A-3 幻影の甘言
不思議な音がその場に響いていた。空気の抜けるような、か細い音だ。そこに時折ゴポゴポと、水が泡立つような音が混ざる。
音は、エイダの方からしていた。彼の呼吸音だ。
壊れた人形のようにボロボロで、腫れ上がった顔はもはや誰なのか判別することも難しい。片目は潰れ、残った左目は光を落として虚空を映すだけ。
意識があると周りが判断できないほどに、エイダの身体は死へと近付いていた。もう外の音はろくに聞こえず、目だって見えていない。痛みと暗く重苦しい自我だけが、今のエイダが感じ取れるすべて。
「…………」
悔しい――それだけがエイダの頭の中を満たす。アリアドネの無念を晴らそうとしたのに、無念を晴らすどころか男達に楽しみを与えてしまった。終始その場に満ちていた下品な笑い声が、恐らく彼女が最期に聞いた音。そう思うとその声を止めることすらできなかった自分が不甲斐なくて仕方がない。
エイダの目から静かに涙が流れる。嗚咽すらもう上げられない。瞼を閉じて涙を制御することもできない。
『復讐はね、それをする人だけじゃなくて、きっかけになった人まで汚してしまうの。この場合は母さんのことね。私は自分が汚れるのは構わない。だけど母さんは汚したくない』
耳の奥にシェルビーの声が蘇る。ここに来る前に、彼女がエイダにかけてきた言葉だ。
『――アリアドネを殺した奴がわかった』
一人でこの場所に来る前に、エイダはシェルビーにそう告げた。それが筋だと思ったからだ。しかしシェルビーの反応はエイダの期待したものではなかった。
『……そう』
その一言だけ。言葉を探すのかと待ってみても、シェルビーにそんな素振りは見られなかった。それが、エイダの神経を逆撫でた。
『それだけかよ!? 母親を殺されたんだぞ!? なのになんでそれで済ますんだよ!』
怒鳴り声と共に怒りをぶつけた。相手が自分よりも更に幼い子供だということは忘れ、ただただその態度を責めた。
そんなエイダに、シェルビーがゆっくりと目を向けた。
『復讐は醜いよ』
いつもよりもずっと大人びた口調だった。シェルビーの声なのに、まるで大人が話しているかのようにしっかりとした音運び。そして、表情は冷たい。大人でもこんな表情をエイダは見たことはなかった。
『は……?』
聞き返したのか、それともこの状況への疑問か。どちらなのかはエイダにも分からなかった。目の前で起きていることが全く理解できないのだ。
怒りは混乱で塗り潰され、困惑がエイダから言葉を奪う。するとシェルビーは相手が説明を求めて黙っていると思ったのか、ふうと一つ息を吐いて話し出した。
『復讐はね、それをする人だけじゃなくて、きっかけになった人まで汚してしまうの。この場合は母さんのことね。私は自分が汚れるのは構わない。だけど母さんは汚したくない』
『何ワケわからないこと言って……おまえだってキレてただろ!? あの時のおまえはあんなに……!!』
思い出すのは、無惨なアリアドネの亡骸を前にしたシェルビーの姿。あの時の光景がエイダの脳裏に焼き付いて離れない。空気を揺らすほどの怒りを感じたからこそシェルビーも復讐を望んでいると思ったのに、今の彼女はそれを否定しているのだ。一体どういうことなのか、エイダには微塵も理解ができなかった。
『怒りと復讐は別物だよ』
諭すような言い方だった。シェルビーはそれだけ言うと、興味を失ったとばかりにエイダから顔を背けた。取り残されたエイダは続きを待ったが、やはりシェルビーが他に何かを言う素振りはない。
『なんだよそれ……なんで……なんでだよ!!』
怒りが、不満が、劣等感が。
胸に溢れたそれらの感情のままにエイダはシェルビーに背を向けて走り出した。逃げるようだと感じたのを誤魔化すように、復讐のために足を動かし続け――
「…………」
――そして今、死にかけている。
自分の直面している現実に悔しさが募る。
シェルビーの言っていたことはまだ分からない。あれだけ強い感情を持っていて、どうしてそれを放置してしまうのか。今は無理でもいつかと決意するものではないのか。
