第32話 二章 ―劣妖と人外と追跡者と― 19
「人の手には余るな……」
「はい。現にベルクラント騎士団も総出で怪物を迎え撃ったそうなのですが、全滅したとの話があります」
支配人の男性は汗ばんだ額をハンカチでしきりに拭いている。せかせかしている印象で、早く話を切り上げて仕事に戻りたいといった表情をしていた。
「世界でも有数の強者揃いっていわれるベルクラント騎士団がか? 悪い冗談だろ」
床に寝転んでいる一人の難民がそれに反応した。
「兄ちゃん、それがやられちまったんだよ。俺たちはもうみんな、お終いだ。首都は壊滅状態。家も財産も全部、吹き飛ばされちまったよ」
隣には小さな男の子が一人、疲れきった表情で母親らしき女性の腕の中で眠っている。まだやっと言葉を喋り出した頃の年齢だろう。齢僅かにして、突きつけられた現実に晒される。これから先、帰る所の無いこの子はどのように育つのだろうか。
キサラにはその原因を口にする勇気は無かった。原因は、すぐ側に居るからだ。一言でも口にすれば――。
「で、生き残りはこれだけの人数なのか……」
「いえ、他の地方へも逃げ果せた方々が居るはずです。恐らくアルデバラン聖皇国の方へ」
タナトス王国は恐らく受け入れない。敵国であるセント・ベルクラント公国を目の敵にしている国王、マドレーヌが君臨している限り。
「無事に逃げられているといいな」
キサラはだいたい現状を把握できた。首都は絶望的ではあるようだが、住民達の命は現に助かっている。希望はまた作ればいい。命さえあれば。
「お前、シグムントん所の坊ちゃんじゃないか! 偶然だな、来ておったのか」
「あ、貴方は!」
突然話しかけられたキサラは、驚きを隠せなかった。本来こんな所に居るわけがない人物であったからだ。その人物はタナトス王国で魔法士官をしている『ジャック先生』と呼ばれる老兵だった。人間族ながら類稀なる魔法力の持ち主であり、魔法士官を続けてこの道四十年というベテラン中のベテラン。
教わる生徒達から常に先生付けの愛称で呼ばれる人物で、曲者揃いのキサラの周りでは珍しく常識人である。
「お久しぶりです、先生。こんな所でお会いするなんて」
キサラは胸に手を当て、かしこまった挨拶をする。キサラにとっても尊敬できる人物の一人であり、事あるごとに良く相談にも乗ってくれている。
「そんな偉くもないご老体に、かしこまった挨拶はいらんよ。それよりも、大変な事に巻き込まれてしまった。仕事でベルクラント公国へと長い事渡っていたのだがな、首都が……」
「胸が痛むばかりです」
全ての原因はあの女にある。だが全て責任を押し付けた所で、たった一人でどうにかできる問題でもない。かといって、このまま怪物を放っておけば被害は更に拡大して国外へと広がる恐れがある。そうなった場合、甚大すぎて世界中が危機に見舞われる。ベルクラントだけで済んでいる今の内に、抑える必要があると考えられた。時間はあまり無いはずだ。
「先生のお力なら、もしや他人を空間転送したりなどは……できませんか?」
ジャック先生は顎の白ひげを右手でさする。二つ返事で出来るとは言わない事から、あまり良い返事は聞けないであろう事が察せた。
「今のワシの体力では、一度に転送するなら二人が限度であろう」
「二人、ですか」
「まさかベルクラント公国へ行こうというのではなかろうな」
キサラは口をつぐんだ。だがそれが答えになった。ジャック先生は無言の瞳を向け、『やめておけ』と言っている。
「……もう一人を連れてきます」
駆け出した。一発息を強く吐き出して自分に渇を入れた。「よし」と気合を入れると、彼の目付きが変わる。支配人に軽く礼を言って、床に座り込んだシエラの元へと戻った。
彼女もまた一見何を考えているのか分からない無表情な面持ちで、片膝を立てた状態で壁に寄りかかって座っていた。視線は一点、床にひたすら注がれている。キサラが接近しているのも気付かない様子で。
「立て」
彼女の前に両足をしっかり着けて立ちはだかった。立ってくれ、ではない。命令だ。
「現実から目を背けるなよ。起きてしまった事は仕方ないんだ」
