第31話 二章 ―劣妖と人外と追跡者と― 18
崖から転落してからけっこうな時間が経っていたらしく、先に逃げた二人の行方は分からなかった。だが自分達の方が危険度が高かったために、彼らが無事に生き延びている可能性は高い。今心配すべきなのは他にある。
シエラと二人で荒野を早足で移動し、ひたすら海を目指した。来た時とは別方面に、ベルクラント方面に船が出ている港町がある事をシエラが知っていた。古城からそんなに距離は離れていないようであった。
「おなかへった」
「今、そんな事を言ってる場合か」
相変わらず飄々とした態度で空気の読めない発言をする。これが国宝を盗み出すほどの犯罪者であるとは傍から見れば思うまい。
「おなかへったの!」
子供みたいに駄々をこねるシエラに、苛々しながら頭を掻いて荷物のバッグを開ける。持ってきた食糧はもう少ない。だがこの先もし強敵と戦う事になれば彼女の力は馬鹿に出来ないし、心強い戦力になる可能性もあった。手懐けておけば今後役に立つかもしれない。
「ほらよ、これでも食え」
キサラはもはや投げやり気味に、長期保存可能な干し肉をくれてやった。
「やった!」
目を輝かせて、手渡された干し肉をはむはむしている。噛めば噛むほどに味が出るのでしばらくは持つだろう。
(食い物目にすると大人しくなるな)
恐らく彼女は雑食だ。もらえれば何でも食べるだろう。元々食に対してこだわりが無いようで、お金の無い貧乏旅生活をしていたようであるし、贅沢をする余裕も無かったのだろうと考えられた。
「あんた、いい物食べてんじゃん」
口に物をくわえながら満足そうに言う。
(元は安い筋肉なんだが……)
あまり肥えた舌はしていないようだ。味の区別などあまり関係無いようである。
「もっとなんか無いのぉ?」
歩きながら、またも物欲しそうな甘ったるい声色で問いかけてくる。振り返ると右手の人差し指を唇に引っ掛け、キサラの瞳一点だけを射抜いている空色の瞳があった。童顔と相まって、可愛く見えてしまうから不思議である。
「って、もう食ったのか」
「おなかへってたから」
しかもいつの日にか聞いた覚えのある腹の虫の音が辺りに響く。風すらもない日中。聞こえてくる音は間違いなくソレだった。
「中途半端に食べちゃうと、もっとおなかへるんだよね」
「仕方ねえな。その分後で働いてもらうぞ」
きっと人並みに感謝する心も持っている。そんな淡い期待を持って、キサラは二度目の干し肉をくれてやった。
「干し肉以外には無いのぉ?」
「持ってきたものも残り少ないんだぞ。残ってるのは干し肉だけだ。他の傷みやすい物は既に食っちまったからな」
食のレパートリーに乏しくなるのは、旅をする以上必然だった。毎晩屋根のあるベッドで寝られ、暖かい食事の摂れる場所にありつけるとは限らない。そのため何日も補給が出来ない可能性があるために、長期保存できる食糧を多めに持っていくのは当たり前の事であり、干し肉ばかりになってしまっても食糧があるだけ有り難いのである。
「ごちそうさま!」
「早すぎだろ!」
数秒間前を向いていただけなのに、その間にシエラは人の顔ほどの大きさにスライスされた干し肉を胃に収めてしまったらしい。
「お前、まさか旅してる間金が無かった理由ってのは――」
キサラは唾をごくりと飲み、ゆっくりと言葉を搾り出した。
「食っても食ってもすぐ腹の減る、その燃費の悪い体のせいか!」
それでもシエラは「えへへ」と苦笑しながら腹を空かせている。視線はまだ食糧の残っているバッグに向けられていた。
元々この女がいくら食べても太らない体質なのか、そもそもエルフィール族の食欲が旺盛でその血が受け継がれているのか。それは分からなかったが、とにかく今の時点で判明した事は、この女を側に置いておくと食べ物という食べ物全てを食い尽くされる危険性があるという事だった。それは人の手に負えない強大な怪物が目の前に現れるよりも現実的な危機といえる。
だが今この女を放り出して一人だけで怪物退治に行くというのも現実的ではない。いくら自信があろうとも、頼れるのは人の扱える程度の長さの剣一本なのだから。キサラには魔法を扱う力は無い。肉弾戦が通用しないようなべら棒な相手ではどうしようもなかった。そういう意味では、この気まぐれな女の協力を得られるのが状況解決には一番手っ取り早い。
「ねぇ、まだ町までけっこう距離あるよ。おなかへって持たない」
聞こえない程度に舌打ちし、キサラはバッグに手を伸ばす。
「これ食ったら少しは我慢してくれ。ベルクラントに向かうのは、お前のしでかした事の尻拭いみたいなもんなんだからな」
それを言われるとシエラも口をつぐんだ。
「……はーい」
「素直でよろしい」
キサラは苛々を込めた視線を投げかけながら、残り少ない干し肉の一枚を渡した。
「いただきまーす!」
と、途端にケロっとして干し肉にかぶりつく。
(これがエルフィールの血のせいなのだとしたら、人間と一緒に生活できない理由も分かる気がする)
何も無い荒野の向こうに、うっすらと建物の影と青い水面が目に映った。日も傾きかけ、安定しない天気が再び崩れそうになっていた。
港町に辿り着いた時には、既に天気は荒れかけていた。海からの風が強まり、水面は踊り猛っている。時折高波が発生して、町の中へと海の水が流れ込みそうになっていた。同時に、町に一軒のみしかないホテルには多くの人々が押し寄せており、それぞれ床に大きめのタオルや布を敷いて足の踏み場も無いほどに寝転がっている。
「これじゃ、休みようも無いな」
天気が荒れてきているために、屋外に居続けるのは危険であった。間もなく暴風雨が町を襲うだろう。まるで、あの狂獣ロードオブバーミリオンが王都スレンスブルグを襲った時と天候の荒れ方が似ている。キサラの中で良くない予感だけは渦巻き続けていた。
「おなかへった」
「お前は少し黙ってろ」
このホテルは奥にレストランも兼ねているようであったが、何か緊急事態が起きているのは確かで、レストランの床にも難民らしき人々が寝転がっている。おちおち食事も暢気に出来そうに無い。
シエラは歩き疲れて人々と同じように床に座り込んでしまった。仕方なくキサラは一人で宿の中を歩き回り、見つけた支配人らしきスーツを着た男性に話しかけた。
「なんでみんな床に座り込んでるんだ、異常じゃないか。これじゃ休む事も出来やしない」
スーツの男性は額から珠のような汗を流しており、暑そうに肩で息をしていた。ポケットにきっちりと折りたたまれて入っていたハンカチを取り出し、拭き取り始める。
「……はい。セント・ベルクラント公国から難民の方々が船の最終便でこの町に避難してこられたのです。外はこの荒れ模様ですから、今このホテルは避難所代わりとなっております」
「何があったんだ」
嫌な予感しかしない。聞きたくはなかったが、つい口を突いて出てしまった。
「はい。何でも、ベルクラント公国の首都ベルクにて『怪物』が出現したというお話です。その姿はまるで淫らな女性の姿だというのですが……」
予感は恐らく的中だろう。第二の怪物が出現している事は間違いない。
「女性の姿?」
「はい。女性といっても、まるで霧状の何かが人間の女性の姿を象っているという話がありまして。それがとてつもなく巨大で、全てを凍り付かせる吹雪を降らせるとか」
キサラの喉が、唾を一滴飲み込んだ。