第10話 一章 ―白亜の栄光― 10
号令と共に矢は一斉に放たれた。だがそれらはずぶりとロードオブバーミリオンのどろどろの肉塊に飲み込まれてしまう。底なしの身体は有って無いようなものであり、物理攻撃はまるで効果が無い。恐らく人間のような固形の身体ではない。得体の知れない粘性の物質が身体を構成している。
「これはどうだ」
地面を激しく擦りつけ、摩擦で矢の先端には火が灯った。激しく吹きつける風と雨の中、無駄だと分かりつつも矢を射続けるしか対抗する術は無かった。その間にも巨大な腕の一撃が街を破壊し、喰らう。いくら腹に収めても満足しない。底無しの胃袋。
オマケに狂獣は目の前で無駄な抵抗を繰り広げている人間達に苛立ちを覚えているらしく、先ほどよりも表情は険しい。言葉は分からずとも殺してやるといった波動を感じられる。動きもだんだんと激しくなってきた。倒壊した建物の一つを狂獣の左手がむんずとつかむ。夜かと錯覚するような影を落としながら、つかまれた尖塔は鐘の音を街に響き渡らせる。
教会だ。普段ならばシスター達が詰め掛けている神聖なる建物が化け物に鷲掴みにされ、空中に浮き上がった。鐘の音はまるで警鐘だ。これから災いが降ってくるという。
たじろぐ自警団員。空より飛来する巨大岩のような物体を見上げるしか出来ない。狂獣が吼えた。眼下の虫ケラ達を見下ろし、口腔から灼熱の炎の吐息を摑んだ教会に吹き掛ける。あっという間に建物は炎に包まれ、尖塔が眼下へと牙を剥いた。
「まずい、来るぞ。投石器隊!」
「はい!」
レムの合図で、巨大な投石器が発射準備を進める。巨大な球状の岩石がセットされ、発射のために紐を持った隊員達が待機する。建物が眼下へと投げ付けられたら空中で投石をぶち当てて防ぐしかない。
狂獣が再び吼えた。左手が大きく掲げられ、炎に包まれた教会が投げ飛ばされる。それは巨大な炎の弾丸となり、街を襲った。
同時に、複数の投石器が岩石を発射した。宙を飛来する岩石は上から下から炎の教会に激突し、激しい轟音を散らす。鼓膜をも破りそうなほどの連続した崩壊音は、続いて城下街の悲鳴を生み出した。崩壊した建物や岩石の残骸がもろに街へと墜落したのである。まだ被害の無かった地域に砕け散った岩石の破片が隕石のように降り注ぐ。崩壊した教会は炎に包まれながら破片となって落下し、更に被害を広めた。
「まずいぞ。まただ!」
矢を射続けるがまるで効果が無い。狂獣は再び炎に包まれた民家を両手でつかみ、狂ったように城下街に投げ付けた。自警団員と騎士団員達は迫り来る巨大な落下物から身を守るために伏せる事しか出来ない。投石器では余計に被害が出てしまう。かといって弓矢では何の抵抗にもならない。ましてや剣など話にならない。
隕石の群れのような鬼畜めいた猛攻に、人間はもはや対抗する術を持たなかった。逃げ惑うしかない。こちらからの攻撃は効かず、相手はどんな攻撃をも無効化する。士気を保っていた隊員達も次第に押し込められている。弓矢を再び手にする事すら出来ず、震える足で逃げ出してゆく者達もいた。
「駄目だ、もうお仕舞いだ!」
「俺は逃げるぞ。もうやってられねぇ」
次々に仲間達の踵が返ってゆく。この怪物から逃れるためには、海を渡るしかない。だが今は嵐。目の前すらも満足に視認できないほどの暴風雨が渦巻いている。当然、船など出ているわけが無い。逃げられないのだ。この街から。
逃げたくなる気持ちは誰だって一緒だった。キサラはそれでも弓矢を構え続ける。憎悪をぶつける勢いで、力一杯に弦を引き絞った。
「撃て!」
レム隊長もロングボウを構えている。鍛えられた豪腕から繰り出される矢の勢いは強く、キサラのそれよりも遥かに威力が高かった。だが相手はこの世の者とは思えない怪物。矢の勢いなどまるで、普段のくだらない会話と同じくらい問題にならなかった。
勢いが強かろうが弱かろうが、全て無効化する。溶岩のような身体に練り込まれて、全てが同化する。どうにもならない。
それでも彼らは街を守る役目を持った誇り高き隊員達だった。残った隊員達は、めげずに矢を射る。一人、また一人と狂獣の腕の餌食になりながらも。
「ぐはぁっ!」
キサラの目前を狂獣の腕に振り抜かれる。その勢いだけで吹き飛ばされるのではないかというくらいの風圧を散らしながら、腕はすぐ隣にいた隊員を掻っ攫っていった。隊員は地面ごと狂獣の口へと運ばれ、溶岩のような身体に焼き尽くされて飲み込まれた。
「先輩!」
その数歳年上の先輩隊員の末路を目で見終えたキサラは、反射的に吼えた。
「畜生! この野郎っ」
思わず目を狙い、ロングボウを引き絞る。だが狙いが定まらない。怒りが喉から溢れんばかりに湧き出でて、若いキサラの感情を昂らせた。狂獣の視線もキサラに向く。「次はお前だ」と言わんばかりに。
横殴りの豪雨が顔を打ち付ける。連続的に叩かれる痛みに耐えながら、キサラは弦を離した。鋭い軌跡を描きながら嵐の中飛翔する矢。だが向かい風で失速し、当たる前に矢は落ちた。
憤慨するキサラに向けて、今度は自分の番だとばかりに腕を振るい上げた。
(来る――!)
