ニ
画家は目が効くらしい。奏者は耳が効くらしい。差異が幾程か、容易く分かるらしい。
差異の住み処を埋め立てる勇者達を私は畏敬する。然し小説には何うだろう。
芸術は風、香る音、淀む光だ。何時か抱いた心地を今に起こさせる。或いは誰も感じ得無かった気配を現に取り巻かせる。
その何を喜ぶか、目には光の映るのだから、矢張り光の喜びだろう。
闇を見紛い光を見出だす。斯く存じた私は、斯く滲むる闇を生み出さんとする。
描くは鈍き風、運び香る音、闇淀む光だ。澄めば滲まぬ。不分明にこそ心地好く漂う。だから私はそれ等を用い、音と光を描く。風めいた運びを求め波起こさんとする。
それは着飾った文章では無く、元より優雅な――然し裸では無く、可憐に披けた――朧に照らすも冬らしき、澄んだ気配の去り際浮かぶ、俯き見上げる文章である。下から見上げ、或いは上から見下ろし、そうして此方を向く文章である。それこそが小説としての動きなのだと私は考え至った。
娯楽は全て嘘を許される。それ等に興じる者達は、或いはその労働者の名を免罪符として扱う。
然し嘘は真実の上に成り立つものだ。内々の盲に嘘は吐けまい。だから悲しくも、我等はその目を見開かねば無らぬ。とはいえ嘘を嘘として求められた訳では無い。私もそれを求めては居無いけれども、真実として描くのならばそれは、嘘の上にこそ成り立つものだ。何方を選ぶにしろ、何方かのみをは選べ無い。
嘘と知りつゝも、絵の中に嘘の字を見出づれば悲しみや寂しみに恐らく暮れる。小説には秋めいて、話には聞き兼ねる。
それは芸術に、或いは私に取って文学に、文学として流れ続ける安堵が為だろう。宗教を源流とする色又は絵の、形又は写しの、音又は言の、或いは文の奔流は、明白に縛られた川の相を呈し、溢る不安を隠し流れる。私に取っての芸術とはそれであるから、小さな飛沫すらきっかけとして、芸術の川は只の娯楽へと氾濫する。
文学と呼ぶに能う河川は、その最大に流れども川幅狭く、その最小に流れども水底遠く、それ等の水面は何時にも地に並ぶ。
だから民衆はその川を眺め往く。身を落とさぬように、或いは只見下ろし乍ら。
娯楽に溺れてこそ恐らく立派だ。浴びてこそとは、余りに多くを打ち付けに過ぎるのではなかろうか。それでこそ愛おしく思うものだが、それで私の様に、其処に留まり続けるのは惨めだろう。――惨めでこそ愛おしいかい?愛でられるのは何時にも惨めな心地かい?――惨めに思わぬ為に、祭り上げたのか。
心の溺れぬが故に、我が身殺そうと、私は――その川にすら飛び入れず、どうしてこの身の朽ち果てよう。身と心の死、その間には大した差など無いのだろう。
飛沫を戴き、水面へ映る星々見下ろす。この身宇宙へ窶せども、我が心我が星へ惹き付き続ける。
外への嘘であれ、裂かぬ嘘には目も覚め遣らず、破らぬ空には雨昇らぬに、縛る文には哀れにも濡れよう。――惨めと書いたのだ、この哀れの、詰まり惨めで無い事は知れよう。或いはそれでも同じであるのだろうか。否定は出来ぬが意図には無い。偶然の曖昧さには苛立つばかりだ、その美しさは潜めてこその美しさだろう。――この世界に当てゝ考えるも亦自然の流れだ。夢にも成り得る。役にも立とう。
元より夢をこそ求めた訳では無い。けれども中なる嘘の繋がりあって、又曖昧であるのなら、それは夢なる嘘だろうから、夢を見ようと丸で描くのだ。
宗教的娯楽に人は娯楽する。――美しく、冷たく、この世界を中に秘めるなら、それも亦芸術だ。――私も今少し、文の鞣すを忘れ結い遊ぼう。
然りとてこの語彙の乏しさよ。皆は何処ぞで得るか――何が正しいかは知らぬが、量る後にこそ意志の乗せる暇の付くものだろう。敢えてで無くて何う思わせる。然りけれど――それは、語彙で無く文の法か。詰まり私に足りぬは文への学か。
そんな者が文学を語ったのだ、この上無き滑稽本に仕上がった事だろうな。
