第39話 二章 ―劣妖と人外と追跡者と― 26 Final
ふとリィンの顔を見たキサラの目に飛び込んできたのは、彼の持っている矛槍。聖槍セントハルバードだった。
「そいつを貸せ!」
「う、うむ」
キサラは咄嗟に、本来握るべきではない矛の部分を持った。鋭い穂先と、切れ味の良い刃がキサラの胸に向く。危険なのは承知の上で。柄の部分を、谷間のシエラに向かって垂らす。長さ的にはギリギリ手に届くようだった。
「つかまれ、シエラ!」
「あ、う……」
痺れが来ているらしい両腕に鞭打ち、シエラは柄の先をつかみ取った。引っ張り上げ始めた時シエラが頭上を向いてキサラに向けた瞳は、今までの何よりも純粋な涙目で、そして嬉しさで紅潮して頬を腫らした少女だった。
「リィン、俺の身体を引っ張ってくれ」
「任せろ」
腰にしっかりと手を回し、男二人掛かりの力でシエラを引っ張り上げようとする。だが見る見るうちに地割れは広がってゆき、シエラの居た足場はその瞬間崩れ去った。彼女の足元にはもう何も無い。放したら終わりだった。救助を行っている側から崖が断片となり粉々に崩れてゆく。まるで大地が死んでゆくようであった。
「ひっ!」
つい数十秒前まで自らが居た足場が消えた事が分かり、シエラの顔は更に引きつった。力の限りに矛槍の柄を握り締め、絶対放すまいとしがみ付いた。足を無意識の内にじたばたさせ、空中で安定性が無くなる。
「落ち着け、すぐ引き上げてやる」
冷静さを今にも失いそうな彼女を見据え、キサラは思い切り穂先を引っ張った。自らのグローブが切り裂かれる事も気にしていられない。鋭い穂先がキサラの胸に食い込むか食い込まないかの瀬戸際で、シエラは何とか身体を半分引き上げられ、右手を崖際に着いた。逃さず、キサラは手を取り素早く全身を引き上げた。
「はぁっ、はぁっ……」
勢い余って抱き寄せたシエラの身体は水浸しで冷え切っていた。涙目のまま無意識の内に、シエラはキサラの胸に飛び込む形で顔を埋めていた。
「ありがと」
ぼそりと呟いた彼女の声には、本来持っていた純粋さが滲んでいた。
「もう、大丈夫だからな」
リィンはその様子を察し、不意に顔を背けた。だが空を見た瞬間、彼の顔は固まった。
「ど、何処に行ったのだ。あの怪物は――」
首都の空からは、忽然と怪物の姿が消えていた。空には暗雲が渦巻いているだけ。傍らでその様子をずっと見ていたセシルだけが知っていた。シエラを救出している間に何が起こったのかを。何も物音をも立てずに怪物は居なくなった。だが倒したわけではない。何も終わっていない。靄が掛かったように心に巣くう悪寒。
セシルは、二人がシエラを救助するのを助けなかった。黙って見ていただけだった。背後に立ちすくむセシルと目が合った時、キサラの表情は変わっていなかったが、彼女に対して宿している雰囲気は何かが違っていた。
「助かって良かったわね」
「そうだな」
キサラはそれだけを返すと、すぐにシエラに向き直ってしまった。泥だらけで水浸しになり疲弊しきった様子のシエラは、瞼と頬を真っ赤に腫らしてキサラの胸の中にいる。セシルの様子も、何か冷たい物があった。
一行の間には何か気まずい空気が流れていたが、状況がその空気を破壊した。地の底から唸るような金切り声が響いてきたのだった。皆は両耳を塞ぎ、それが収まるまで耐えた。
「何だってんだよ、この声はっ」
「あの怪物の声だ」
とてつもない騒音だった。いや、騒音のレベルではない。音波によって、かろうじてまだ大地に根付いている木々は震え上がり、倒壊した建物達が音波によって振動しだした。中には坂をすべり落ちてゆくものもある。
