一
不意に小説を書きたくなった。文字は、その利用法は、大変便利に発達したものだから、こんな私にも躊躇う理由を誤魔化させる。
定める可きは先か後か、題とは妙なものだ。
投稿するには無ければ無らぬ。然し題を考えるのには筆に暇をやらねば無らぬ。題が真に題するのであればその仕事を終えた後で良かろうか、基づき描くのであれば先であるが――私は一先ずその迷いを紙に落とした。
書かずとも表れてくれるもので、この黒は滲まずとも優しく、然しその潔癖さを少し寂しくも感ずる。迷いの滲まず、それが為に思慮の真直に滑らぐのだけれども、急かされた心地に背筋の強ばりを解す芸術は見出だせずにいる。
巡ると書くにはその自信が無い。蠢く程には肥えた滞りも無い。文章は思いそのものに近く、紙には鏡程の堅さは無い。それゞゝを比べるには余りに違い過ぎる。
才色兼備は鏡にて、その端麗さを量り切れるだろうか。賢さは己の賢さをも容易に定め得るのだろうか。私は愚か故にその愚かさに気付けぬ愚か者か。
私の愛する絵画がたった一枚ある。眺むれば訪れる感動、それは只現れる。心を意識せず、畢竟その絵画を見詰める私の心は、只管に心であるのだ。それを私は嬉しく思う。
鏡が写真では在り得ぬ様に、私が小説を小説と定むるには、その内で堅く結ばれ無ければ無らない。或いは方程式の片割れらしき広がり、その一端に全てを含む様な、兎角結ばれたもので無ければなら無い。
小説を描くのだからと、私はこの一面に物語らしき動きを加えようと足掻く。
過去より描けば物語らしくはなろう。然し時間より逃れる術を、或いは暴く術を、私は小説にこそ求めたい。
書こうと藻掻くは当然苦しい。浮かびを拾う嬉しさの対極――ともすれば波浚うの対として、その自らの波立とるに或いは得られようか。
語彙の乏しさに呆れた私は、墨を擦る心地の好い事を忘れ、染み込む愉楽を急く様に、或いは硬筆が紙を削った音に苛まれ、机の上や下やと矢鱈に探る様に――乾びぬ印支、この星に存在する言葉の幾らかを綴じたその羅列を、拾う努力の思いもせず、この哀れな、閉じられた扉の中へと誘わんとする。
筆の秋暮れに、紙を枕きては欹つ草々。私はふと、今日を初日と思い喜んだ。
戸を叩く音の立て続くと期待して、迷い子一人の為にと冷たく明るこの家を拵えた。足音に逸る夢を見た事も、今はもう懐かしい。
記憶は既に思い出として残るばかりだから、その枯れ草の、或いは押し葉と言えようか、何時かに摘んだ楉よりの落ち葉等を、何を耕すかは知らぬが此処へ撒こう。或いは接ぎ木と成るを願て。
私は私と名乗っているが、俺と呼んだり僕と呼んだりもする。見せたい私が私であり、本心から思う私は俺や僕なのだろう。
こうしてエッセイを書くからには、私は私と名乗りつつも俺や僕として書くつもりでいる。
これを書き始めた時の心持ちは説明し難い。ただこういう心持ちなのだと察してもらいたい。
このエッセイが続くのなら、私でなくなる日もあるだろう。きっと敬語を使ってもみる。しかし区切りの付かぬ内には変えられない。私の心持ちが変わったとしてもだ。
私はエッセイというものを余り読まないが、読む時は大抵笑って読む。書いている今も少し笑っている。嘲笑ではないと思う。恐らくカタルシスというものだろう。彼の言葉を借りるなら緊張の緩和だ。孤独を、あるいはその対極を、緊張してか緩和してか、カタルシスなどは笑いを生む。
私のエッセイはさぞ滑稽だろう。意図したものであればそれもまた誇れるのだが、しかし意図したものでないからこそ滑稽なのだろう。
書いたからには読んでもらいたい。是非とも共感していただきたい。君の書くものより粗末で、読んだ君は安心する。そういう安堵や笑いでもかまわない。捨て置かれるよりは幾分かましだろう。
私は私や私の書いたのもを愛らしく思っている。それを恥じてもいるが、しかしやはり愛らしいのだ。
一つ書き終えぬ内に次を書き始める。こういう生活は嫌いなのだが、物心ついた時分から続いているように思う。――今もそうだ。このエッセイがそうだ。
小説とエッセイを分けてしまえば言い訳のつかぬ事もない。小説を書く為にエッセイを書くのだと言えば私は納得する。
物語や構成などを考えず書くのは楽で好い。楽しくもある。整理する事の嫌いな私にはこれが合っているように思う。勉強も嫌いだから一文を取って見ても出来が良いとは言えないが、そう悪くもないだろうと思う。余りに嫌悪が過ぎると理由を損なうから、そうする癖を付けたのかもしれない。