量るには数が要る。その正しいさの誰に取られ、それすら今は分からぬ。美しいのだと、これが私の愛する文章なのだと、そう嘯く事も叶わぬ程に痩せ細っている。
おい、矢張り語彙も亦足りぬ。量る為であって、亦それ自身の為――詰まるに私は、この貧相の私には、思考へ費やす言葉の数すら足りておらぬのだ。
私が何を持っているかは分かぬ。然し何かは持っている。それを使わずして死ぬのは、持たざる人に申し訳が無かろう。
不意とそう思う。何故だろうか。こういった思想――感情を、人は何と呼ぶのだろう。
恐らく何かを持っている。その曖昧さに――胡乱に果て得ぬその余地――自身への信仰を糧とすれば、この枯れ々ゝの私にも、気力の宿り得るのだろうか。
生きるか死ぬか、定めた後で無ければ、気憑りにも頑張れまい。誰が拵えたか、折角の文学だ。我が為に、我が代わりに、文字果てる迄使い殺そう。
然し生きるに足る――生きるに足るかを量る――人生の知識すら私には足りぬ。そして私はそれを他人に求めた。だから惨めに悔しむのだ。今更に、そんな些細な事に気が付いた。
私は人だ、私を囲む人も人だ。ならばこの中で私を問い質してやろう。
滞る心地の、又ある種の聖々しさに、私はこれが自身への宗教的思考かと保留した。
これはその過程の単なる思いだと思い、では何がそうで無いのかと疑問が生じた。繋がりの度合いに因るのだろうか――そう浮かび立つけれどもこれは未だ思いであるらしい。何処迄行こうか、一先ずはこの思い此処へ落とそう。きっと次へと繋ぐ為に。
嘘が明白に真実であるのが文学の――成る程元より文学とはそういうものであるから、敢えてそう書くのは野暮だ。
然し後になってその文字に撚り成された者の、その言葉では無く存在が、或いは夢だと――私の言葉で無く私が――いや矢張りそれは言葉なのだ。寧ろその事をきっと寂しく思う。真に夢としてあったなら、それは漂うものの筈であるから。
夢見心地は好い。夢であっても良い。それでも此処を嫌がるのは、生への執着より逃れ難いが為だろう。
然しそれを受け入れる為にこそ、文学の川は流された。夢は現の為にこそ在るものだ。
或いは白昼に明晰するが如く、受け入れらねぬ事を亦受け入れる為に。
自問自答とはこれだろうか。この言葉を何処から持って来たのか私の無意識は、然し良く聞いた言葉だ。
先立ちの問いに後坐つ答え、それこそが思考であるから、自問自答の何故自問自答かと呆れた心地にあったが、迷いと悩みの離れた様に、詰まり流る我が思考で無く、私自身の閉じ籠もるが自問自答なのだろう。であるなら――今が自問自答であるなら、思考へ――この藻彽を流さんが為、私も亦流れに着きて旱路開こう。
弾ける様に浮かぶ、慣れない感覚だ。
その果てには、私は死ぬ為に書いているのかも知れないと思い至った。それにしてはこの気の抜き難さはおかしなものだが、然し矢張り粗雑であるから――死ぬが為に、生きた錯覚得んと藻掻くなら、粗雑の不自然にして気の入る気入りか――詰まり矢張り、未だ知識が足りぬのだ。
私は嘘を書かねばなら無い。私の、或いは――此処より続くは嘘である。然しそう書かねば書けぬ程、私は濡ち絡まった。
だから文学者達よ、私も亦貴方々に倣い、何も変わる事無く復尋ねゝばなら無い。――差異の在り処を隔てる怯者達を私は愛敬する。然し生きるには何うだろう。
仕事と出来れば胸も張れようか。転がる金と投げ入られた金との差も分からぬのに。
零落れ、尚も我が身蔑み、然りて他人を見下す。こんな私に小説など書けるものか。私の望む小説など書けるものか。誰にも望まれず、尚も書こうというのに、何故こうも私は――そう願うのならせめて上を向こう。試しに星とやらを眺めよう。あれが本物の、自然の星かなどとは考えもせず。
今は軽やかで、それで好い。