視線だけが上を向く。その目は、何も語っていなかった。固く結ばれた口と同じように、目もまた開いているのに閉ざされている。
「お前は何をするべきだ。どうするべきなのか考えろ。人並みに扱ってもらいたければな!」
口の中で歯軋りが聞こえた。
(そうだ。怒ってもいい。俺は今、こいつにとって一番酷い事を言った)
キサラはそれでも躊躇わなかった。
(だが、言うべきなんだ。そうじゃなきゃこいつは――)
怒りは大きな原動力となる。罪を感じているのかは分からないが、逃げていては何も変わらない。現実に立ち向かう事。起こしてしまった罪を償う事。それを自らにさせるのだ。
(俺に向けられる怒りがあるなら、その怒りを思い切り狂獣にぶつけてやれ。俺を殺したって、お前の中の劣等感は何も変わらない)
するりと音も無く、シエラは立ち上がった。
「ちょっと外来て」
怒気を含んだ声色。少々ヒヤリとさせる謎の迫力があった。建物を揺らす風の音が強くなっている。この荒れ模様の中に飛び込もうとするなら、答えは一つしかない。
無言で扉を開け放つシエラの後を追う。建物内には、パラパラと降り注ぐ小さな雨粒が吹き込んで皆が顔を手で覆った。すぐさまキサラも外へと出て、風で抵抗する扉を強引に力ずくで閉めた。
「わたしがどうするべきなのかは分かってるつもり。あんたの言う事が正しいのも分かる。でも、分からせようとして生まれをダシに使うのは」
吹き荒れる風の中、彼女の髪は大きく踊った。絹のように細く美しい髪が、灰色の空めがけて逆立つ。足を大きく開いて両腕を大きく開いて大の字に立った。
「許せないんだよ!」
キサラの額から、汗だか雨だか分からない粒が垂れた。目の前で両腕を広げた少女の目には激しい怒りが目に見えて浮かんでおり、眉間には初めて見た皺が寄っている。
「さぁ、あんたも剣を抜きなよ。ここではっきりさせようじゃん、どっちがご主人様かさぁ!」
シエラの左右に突き出された腕がぶるぶると震え出す。激しい魔力の奔流が腕に流れ始めた。弾ける静電気のようなものが手を取り巻き始め、次第にそれは両手に剣のような形を成してゆく。
(魔法で作り出した双剣、だと)
実体の無い、魔力で呼び寄せた大気中の静電気が集まって出来た剣。淡く白に光り、バチバチとスパークのように音を発しながらシエラの手に握られる。否、恐らくそれは握っているように見えているだけ。彼女が自らの魔力で操っているのだ。
どうやら怒りに任せて白黒付けたくなったシエラ。言っても聞かないに決まっている。キサラも覚悟を決め、冷たい音を立てて剣を抜いた。
「上等だ。お前を負かして、怪物退治してもらうからな! それが俺に払う干し肉代だ」
雨風が頬を叩きつける。折れかけた海岸の木がとうとう負け、民家を押し潰しながら倒れ込んだ瞬間、シエラは走り出した。
両手を広げ、電気の剣を振りかぶってくる。足は思った以上に速い。油断していたキサラの目前に、ステップを踏んでシエラの顔が現れた。
「おらっ!」
右の剣がキサラの頬を掠めた。続いて左を振りかぶってくる。一瞬の内に空気を切り裂かれる。恐らく剣自体に重さが無いため、力は関係ない。全て魔力で制御している。
「やるな」
左の剣を受け止める。もちろん金属音はしない。小さく弾けるスパークだけが耳に嫌に残った。間近で見ると眩しい。ギリギリと左の剣を押さえ付けるが、あろう事かキサラが力負けしていた。
(な、なんて力だ)
「やっちゃえ!」
シエラの顔には笑みが無かった。目の前のコイツを負かしてやる、それだけが目に浮かんでいる。宙に浮かんでいる左の剣はシエラの小気味良い指弾きによって更に押す力が増した。キサラの腕力とシエラの魔力、純粋にぶつかれば腕二本の力では話にならなかった。相手のそもそもの魔力が強大であるからだ。更に余剰分の力は右手に残っている。もしもう片方で切りかかられればキサラに勝ち目は無い。
だが、シエラには恐らくキサラを殺すような気は無い。ただ、負かしてやりたいだけなのだ。殺す気があるならばさっさともう一本の剣をキサラの心臓に突き立てるはずである。
