第65話
もうイグセリカには抵抗する気力はないようだ。
ゆっくりと彼女の首を掴み、宙に持ち上げた。
「くっ、あ、がっ……」
「死ぬ前に答えろ。なぜお前たちは私を殺そうとする」
「貴様が、魔王、だからだ。それ以外の理由なんて、ないよ……」
イグセリカはこれまで私が殺してきたイグセリカと同じことを言う。
これでは私のしてきたことは全くの無意味になる。
だから、彼女の心を揺さぶることにした。
「これを見ろ」
私は懐から剣を象った真鍮製のペンダントを取り出し彼女の前に掲げた。
イグセリカが初めて盟王都に来たときに私に買い与え、金がなくとも売ることを頑なに拒んでいた土産のペンダントだ。
イグセリカは戸惑っていたが、すぐにそれが何なのか思い当たったようだ。
「そうか……。くはは、そういうことか…………。――アルト」
イグセリカは諦観じみた乾いた笑いを残し、かつての私の名を呼んだ。
やはりイグセリカはイグセリカのままだったのだ。
私は少年アルトゥール・リープマンの声音で彼女に懇願する。
「お願いです。師匠。教えてください。ウィチャード・ラグナーとは一体何者なのですか」
「さぁな。あたしにもよくわかんないよ……」
「ウィチャード・ラグナーが師匠たちをここに遣わせたのでしょう?」
「さあ……そうだとも言えるし、違うとも言えるな」
「誤魔化さないでください。ぼくにはもう、わからないんです」
「はは……。いい気味だな」
「――ふざけるな……。ふざけるな! ふざけるな!! お前たちは一体何なのだ!」
イグセリカは私の苦悩を嘲笑うかのように続けた。
「それにしても、すごいな。どうやってシルリィの目を誤魔化したんだ?」
巨人を倒したあの日、私は自分の力を彼女らに見せている。
シルリィは一度見た魔力の性質は忘れない。彼女なら事前に私のことをアルトゥール・リープマンだと区別できたはずだと、そのことを言っているのだろう。
「机の上の林檎を見てどの木から落ちたものか当てられる人間などいないだろう。あのときの私は単なる分離体に過ぎない。同質だが異質。シルリィとて今の私とアルトゥール・リープマンを結びつけることは不可能だ」
私が彼女らの前で力をひけらかさなかったのは単に、目立たないようにウィチャード・ラグナーを探し出すためでしかなかった。
「そうか……、そりゃあ、すごいな」
「私は答えたぞ。いい加減、ウィチャード・ラグナーのことを教えろ」
「そうだな……。あたしから一つだけ言えるのは――貴様にウィチャード・ラグナーは絶対に殺せないってことだよ。魔王」
ぎり、と音が鳴る歯軋りをするほど怒りがまたこみ上げてきた。この感情に蓋をすることができない。
しかし、不可解に過ぎる。
私が殺したはずのウィチャード・ラグナーが一体どうやって花嫁たちを誑かしたのか。
あのとき殺したウィチャード・ラグナーがイグセリカたちに直接影響を及ぼしたとは考えにくい。
奴の思想が別の誰かに引き継がれ花嫁たちに伝えられていたのか?
あの男は、偽物だったのか?
もう一人別のウィチャード・ラグナーがいたということなのか?
それとも、まだ別のなにか……。
思案していると、イグセリカがあのころのように柔らかく言った。私も何度も目にした、あの頃の優しい笑顔だった。
「昔のあたしは師匠として頼りなかったけど、今はどうだ。立派になっただろ」
見事なものだった。あのころの未熟だったイグセリカとは比べものにならない。私が共に過ごしていた間に与えた衰弱化をよくぞ乗り越え、ここまで成長したものだ。
私に殺意を向けているのでなければ、あのころの昔話に花を咲かせることだってできたかもしれない。
彼女たちが〈兆し〉さえ持っていれば。
アルトゥール・リープマンとしてイグセリカたちと共に過ごしたわずかな時間は、悠久に生きる私の生の中で、未知なる刺激で、新鮮な変化だった。
素直に言葉にすれば――悪くなかったと、人間感情的にそう言えていた。
彼女たちが、最後にウィチャード・ラグナーの名を口にさえしなければ。
笑い合えていたかもしれない。
「……どんなにお前たちが強くなろうとも、私にとっては、……失敗だ」
「ははっ、そうかよ……」
イグセリカは乾いた笑いを残し、
「今度こそさよならだ。アルト」
そう言って、掴んでいる私の腕を掴み返し、言葉に力を込めた。
「我が魔力に命ずる――」
「――!」
「内なる全を以て太陽の閃炎と成し、帳の王を破滅せしめよ!」
イグセリカの魔力が爆発的に触れ上がった。
自分の魔力を言葉で操る技法、魔術。イグセリカ自身で見出した、魔の秘奥。
イグセリカの全身が目映く輝く。彼女自身の肉体も膨張し、破裂し、光と共に私に襲いかかる。
凄まじい熱量の閃炎波は、私の皮膚を焼き剥ぎ内臓を焦がし骨を溶かした。
だが私は死なない。死ぬることはない。
苦痛はない。悲痛もない。
私の意識の表象たる肉体は無制限に再生を繰り返す。
彼女たちは私を殺せない。殺す方法を知らない。
だから私に焦燥はない。
湧き上がるのはたった一つの感情のみ。
花嫁たちは喪失された。徒労感が何よりも重く感じる。
彼女たちから魔王と呼ばれる私が、わざわざ子どもの姿に偽装し近付いたというのに、結局、私はウィチャード・ラグナーがまだ生きているという事実以外何も得られなかった。
失敗したのだ。私は。また。
これまで感じたことのない憤怒が私を支配していた。怒りで我を忘れるとはこういうことなのか。私は自分の身体が制御できないほどに震えるのを感じていた。
灰色のクレーターの中心地で、私は空を見上げた。
この星のどこかにいる、私の宿敵を想って。
「必ず――必ず探し出して殺してやる。ウィチャアアアアアド・ラグナアアアアアアア!!」




