A-2 戻らない日々
『エイダは働き者ね。あなたのお陰で欲しいものは何でも手に入る』
嬉しそうに目を細め、灰色の髪の女がエイダを見つめる。エイダの身長は女の腰ほどしかない。真っ直ぐに自分を褒めてくる言葉が気恥ずかしいのか、彼はその幼い顔を不機嫌そうにうんと歪めた。
『何でもって言うけど、アリアドネいっつもパンしか欲しがらねェじゃん。他にも言ってくれれば用意できるのに』
『あら、たまに野菜も頼んでるじゃない』
『それも食いモンだろ』
『食が一番大事なの。あ、そうだ。ついでにちょっと竈に火入れてくれる? マッチちょうど切らしちゃってて』
『人をひだね扱いするなよ……』
『だって私、魔法使えないんだもん』
そう言って無邪気に笑う女――アリアドネの方がエイダよりも子供に見えた。エイダが呆れたように溜息を吐いているのもあるだろう。
まるで同年代の子供と話しているような錯覚を抱きながら、エイダが示された竈に火を付ける。初歩的な火炎魔法だ。この属性に適正を持つ者ならば最初に習得し、そして一生重宝する魔法。火の付いた竈の中を見て大袈裟に手を叩いてみせるアリアドネに照れ臭さを感じながら、エイダは『他に用がないならもう行くぞ』と大儀そうに言って、その場を後にした。
『――〝はたらきもの〟ねぇ……』
荒屋を出て数歩、エイダに小さな少女が声をかけた。珍しい金髪を持った彼女の顔立ちはアリアドネによく似ていた。
『なんだよ、シェルビー』
今度は本心で不機嫌な声を出し、エイダが少女を、幼いシェルビーを睨む。だがシェルビーは動じない。自分よりも二つ年上の少年の怒りに気付かなかったかのように、きょとんとした顔で『エイダは母さんがすきなの?』と首を傾げた。
『うちによくくるのって、母さんにあいたいからでしょ?』
『ッ、はァ!? ちっげェよ! へんなこと言うな!』
『じゃあわたしがすきなの?』
最初の問いで真っ赤になっていたエイダの顔は、その言葉を聞いた瞬間にすんと白けたものに戻った。
『バカ言え。おまえみたいなガキ好きになるワケねェだろ』
悪意のある声だった。シェルビーのことを嫌っていると分かる声だ。しかしやはり、シェルビーは動じない。それどころか子供らしからぬ見下すような顔をして、『母さんもそうだとおもう』とエイダを嘲笑ってみせた。
『……うるせェ、クソガキ』
馬鹿にされていることはエイダにも分かっていた。だが、それ以外に何も思いつかない。否定する言葉が浮かばないのは、否定できない事実だと気付いているからだ。
エイダはその現実から目を背けるようにふいと顔を前へと戻すと、足早に赤い煉瓦に囲まれた路地へと入っていった。
§ § §
「――…………」
過ぎ去った、もう二度と戻らない日々。一月にも満たないほど最近のことなのに、もう何年も前のように感じてしまう。
そんな出来事を思い出しながら、幼いエイダはある場所にやって来ていた。アリアドネの死から数日、既に彼女を手に掛けた者が誰かは調べがついている。たった九歳の子供が相手では大人は情報を伏せたりしない。他の土地では教育上の理由で隠すことはあるだろうが、ここはレッドブロック。子供にそんな気遣いをする者はいないし、子供が何か重大な情報を知ったとしても大したことにはならないと考えている者が大半だからだ。
ここでは強い者が生き、弱い者が死ぬ。全ての行動は自己責任。何か行動を起こして身を滅ぼしたなら、それが子供であっても仕方がないとするのがこの土地の人間だ。
だから誰も、アリアドネを殺した人間を捕らえようとしない。彼女がレッドブロック生まれだったら話はもう少し違っていただろう。被害者と犯人の出自次第では、レッドブロックの住民は被害者を痛めつけた人間を決して許さない。
しかし、今回は違った。犯人は同胞だった。そして、被害者であるアリアドネは余所者。生来の人当たりの良さで敵こそ少なかったが、住民が彼女を受け入れていたとは言い難い。赤ん坊の時にレッドブロックへやってきたシェルビーは子供達を通じて受け入れられつつあったが、五年間ここで暮らしただけの大人はやはりまだ余所者なのだ。