「冗談じゃないわ、頭がおかしくなりそう!」
地の底から聞こえてくる怪物の声。水で出来たロードオブミストラルは恐らく地中に潜っている。そして始まった。大地が水分を吸収され、一気に干からびてゆく。キサラ達の目の前で、一滴残らず水分も養分も吸い尽くされた木々が枯れてボロボロになり、崩れ落ちた。深緑が夕焼けの色を通り越して黄土色に。そして見る見るうちに黒ずんでゆく。葉が全てもぎ取られ、吹雪のように街に舞った。
一枚の枯れ切った木々の葉が、呼吸乱れたシエラの頬に一枚触れた。その葉を見てぎょっとし、彼女も見上げる。大地が、死んでゆくのをその目で見据えた。
「ひどい……。なにこれ」
一気に片を着けるつもりか。狂獣ロードオブミストラルは、本気でセント・ベルクラント公国の大地を滅ぼそうとしている。
「私の故郷が、死に行くのか。何という事だ」
リィンは口惜しげに片膝を着き、聖槍を取り落とした。タイルの上に乾いた音が二、三回響き渡り、静かに動きを止める。無力すぎた。大きな暴力の前には。
「冗談じゃねえぞ。こんな怪物を、放って置けるか。一発くれてやらないと俺の気が済まねぇよ」
そんな中、この男は諦めた様子を見せなかった。逆境に立たされれば立たされるほど、彼の怒りはますます増幅した。その背後には、普段はこれっぽっちも垣間見せない暴虐なるオーラが揺らめいていた。だが、人々の目にはそれが勇気となって映る事だろう。ただ中心に居る彼を除いて。
そして、現れた。地中の水分を多量に吸い上げた貪欲なる怪物が。青く透き通っていたはずの外見は、紫に変色していた。地中にて様々なものを吸収した結果か。頭を再生できない怪物は、淫らな人間の身体を象った姿で無様に膨れ上がっていた。水分も養分も、吸収し尽くして肥え丸々と太ったその腹を突き出して。
「てめぇみたいな奴は、消えて失くなればいい」
シエラを地面にそっと横たわらせると、ゆっくりと前方に向かって歩みだす。
「お前ら邪魔するなよ、俺が一発ぶち込んできてやる」
その姿は怪物と比べればあまりにも小さくて、ひ弱で、そして希望だった。空を覆うほどに肥大化した怪物は、キサラに向かって両手を突き出した。奴も恐らく決着をつけるつもりなのだろう。何かを唱え始めていた。恐らく魔法の類。使われる前に吹き飛ばす覚悟で、キサラは新しい剣をその手にした。青紫の謎の物質で構成された武器は不思議と軽く、手に馴染んだ。初めて使う武器とは思えないほどに。
切っ先を怪物へと向けると、溢れ出る魔を殲滅せし力がはっきりと視認出来た。黒いオーラが気体のように揺らめく。元々剣が持っていた能力なのか、それは分からなかったが。オーラが大きく伸びて剣の形に揺曳し、キサラの正面から見て怪物の身体を一刀両断するかのように、中心から分ける形で重ね合わせた。
「やだ、邪魔する」
「お前……」
いつの間にか隣に立っていたのは、泥だらけのシエラだった。彼女はちらと視線を投げると怪物へ向き直り、不意にキサラの突き出した剣の柄に自らの左手を乗せた。
「無理するな、疲れてるんだろ。お前がどれだけ力残してんのか分かんねぇけどよ」
キサラも苦笑を漏らすと、彼女の強気な瞳を見据えた。
「エルフィールの血を甘く見ないでよね。あんたが思ってる以上に、回復早いんだから」
「へいへい。しぶといんだな」
にんまりと笑みをこぼすシエラ。
「それに、あんただけにはいいカッコさせらんないからさ。キサラ」
「初めて俺の名前、呼びやがったな」
シエラはとぼけた様子で、左手から魔力を注ぎ込み始めた。淡い乳白色の光が、剣を通してキサラにも流れ込んでくる。