私は良く本を買うが、読む事は少ない。しかし読もうと思う日には大変に読む。――書いた後に気付いたのだが、近頃はそういう日も少なくなった。買う事も少なくなった。その代わりに少しづつ読む癖が付いた。老いだろうか、日という区切りが曖昧になったように思う。続く事を願う心も萎えた。――買いたい心持ちと読みたい心持ちの違うように、書く心持ちと読んでもらいたい心持ちも違う。台詞や設定や詩を書く心持ちも当然違う。その違いに私は悩まされている。急くのと止まるのとが反対ではなくなっている。往来を繰り返すのは私には辛い。
余り物で拵えた料理のように、このエッセイも書き連ねてやろうかと思った。しかし余り物など人に食わせるものだろうか。
どうも私の作る料理は素朴にはなり難いらしい。それは私が主体を見出す事が苦手な人間だからだと自覚している。これも、だからなのだろうと、小説を書く事が苦手な訳にも納得している。抑の、文章の拙さもあるのだが。
小説等を鑑み、浅ましく飾るのも素朴にならざる要因かと思ったが、見掛けはさしてそうではない。浅ましさを隠す可く素朴に見せようと飾っているのだろうか。味の複雑さは本心からこれが上手な味付けだと信じているのか、単に雑なだけか、いやきっと作る事を楽しんでいるのだ。やはり他人に食べさせるものではないな。
思う儘に書いた散文が私の前には常に溢れている。これに愛着を持ってしまったから、捨てる事もできずに狼狽えている。分けるにも量が多過ぎて儘ならない。腐っているのかどうかも分からない程だ。
余り物で料理を拵えるのは私が食べる為だ。勿体無いと思うからこそではあるが、食材や食材を拵えた人の為ではなく、やはり私の為だ。
エッセイも元より私の為に書くものであり、小説ですらそうなのだから、これが小説を書く助けになるのなら、数を減らす為だけに書くのも悪くないだろう。
私の料理を不味いと言った人間はいないが、気を遣わせてしまったろうか。――などと、私は笑いを誘うつもりで書いている。私の、書き乍らに零れる笑いは自嘲だろうか。これを面白いと思い乍ら書いている事が可笑しいのかもしれない。意図は意図であって、小説に加えるのは無粋だと思っていたが、笑ってもらいたいのなら、そうだと明言しておいた方が良いのかもしれない。――寄せ集めにもきっと需要はある。値が同じなら質のより良いものを欲しがるのが人情だが、物好きは思いの外多く居るものだし、集めた一つ一つをそれぞれ味わえるのなら、手間が掛からず寧ろ良い物として扱える。
これを他人の目の前に置いてやろうという、努力を伴った大胆さは、小賢しいと言い捨ててやりたくなるものだが、対価を欲するのには正当な行いだ。
己一人では判断がつかぬから、こうして衆目に晒し、誰とも知れぬ読者に頼っている。私はこれを弱さだと思っている。私は間違ってはいないだろうかと、判断を他人に任せ、或いはただ褒められたいが為に晒しているのだから。しかし趣味であるからには、いや抑小説と云うものの性質として、多くその始まりは己自身であり、にも関わらず己には終わらぬものだ。当然その仕事は代筆などでなく、筆記でもない。注文は受けるが、注文に留まる。
これで金をせびようとすら思う日がある。夢といえば聞こえは良いが、私が欲しい物は賞賛と共感と金だ。金はつまり既に書いたあれらと、楽しむために書くであろうこれらを売りつけて、働かずに済む時間を買う通貨にしようというのだ。やはりこれは、浅ましさだろう。
生きる事に飽き、しかし尚も執着し、それがために代わりの楽しみを探し、自ら望んで依存する。煙草や酒をやめれば私はきっと死ぬだろう。或いはただ生きられるだろうか。どの道やめはしないが、楽さのみが望む可きと信じられたなら、その時点で私はいとも容易くその楽さを貪っているだろう。しかし今は焦がれるのみで、ここにこうして、辛うじて居座っている。居座る場所を損じた時、私は一体どうなるのだろうな。少々楽しみだ。
最早飲んだ気すらしていなかったが、何かを忘れた後に思い出した。エッセイを書き始めた時、少々口にした酒(一合にも満たない)が抜けていなかった。酒が気を大きくして、舌や指が活発になっていたのだろう。今は睡魔に呆けている。
エッセイは説明を必要としないと、そう思えるから楽しい。思うのはただ思うだけだ。言い切る必要すら無い。そしてだからこそ言い切れる。それが楽しい。