それなのに何事もなかったかのように振る舞うのが許せなかった。自分の母親のことなのに、素知らぬ顔をしているのが腹立たしくてたまらなかった。
『エイダは母さんがすきなの? うちによくくるのって、母さんにあいたいからでしょ?』
あの時は否定したが、図星だとはエイダも気付いていた。母親がいたらこんな感じなのだろうかと、顔すら知らない自分の母親と重ねていた。姉がいたらこんなふうに褒めてくれるのかと、家族がいたら毎日一緒に過ごすのかと。日々安全な寝床を探して一人で生きている自分にはないものを、アリアドネとの関わりに求めていた。
だからシェルビーが嫌いだった。アリアドネの娘の彼女は、当たり前のようにアリアドネと毎日を過ごしている。自分が時々しか得られないあのぬくもりを、シェルビーはいつでも好きな時に味わっているのだ。
アリアドネと同じように笑って、アリアドネと同じように周りに溶け込んで。その上あんな大きな力を見せつけられた。自分の持たないものすべてを持っているシェルビーが羨ましかった。娘である彼女が望まないのにここまで勇んできたのは、仇を取れればアリアドネが自分のものになる気がしたからだ。彼女の無念を晴らしたのは自分だと、声高に言いたかったからだ。
その結果がこれだった。歯牙にも掛けられず、遊ばれて。自分のせいでアリアドネがまた蔑まれてしまった。その死によって完結していた彼女の名誉を傷つける行為が、自分の勢い任せの行動で再び繰り返されてしまったのだ。
これではシェルビーの言うとおりではないか――悔しさの中に、苦々しい感情が混ざる。シェルビーは復讐を遂げた後の話をしていたから、この状況は違うのだろう。しかし復讐によってアリアドネが汚されてしまったという意味では同じだ。自分の正しさを証明するはずが事態を悪くしただけだった。それも、娘であるシェルビーが避けた方向へと。
自分の愚かさが憎い。弱さが憎い。アリアドネを傷つけた者達も、それを良しとするこの土地の人間も。
悪いのはあの男達の方なのに、罪を悔い改めさせるどころか罪悪感を抱かせることすらできなかった。もし彼らを痛めつけて自分が優位に立つことができれば、きっと違う結末があったはずなのに。
「――そう、力なき者の言葉に何の価値もない」
聞こえなくなっていたエイダの耳に、知らない声が突如響いた。動かない身体の中に囚われていたエイダの意識が浮上する。
しかしやはり、身体は動かない。声の出処を探したいのに、死にかけた目では何も見えない。「ああ、見えないのか」同じ声がつまらなそうに言った瞬間、エイダの目に光が飛び込んできた。
「ッ……なんだ……?」
声が出た。口が動いた。だがエイダがその事実に驚く間もなく、今度は強すぎる光がエイダの瞳を抉る。
「火……?」
そこにあったのは炎の塊だった。レッドブロックの煉瓦の赤さが霞むほどに、強烈で暴力的な赤い光。いくら目を細めても、とてもじゃないが直視していられない。
まさか火の精霊か――エイダがそんなことを思った時、「あんな連中と間違えるな」と炎が嘲笑った。
「お前もその魔力なら見たことがあるんだろう? だったら違うと分かるはずだ。俺は炎――獣が畏れ、木々を焼き尽くす力の塊! ただそこらへんを漂う精霊どもと同じにされちゃあ困る!」
高らかに炎が吠える。その勢いに押され、エイダが「炎……」とオウム返しに呟けば、炎は満足そうに「ああ、そうだ」と笑った。
「だが人間なんぞが使う小火と同じにしてくれるなよ? 人はろうそく程度の火を使えることで飼い慣らしたと勘違いしているが、少し扱いを間違えば制御を失い手に負えなくなる。本来の炎というのは街を焼き更地に戻し、そこに住まう人間共に絶望を与える力だ! お前みたいに非力な子供でも簡単に大人を殺せる素晴らしい力だ! 一人でも二人でも、街ごとでも、お前に意見する奴らは全員ねじ伏せられるんだよ!!」
まるで直前のエイダの思考を読んだかのように炎が語る。だがエイダにはそのことに気付く余裕はなかった。目は見えるようになったとはいえ、傷はそのまま。むしろ意識がはっきりとしたせいでこれまでよりも酷い痛みに襲われている。悲鳴を上げないのは、上げられないからだ。そんなにたくさんの空気を吸う力も、顔を苦痛に歪める力さえももう残っていない。