「何だかあったかいじゃないか。いいな、これ」
それは、シエラと言う名の女が持つ、痛々しく純粋なまでの温もりそのものだった。この女には悪魔が宿っている――そんなものは微塵も感じさせないほどに。
ロードオブミストラルの両手は、街中に氷の槍を召喚して降らせた。アブソルートランサーだった。極限まで研ぎ澄まされた鋭利な氷杭。人の背丈ほどもある巨大な物質は、今まさに街中に突き刺さって轟音を立てながら四人を取り囲もうと扇状に迫ってくる。
「来る!」
後ろのリィンが叫ぶと同時に、四人全体を取り囲む結界を張り巡らせた。セシルも無言のまま、二重に空間を防御する膜を展開させる。二つの結界は互いに相乗し、より強固な壁へと進化する。目には見えないが、その効果はすぐに明らかになった。
正面に立つキサラとシエラを貫こうと、三本の氷杭が降り注ぐ。まるで硝子が割れる時にヒビが入るように、宙に展開された結界に突き刺さって、さもまだ突撃しようと慣性でこじ開けようとする。二本目、三本目。キサラの目の前に迫る先端は、あと一メートルの所で動きを止めた。
「この期に及んで、ウザってぇなぁ」
「っね」
二人は同じような声の調子で、必死な攻撃を見せるロードオブミストラルを見据えた。
「もう、足手まといになんかならないから」
「そうだな。さぁて、行くか」
剣に纏っていた負のオーラの全てが浄化され切った時、景色はふと白一色になっていた。
「今なら、こんな魔法だって放てるよ。キサラがいるから」
「俺が居るから魔力も二倍か?」
「ちがうよ、キサラは魔力ゼロ。わたしが今わけてもらったのは」
シエラの面持ちには、怪物に対する憎悪も、他人に対する嫌悪も何も無かった。浮かんでいるのは――。
「あんたの――あなたの無謀なまでの勇気と、愛」
最後の小さな言葉は、キサラには聞き取れなかった。だがそんな事は気にしている余裕も無く、蓄えた魔力が剣の先から溢れ出る。二人も制御しきれないほどの暴れまわる魔力が、切っ先をカタカタといわせて今にも飛び出そうであった。
「行け」
シエラのはちきれんばかりの声が、辺りに木霊した。
「シャイニング・ソーラーフレア!」
剣の切っ先から溢れ出た灼熱の光線が、一気に怪物の全てを飲み込んでいた。暗雲は切り開かれ、眩い光のカーテンが街中にたなびく。水の固まりは尋常でない熱線により再生する暇を与えずに蒸発させていた。怪物の断末魔は、人間のそれとは全くの別物であった。手足をむごたらしく切り落とされていくような恐怖と痛みによる気の狂った叫び。無数の命を喰らった罪に値するかどうかは、死んでいった者達にしか分からない。
光が消えた時、同時に空を覆っていた暗雲は、何処へと綺麗に消え去っていた。まるで怪物が生み出したとでもいうかのような、命をもった存在かのように。そして虹の彼方、うっすらと浮かび上がった景色には見た事の無い大樹がうっすらと姿を現した。
「樹が。この地から見える事は珍しい」
世界を覆うほどの大樹は、人間の目から見えるか見えないかの瀬戸際のように幻覚の如く彼らの前に姿を現していた。抜けるような蒼穹の中、蜃気楼のように揺らめきながら、彼らは降り注ぐ七色の雨粒を浴びてその幻想的な景色をずっと見つめた。
「あれが、この世界を支えている大樹――ユグドラシルなのか」
力を使い、疲れ果ててとろんと目を閉じそうになる中、シエラは小さく呟いた。
「そうだよ」
小さな唇が、何かを言いかけて、閉じた。
「わたしの、こきょ――」
穏やかな寝顔であった。今この時だけは、優しい夢を見させてやろうと。キサラはその華奢な身体を静かに、抱き上げた。