「――だから俺がおまえらを殺す」
子供とは思えないほど重い声でエイダが言う。彼が睨みつける先には三人の男達がいた。エイダが自力で調べた、アリアドネを殺した者達だ。
彼らはエイダの存在に気が付くと、おかしそうに笑い出した。
「お前みたいなガキが? 無理だろ。痛い目見たくなけりゃさっさと帰んな」
そこに罪悪感は微塵もなかった。エイダが自分達の殺した女の身内かもしれないとは考えていないのか、それとも考えた上で何とも思わないのか。だが今は、そんなことを気にする者はいなかった。
「アリアドネって、あの灰色の髪した女だろ?」
別の男が首を捻る。記憶を辿るように口元に手を当てて、「いい女だったなぁ、あれは」といやらしく笑う。
「綺麗な顔でずっとこっち睨んでくるんだぜ? どれだけ痛めつけても泣き言一つ言わねぇ……けど殴った瞬間に思い切り締め付けてくるのは可愛かったな。感じてんじゃねぇかって」
「馬鹿か、お前。ありゃ痛みで強張ってただけだろ。ま、お前が殴りまくったお陰で途中から大人しくて楽だったが」
また別の男が相槌を打つ。すると最初の男が何かに気付いたような顔をして、自分達を睨みつけてくるエイダに目をやった。
「お前まさか、あの女狙ってたのか? だったら混ぜてやりゃよかったな」
男が言うと、残りの二人が下品な笑い声を上げた。心底おかしいと言いたげに時折声を裏返し、目に涙を溜めながら「酷なこと言うなよ」と仲間に笑いかけている。
「こんなガキじゃまだ挿れらんねぇだろ。勃ちもしないんじゃねぇの?」
「けど乳吸うくらいはできるだろ。なあ? お前もあの女の体にしゃぶりつきたかったよなぁ?」
下卑た笑い声がエイダの鼓膜を撫で付ける。
「ッ、おまえら……!」
男達が何を言っているか、子供のエイダにはまだはっきりと理解することはできなかった。だがそれでもアリアドネを蔑んでいることだけは分かる。彼女の尊厳を著しく踏みにじることを言っているということだけは、嫌でも理解できてしまう。
こいつらはやはり、生かしておくべきじゃない――明確な殺意がエイダを突き動かす。背中に忍ばせていたナイフを手に持ち、一気に男達の方へ。
……だが、その刃は相手に届かなかった。
「はっ、殺る気だけは一丁前だな!」
床に転がったエイダに男が言う。三人のうちの誰が言ったのか、エイダには分からない。感じるのは頬への強い痛みと、口中の血の味。地面に突っ伏しているせいで、息をするたびに土埃が舞い上がる。
一撃だった。初撃を避けられ、ならばもう一度とナイフを振りかぶろうとした直前で、エイダの身体は宙を舞ったのだ。
当然だ。エイダはまだ九歳の子供で、相手は大の男三人。しかも荒くれ者の多いこの土地で生き抜いてきた者達だ。いくら凶器を持ったとて、子供同士の喧嘩しか経験したことのないエイダに敵うはずがない。
それでもエイダは立ち上がった。変わらぬ殺意を瞳に宿し、再びナイフを手にして男達の方へ。
しかし、結果は変わらない。男達はゲラゲラと笑い声を上げ、三度立ち上がろうとしているエイダにからかうようなねぎらいの言葉をかける。
何度も、何度も。立ち上がるたびにエイダの身体はおもちゃのように地面に転がされた。身体中に擦り傷を作り、腕は折れ、足にも力が入らない。
そんなエイダに男達はいつまで経っても致命傷を与えなかった。次はどこを狙うと宣言して、本当にそこを殴れるかどうかを賭けて遊んでいたからだ。
「――……あーあ、動かなくなっちまった」
男の一人がそう落胆した声で言ったのは、最初に地面に流した血が完全に固まった後だった。
「ま、もった方じゃねぇの? 両足折れてもこっち這ってきたじゃねぇか」
「案外折れてないんじゃね? ……あ、折れてる。うーわ、グロ。変な方向いてるわ」
「お前がやったんだろ」
楽しそうに笑い合いながら男達は去っていった。エイダの生死を確認することもなく、飽きたと言わんばかりに。
「…………」
だがエイダにはもう、周りの状況を把握することはできなかった。