じくじくと、もしくはびりびりと。なんと表現したらいいか分からないほどの乱暴な痛みが、エイダの思考を妨げる。
だから、聞き入っていた。惹かれていた。炎という、自分にも使える力にはそんなにも素晴らしい可能性があるのかと。体力で敵わなくとも、魔法を適切に使えていればあの男達を蹂躙することができていたのかと。
魅力は後悔を呼び、後悔は渇望に変わる。次こそはうまく使ってみせると、自身の状況を忘れるほどにエイダの身体を熱くしていく。
「まだまだ足りないなぁ……」
にやりと、炎が笑った気配がした。顔などないはずなのに、先程からしっかりと感じ取れる。その感覚にエイダが戸惑っていると、炎の塊はうねうねと動き始めた。
不気味な動きをしながら、だんだんと小さくなっていく。炎では通常有り得ない動きだ。そしてその大きさがエイダとそう変わらなくなった頃、炎の中から少女が現れた。
「エイダは私になりたかったんでしょう?」
そこにいたのはシェルビーだった。いや、シェルビーの姿をした炎だ。しかしあまりにもそっくりで、エイダにそれが炎だということを忘れさせる。
「おまえ……なんで……」
そのことを――エイダが言い切る前にシェルビーはにっこりと微笑んで、「分かるに決まってるじゃない」と可愛らしい声でエイダの疑問に答え始めた。
「いっつも羨ましそうに私のこと見てるんだもの。私は母さんの子で、母さんの愛情を当たり前に受け取れる。子が親の仇を討つのは当然だから、あなたはここに来た。そうやって私に成り代わろうとしたんでしょ?」
そこまで言って、シェルビーが目を細める。
「でも残念、失敗しちゃったね。全部あなたが弱いせい。あなたが余計なことをするから、母さんは余計に汚された」
「ッ……」
エイダの唇が震える。瞳に映るのはシェルビーのはずなのに、その向こうでアリアドネが自分を責めているかのような気さえしてくる。
そんなエイダを見て、シェルビーは満足そうに口角を上げた。
「ねえ、私の秘密を教えてあげようか」
内緒話をするように、小声で、ゆっくりと。それは冷静さを失ったエイダに、相手の言葉を理解することを助けた。罪悪感が一瞬だけ弱まって、「ひみつ……?」と取り憑かれたかのように続きを待つ。
「私ね、やろうと思えばいつでもあいつらを殺せるの。それだけの力を持ってるの。あなたなら分かるでしょう?」
それはシェルビーの言葉なのか、それとも炎の言葉なのか。エイダにはどちらか分からなかった。考えることすらできなかった。「でもそれならどうして……」、微かな不満を口にすれば、シェルビーがうんと冷たい表情になった。
「エイダが弱いから」
「は……」
冷めた目のまま、シェルビーが続ける。
「あなたを諦めさせたかったの。だって弱いから絶対こうなるって思ったんだもん。その尻拭いをするのは誰? きっと私でしょう。だからあいつらに手を出すのはやめさせたかったのに、エイダったらちっとも理解してくれなかった。それどころかその場の勢いだけで何も考えずに向かっていって……その結果がこれよ。あなたみたいに愚かな弱者じゃ私にはなれない。母さんの子にも、私と対等にも」
鋭利な言葉がエイダの胸の中を引き裂く。身体の傷よりも苦しい痛みが、エイダの呼吸を妨げる。
「羨望じゃ足りないの。もっと欲張らなきゃ。母さんの仇を討ちたい? その後は? それだけしか望めないようなあなたじゃあ、何年かかったってあいつらを殺せない。私もあなたの存在を認めない」
エイダの身体が冷たくなった。図星と否定が、エイダ自身にすら自らの存在を拒ませようとする。こんな自分には生きる価値などないという考えが、エイダの意識を奈落に引きずり込もうとする。
「ああ、諦めちゃうんだ? やっぱりあなたは弱いのね。力を望むことすらしないまま、どうせ自分には無理だって決めつけちゃうんだ」
「だっ、て……俺じゃ……」
「そうだね、あなたじゃ誰が相手でも自分の意見を通せない。だってあなたは根っからの弱者だから」
「ッ!!」