(剣には実体が無い。弾き飛ばせないんだ。シエラ自体をどうにかするしかない)
視界の中に、ふと突風により大きな木の実が横から飛んでくる様子が入った。人の頭ほどもある。温暖な気候の地域にしか生えない巨大な果実の実であった。
「ほらほら、さっさと音を上げちゃいなさいよ!」
シエラは気付いていない。
「横を見てみろよ」
「は?」
言われて初めて気付き、右を向く。もう目と鼻の先に、地面を激しくバウンドして転がってくる木の実が迫っていた。風に後押しされて更に加速し、シエラの顔面に迫る。
「ひっ!」
思わず身体を引っ込めて木の実をかわした。
勢いを付けながらぶつかる物全てを破壊し、最後はかろうじて立っていたあばら家の柱に直撃して倒壊させるほどの威力を持っていた。
身体を引っ込めると同時に、電気の剣も連動して引っ込む。キサラは体勢を立て直そうとするも、シエラもすぐさま身体中に魔力の膜のようなものを張り巡らした。透明で、薄く赤色を帯びている。そして剣と同じように電気を纏っていた。
「てめぇ……、何のつもりだその膜は。めんどくせえ事してんじゃねえよ」
シエラの目は小ばかにされた子供のようにムキになっていた。
「攻撃と防御を兼ねた電気の膜。わたし、昔から電撃系の魔法って得意なんだ」
「知るか」
「味わってみる? わたしの電撃。気持ちイイくらい感じるからさ!」
膜に包まれたまま、電気の双剣は一旦引っ込めた。そして両手を改めて横に突き出す。続けて光線状の電撃を撃ち出し始めた。まるで連発する大砲の如く、直線的に打ち込まれる光の筋が建物の残骸を直撃し、破壊して回る。
風の音すらかき消され、破壊音しか聞こえない。半壊した建物が轟音を上げて木っ端微塵に崩れてゆく。右手から左手から、シエラを中心として放射状に広がってゆく雷光。最後は両手を合わせて太い一本の電撃になってキサラの目前まで迫った。
「くっそ、やりたい放題暴れやがって! てめぇ、後で覚えてやがれよ。飼い犬にしてやるからな」
キサラは舌打ちしながら、その電撃から逃げ回るしか出来なかった。直撃すれば丸焦げは確実であろう。怒りで半分自棄になっている魔法使いは、下手すると魔法の制御すら出来ていないかもしれなかった。
(この人格破綻女め!)
残った建物の陰に隠れて移動しながら、反撃の機会を待った。見えない場所を移動し続ければ姿を眩ませられるのだが、ここは元々広場であるために隠れられる場所は少なかった。残り一つの建物は目の前で風によって自然と崩れ落ちた。
(駄目か)
「出てきなよ! わたしは逃げも隠れもしない。ここにいる」
相変わらず怒気を含んでいる。
「だったら自分のやるべき事からも逃げるな。本当はこんな事している場合じゃないんだぞ。お前のやっているのはただの逃避だ」
「うるさい!」
雨脚が強くなってきた。衣服の奥までも浸透し始める。不快感と、飛来物による命の危険も考えられる屋外。これ以上の長居は危険だった。ふとその時、宿屋の中から一人の男の子が飛び出してきた。扉を開け放ち、思い切り駆け出す。事情も分からないのであろう。激しい風の中、楽しそうに笑いながら広場を走り回り始めた。
シエラは気付いていない。怒りに任せて電撃を放ち続け、男の子の眼前まで迫った。
「や、やめろ!」
咄嗟にキサラは身を晒して駆け出す。
「おらっ」
その姿を確認したシエラは、キサラめがけて電撃を放った。だが男の子が横から飛び出し、身を掠めた。転がりながら男の子を抱きかかえると、肩で息をしながら驚いている男の子の表情を見つめた。
「怪我は無いか」
「う、うん」
何が起きたのか分からない様子のまま、男の子は呆然とその場に立ち尽くした。
「ここは危ない。中で父さんや母さんと一緒に居るんだ」
キサラは男の子を有無を言わさず抱き上げる。その姿に気付かず電撃を放ったシエラを侮蔑するように一瞬視線を送ると、足早にキサラは宿の中に戻っていった。
暴風雨の中に一人残されたシエラは、何をするでもなく唖然としてその場で間抜けに口を開けていた。次第に何か冷めたように身体に纏った電撃は消えた。