にあったのか頭の中で必死に整理しようとしているようであった。だが恥ずかしい気持ちが表に出てきたらしく、頬は赤くなっていた。
「お、おぅ。おはよう」
キサラもどうしたらいいか分からない様子で、しどろもどろになっていた。二人の顔があと数メートル離れていたならば、こんな複雑な気持ちにはならなかったであろう。
「あの、わたしの寝てる間になんかあった?」
「いんや、別に無い」
「そ、そう……」
背徳感に満ちた背中を見せ、キサラは間を保つかのように伸びをした。
「まぁ、お前の寝癖がすごかったから、こりゃ直すのが大変だろうなと思って見てただけだよ」
「そうなんだ。うん、確かにいつもすごいんだけど。寝起きは大変なんだよね」
「だろ。寝相悪いんだな」
苦笑するシエラ。両手の手ぐしで髪をとかすと、柔らかな毛は重力に従って降りた。しばらく会話が途切れた後、キサラの背中に一言が掛けられた。
「さっき夢の中でさ、誰かとキス……してた」
ぴくりと反応した。
「誰となのかは全然わかんなくて、顔が見えなかった。けれど、その人は絶対にわたしの知っている人なのはわかってて、わたしもすごく嬉しくて幸せだった。夢中になって、もう溶けちゃいそうなくらいにその人と唇重ねてた」
キサラは振り返らなかった。背中は無言で返事をしていた。
「ねぇ、その相手って誰だったとおもう?」
「さぁな。昔の彼氏の思い出じゃないのか」
振り返った顔は、シエラと同じように苦笑していた。目は合わせなかった。
「ちょっと俺も、甲板に出てくるわ。悪かったな、寝起き邪魔して」
「あ、うん」
キサラは、何か逃げるように船室から出て行った。一人残されたシエラは再び毛布を被る。
「ばか」
一言、呟いた。
「彼氏なんていたわけないじゃん」
深く毛布を被り、そして思い切り目を瞑った。
「友達だって、一人もいないんだから」
甲板で一人、キサラは物思いに耽っていた。まだ朝焼けのおぼろげに紅く染まる空の下、夜の終わりである紫との境界線を見詰めていた。果たして神界とはどういった場所なのか。ユグドラシルを昇った先の神界。
(複雑な気分がするな)
どういうわけか、懐かしい場所へ訪れるような感覚がしていた。知っているわけではない。全く記憶は無い。ここから先、全てがキサラにとっては未知の領域のはずであった。
「ふんっ」
何か頭の中で靄が広がったように思え、それが何故なのか分からずに無性に苛立った。剣を抜き、見えない敵に向かって素振りをする。両手で構え、思い切り振り下ろす。勢いを殺さずに甲板の木材に当たり、手にまで衝撃が伝わって思わず取り落とした。
(この剣も、そういえばエーテルで出来ている可能性があるんだったな。地上には存在しないはずの素材。それがなぜ地上に)
セシルは、倒れた戦士の遺品だと言っていた。だとすればその戦士は何者だったのか。戦士の顔を直接見ていない以上、キサラには推測する事しか出来なかった。
(その戦士が、神族に連なるものだった可能性は)
無くはないだろう。少なくとも否定は出来ない。人間が到達できない秘境からもたらされたものであったとしたら。キサラの手に渡ったのは単なる偶然だったか。
(偶然だっていいさ。この道具が俺に味方してくれたんだったら、それはそれで結構だ)
水平線の彼方には、うっすらと岸が見えてきていた。高々と昇ってくる朝日は、彼らの旅路を応援しているのか。既にうっすらと汗ばむほどに気温が上がり、キサラは一つ汗を袖で乱暴に拭いた。