その瞬間、エイダは折れた腕でシェルビーの足を掴んでいた。全身が燃えるように熱い。今までの冷たさが嘘のように怒りで血が沸騰している。
「俺を弱者って言うな!!」
悔しかった。腹立たしかった。相手からしてみればそれは事実なのに、何度もそう言われることが嫌でたまらなかった。
強すぎる怒りのせいで目からは涙が溢れる。相手の足を掴む腕が痛い。だがそれらが気にならないくらいの激情がエイダの中に渦巻いて、握り締める力を更に強くする。
そんなエイダを見て、悪魔はほくそ笑んだ。
「でも間違いなく弱者じゃない。今のままじゃどれだけ頑張ったってあいつらには到底及ばない。そもそもこのまま死ぬしかない。それなのにあなたは弱者じゃないと言えるの?」
その嘲笑にエイダの眉間に力が入った。シェルビーから目を背け、地面を見つめる。血まみれの赤い煉瓦から反射した光が、エイダの顔を赤く染める。
震える身体は彼の弱さを表しているかのようで、悪魔は白けたように半眼になった。その時だった。
「ならおまえのその炎を俺によこせ」
威嚇するような声が悪魔に目を開かせる。シェルビーの青い瞳にはいつの間にか顔を上げたエイダの姿。そして、彼の幼い顔には激情が宿っていた。
「もう死ぬんだとしても! おまえの炎を使ってあいつらを焼き尽くしてやる! 俺を弱者だと嗤ってアリアドネを殺したあいつらを、泣いて命乞いするまで痛めつけてやる!!」
破壊欲求か、征服欲か。鎖から逃れようとする猛獣のように獰猛な顔をするエイダに、悪魔がにぃと笑みを浮かべた。
「それがあなたの望み?」
問う。死の間際に求めるのは何か。その生命よりも優先するのは何か。
――この人間には、どんな利用価値があるのか。
「ああ……力で思い知らせてやる。俺の話を聞かない奴らに、俺を弱者だと嗤う奴らに! シェルビーにだって俺のことを認めさせてやる……!!」
食らいつくように答えるエイダに、炎の悪魔は満足そうにシェルビーの顔で笑った。
それは羨望というには攻撃的で、怒りというには嫉妬臭く。己の主張を通すために力を欲する幼さが、死にかけの少年に生き残る道を与えた。
§ § §
あの後は簡単だったな、とエイダは子供の頃を思い返した。
痛くて起き上がれなかったほどの怪我が一瞬で癒えて、どこにいるか分からないはずの者達の居場所が自然と分かった。それが気配だとか匂いだとかいうものだと気付いたのは後になってからだった。
感じ取ったその気配を辿ってあの三人組の元を再び訪れた時、自分を見た彼らの顔は滑稽としか思えなかった。まるで化け物でも見たような顔だ。驚愕し、怯え、命乞いをする――それが弱い子供に対してではなく、得体の知れない炎の塊にしたものだと分かったのは、相手をじわじわと嬲り殺している最中。炎に逃げ場を奪われ、肌をゆっくりと焼かれながら悲鳴を上げる男達の目に映った自分が、人間の子供ではなく炎の化け物だと気付いたからだ。
強烈な光を放つ真っ赤な炎の中に、怒りと殺意と、そして悦びを湛えた緑色の目玉が二つ。敵の悲鳴に歓喜し、もっと苦しめてやろうとトドメを刺すことをしないその化け物が、自分の本性だと知った。
嬉しかった。色は違えど、あの時のシェルビーと同じだと思えたから。あの声を聞くまでは。
『……エイダ?』
焼け焦げたその場所に、少女が一人。そこに驚愕や怯えはなかった。あったのは悲痛。途端に後ろめたさが胸を襲った。
そして気付いた。彼女はあれを望んでいない。美しいほど禍々しいあの感情は、きっと彼女が望んで得たものではないのだ。
――それが今、あんなにも濃くなった。
言い知れない感情がエイダの胸中を満たす。憧憬の念は未だにあるが、しかし彼女の穢れが濃くなる理由を考えると喜ぶことはできない。
むしろ不快だった。吐き気を催すほどに、無理矢理にでも彼女をそこから攫いたいほどに。アリアドネの名誉を汚された時と同じ感情が、エイダに暗黙の了解を破らせる。
「――来たか」
声を向けた先は暗闇。シェルビーと過ごしたレッドブロックのあの広場に落ちた影の中、夜闇よりも黒い何かが姿を現す。
その黒く禍々しい存在を、エイダは怒りに満ちた目で睨みつけた。