キサラは構えた。周りに居る人間は自分だけ。狙いは自分しかいない。
「そう簡単に」
狂獣の右手が拳を作った。人間の数十倍はあろうかという巨大な手が上空から襲い掛かる。恐ろしいくらいに朱色に染まった毒々しい豪腕が地に近づいた。
「やられるかよ!」
腕が地面に激突すると、そこには抉り取られたかのように地面が割れて土が削られていた。キサラは腕の動きを読み、素早く攻撃をかわした。腕の直撃した建物がぼろぼろと破片を撒き散らして上空へと戻ってゆく。
キサラは素早く建物の屋根に上ると、普段よりも数倍の気を溜め始めた。弓を捨て去り、両手に力を集中させる。第二波がやってくる。狂獣の腕が再び拳を作った。
「真空、砲破!」
かっと目を見開き、剣を抜いて空気の渦を叩き出した。魔法とは違う真空の大砲。剣術の鍛錬を怠らなかった者のみが放てる、キサラの怒りが生み出した極限の威力。渦巻く雨風を纏い、空気の刃を伴った放射状のトルネードが狂獣を襲った。
轟音を伴いながら雷に似た静電気を発し、空中で連続的に破裂音を発して狂獣の身体を貫いた。人間で言う右肩に食い込み、どろどろの体が割れる。右手が千切れた。
どろどろの溶岩のような物質は体の表面を覆っていた粘性のある液状の物質らしく、その中には実体があるようであった。千切れた身体の患部からは大量の体液が吹き出し、地面を汚した。千切れた巨大な右手は城下街へと降り注ぎ、表皮の体液によってすぐさま腐っていった。
建物の色が腐食してゆき、次々に倒壊してゆく。
「ふはっ……やったぜ!」
苦しみに喘ぎを上げる狂獣。渾身の力を込めた一撃は右手を千切る事に成功した。だがキサラ自身も疲労が激しく、今のをもう一度やれというのは無理に近かった。
だがこれ以上の威力のある攻撃を繰り出すのは、現時点では厳しい。怯んでいる今が絶好のチャンスだが、これ以上の追撃が出来ない。キサラの技である真空砲破を教えたレムでさえ、体力の衰えのためにキサラほどの力は出せないのだ。
自警団随一とまで呼ばれたキサラでさえ、狂獣の右手を奪うのが精一杯であった。これ以上無理に力を使えば、今度こそ体力は底を尽きて倒れてしまうだろう。
「あと一撃だ。あと一回、今のをあいつの急所に叩き込めれば――」
だが急所がどこなのかすらも分からない。たまたま今は右手を千切り落としたが、致命傷には至っていないのだ。人間の急所ならば心臓や首、鳩尾だが、怪物までそれが一緒だとは限らない。あてずっぽうにもう一撃を放つわけにはいかなかった。
「っ――。ヤバい。うわわっ!」
疲労のあまり、キサラは屋根を踏み外した。身体のバランスを崩し、地面へと落下する。だが下では仲間の隊員達が受け止めてくれた。
「大丈夫か!」
「やるじゃねえか、キサラ。見直したぜ」
年配の隊員達は皆、体格が良い。キサラ一人の身体など子供のように抱えてくれた。キサラは疲れ切った表情で無理に笑いを作り、右手の親指を立てる。
狂獣は右手を切り落とされた怒りで、次々に火の魔法を唱え始める。街のあちこちで爆発が起こった。
「くそっ、暴れ始めやがったな」
仲間の腕から地面に降り立つと、建物の陰に隠れてキサラ達は狂獣の目に入らないようにした。怒りのせいでまさに『狂獣』の本性を表した怪物は、精神がおかしくなりそうな狂った咆哮を上げて次々に街を破壊してゆく。
「お、おい、あそこは!」
狂獣が火の魔法を放つ。眩い光が商店街を包んでゆく。耳鳴りに似た超音波が鳴り響き、次の瞬間に爆音と共に地獄の火炎が踊り猛る。
「そこは詰め所だ、やめろ――!」
自警団の詰め所だった。キサラの脳裏に一人の少女の姿が過ぎる。銀髪の少女の姿が。詰め所には彼女が寝ているのだ。
爆炎に包まれる商店街を見て唖然とし、腰を抜かして座り込んだ。
「嘘だろ……」
仲間の隊員達も、悲壮な表情でその光景を見つめていた。嵐の中、もくもくと上がる煙と炎。あの日々を過ごした詰め所は、炎に包まれてしまった。一人の少女を飲み込んで。
キサラは呆然としてそれを見つめている事しか出来なかった。
「けほっ……」
その傍ら、足音と共に咳き込む声が聞こえた。