第34話 二章 ―劣妖と人外と追跡者と― 21
人間の女性を象った狂獣が、薄ら笑いを発していた。多数のモンスターを産み落とし、ばら撒きながら吹雪による破壊の限りを尽くすその怪物は、悪夢の母そのものであった。理性があるのかどうかは定かではない。そもそもモンスター自体が気体のために、これが生きていると言えるのかどうかも謎であった。
女性の姿を模してはいるが、その顔は美しさの欠片も無く、目が不自然に釣り上がった異形の表情をしている。髪は無数の大蛇が踊りくねっているかのように常に蠢いている。両腕は異様なまでに細く、指の先から尖り伸びた爪が杭のように上空から降り注ぐ。だが実体が無いために当たっても切り裂かれる事はない。
この怪物の最大のポイントは、実体に触れても傷にならない代わりに、こちらからの何の能力も無い物理的な攻撃をほぼ無効化する事にあった。もしリィンの武器が聖槍セントハルバードではなく、祝福も何も受けていないただの鉄の槍であったなら、対抗できる手段はまるで無かった所だ。 周りで戦っている戦士達の武器。いずれも特別な能力を授かった武具のようだった。やはりその中でも一番手軽なのは火矢であった。相手は冷気の塊であるため、火には弱いようであった。それでも細い矢から伝わる炎はか細く、巨大な怪物相手では効果はおぼつかない。強力な冷気に包まれ、あっという間に消火されてしまう。だが、遥か上空に位置する怪物へ攻撃を届かせるためにはやはり飛び道具が一番効果的ではあった。
そのため、リィンはほぼ地上にはびこる産み落とされた子モンスターの退治で精一杯であった。時折振り下ろす手を狙って、タイミング良く切り裂くくらいしか本体への攻撃は出来なかった。
「これじゃモンスター倒す前に私が力尽きるわよ」
本来ならば重装備に身を包まねば冷気によって体温を奪われてしまう所だが、次から次に戦士達の所へ走り回る事によって汗を掻くくらいまで体温が上がっている。だがその汗でさえ、冷気によって凍り付き、ぽろぽろと零れ落ちてゆく。
「心配はいらない。もうすぐ、セント・ベルクラント公国の誇る勝利の武器がここへ運ばれるはずなのだ。私たちはその時間稼ぎだ」
リィンとセシルが無理を言って海を渡らせてもらった目的。リィンが故郷を守ると言って聞かないからであった。それに加えて、キサラ達と合流するためでもある。彼は恐らくここに現れる。
狂獣ロードオブバーミリオンの時も、彼は諦めなかった。人の命を一人でも多く救おうと先頭に立って戦った。少なくともセシルはその目で見ている。彼が勝利をもたらすリーダーの器である事を。ここで狂獣ロードオブミストラルを放っておけば、第二、第三の更なる犠牲が出る事を理解している。彼の取る行動は予測が付く。
「来るぞ!」
野太い戦士の声が雪原と化した首都に響く。崩れかけた建物の壁を脚鋼が蹴り上げ、飛んだ。相対したロードオブミストラルの右手が、まるで戦士をつかみかかるかのように振り抜かれた。だが実体が無いためにつかまれる事は無い。
霧状の腕は戦士の身体を包み込むも、振り払われた巨大な剣によって切り裂かれた。戦士の屈強な姿が宙で露になる。そのまま戦士は剣を両手でつかみ、第二撃を浴びせる。切り裂かれても痛みも何も感じないらしく、平然としたままの狂獣。切られた箇所はすぐには戻らない。だが時間が経てば再び身体を形成して再生してしまう。こいつを完全に消すには一斉攻撃で消し飛ばしてしまうしかないだろう。
狂獣は気まぐれに左手を掲げると、攻撃を再開した。手の先から放たれる青白い光。再び冷気の魔法であった。首都を氷付けにした畏怖せし力。それは生半可な威力ではない。
「ま、またアブソルートランサーが来る。みんな散って!」
女性戦士の良く通る声。分かっていたかのように、戦士達は建物の影へと姿を隠した。直後、宙に開いた魔力の空間から地面へと岩のように突き刺さる氷の槍達。
「くっ……」
リィンの目の前で、逃げ遅れた戦士の一人が氷の槍に背中を刺し貫かれた。即死ではなかったらしく、口から血を吹いて倒れた。雪原を鮮やかに紅に彩り、すぐに吸い込まれて消えていった。見開かれた目玉が妙に飛び出す。苦悶の表情を浮かべながら、背中から順に凍り付いてゆく男性の身体。
脊髄が割れる音を発し、凍った骨が砕け、肉が裂ける。動けば動くほどに身体が崩壊してゆく。血液までもが最期は凝固し、全身が強力な魔法の冷気によって氷付けにされて男性の身体は朽ち果てていった。
「なんと凶悪な威力だ」
右腕までも完全に凍り付く直前、男性の握っていた剣がはらりと落ちた。風で押されながら徐々に転がり、リィンの足元までやってくる。特別な剣であるのは目に見えて分かった。
(何なのだこの男性の遺した剣は。こんなものは初めて見た)
少々曲がったセイバー状の長剣である事には変わりないのだが、刃が青紫色をした固形物質のようなもので形成されている。柄の部分はナックルガードが付いているタイプであった。しかもつかみ上げるとほとんど重さが無い。まるで刃の部分が重さのない反重力のような物質で出来ているかのようだ。リィンの脳裏には嫌な予感が過ぎったため、刃の部分に手を触れるのはやめておいた。
(まさかこれは、謎の形成物質と言われているエーテルなのか? それで出来た剣であるし、さしずめエーテルセイバーと言ったところか。だが何故こんな所で一戦士が所有しているのだ。話によればエーテルはこの地上には存在しないと聞いたが……)
世間的には謎と言われている物質のため、その効力は未知数であった。だがこうして戦士が所有していた以上は、恐らくこの目の前で大気を覆っている怪物に効果があるという事なのだろう。
(キサラに渡そう。奴は確か、鋼鉄の剣を持っていたはずである。恐らくただの鉄では無力であろう)
重さのない剣がこれ以上風に流されるわけにはいかない。雪の地面に突き刺し、しっかりと固定する。周りにそれなりの重量がある石を積み、引っ掛けた。
(さて、こ奴を止める方法は――)
矛槍を前方に構え直し、リィンは巨大な女性の姿と対峙した。
「随分と離れた場所に送られちまったなぁ」
空間転送されてきた先は、海岸沿いだった。首都までは歩けなくはない距離のようだが、少々時間が掛かりそうだ。海は荒れており、高波が岸まで届きそうだ。この寒空の中で海水に浸るのはよろしくない。命の危険に関わる。
「しょうがないんじゃん? 空間転送って人間には普通出来ないクラスの魔法だし、二人分になると位置を定めるのも難しいしさ」
「お前はそもそも空間転送を使えねぇだろうが」
人気の無い所で再び痴話げんかを始めそうな二人。だが頭を抱えたキサラは、最近どうかしてるといったように落ち着いて溜息をついた。
「……まぁいい。それじゃ、行くぞ」
キサラの爪先が、暗雲渦巻く首都へと向いた。方角は一発で分かった。遠くに何か霧状の巨大な物質が出現している。話の通りならば、その物質こそが諸悪の根源。退治すべき相手。
そんな中、どこかで聞いた事のある腹の虫の音が背後で鳴った。
「今、お腹空いたなんて言ったら殴るからな」
言おうとしていたのか、ドキッとした表情で口をぱくつかせて押し黙った。