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ファム・ファタールの断罪  作者: 丹㑚仁戻
幕間 聖なる母娘と羨望の業火
80/111

A-1 包み込む黒

 赤い煉瓦の地面に、一人の女が横たわっていた。女の灰色の髪は血と埃で汚れ、その髪のかかった美しい顔にはいくつもの真新しい痣がある。

 そんな女の傍らに、幼い少女が力なく座っていた。こちらに向いた背中を覆う金糸の髪は項垂れるせいで地面に付いて、そこに広がっていた赤い血をゆるやかに吸い上げていく。少女の手は女のはだけたスカートへと伸びて、露わになっていた太腿をそっと隠した。


「……ごめんなさい、母さん」


 少女が、小さく呟く。と同時に、強い圧迫感がその場を襲った。

 まるで大の男に首を絞められた時のように強く、重く。しかしそれを放つのは小さな子供。邪悪なその空気は実体など持たないはずなのに、周囲の壁を形作る煉瓦がビリビリと震える。


 あまりにおどろおどろしい力の放出に、少女を見ていた少年は全身を粟立たせた。悔しさに握り締めていたはずの手が震える。呼吸することすら許されない。彼の萌葱色の瞳は少女へと縫い付けられ、凶暴な空気の中心を見続ける。


 そこには、少女の他には何もない。――そのはずだった。


「っ……」


 一瞬だけ見えた真っ黒な何かは現実か、幻覚か。少年がその答えを知ったのは、それからそう遠くない未来のことだった。



 § § §



 ルイーズにある教会区域のすぐ近くで、エイダは顰めっ面をしていた。教会区域は上層から下層まで跨るように上下に長く伸びていて、ここは下層寄りの中層。つまりは普段出入りする場所とそう変わらない。

 しかしながら、教会区域特有の神聖な空気は外にいても伝わってくる。これはルイーズの教会が名ばかりではなくきちんとその機能を果たしているからだったが、この空気がエイダは嫌で仕方がなかった。


 たとえるなら、悪臭に近い。それも吸い込んだだけで気分を害すような刺激臭だ。実際の臭いは他の場所と変わらないが、喉を抉られるような、胃を引っ張り出されるようなこの感覚は、とんでもない悪臭にさらされた時の身体の反応と同じ。それは教会区域に近付けば近付くほど強くなって、エイダにその先へと進むことを躊躇わせる。

 そんな場所に何故来たのか。魔女になって以来ずっと避け続けてきたのに、何故今になって足を運ぼうとしているのか。


 答えは、焦燥。十年近く緩やかな変化しかなかった()()が、近頃一気に変わっていっているように思えるから。だから自分はその理由を知らなければならないと、エイダは今にも踵を返しそうな足を叱咤して教会区域と向き合っていた。


「――お前もこんな場所に来られるのか?」


 背後から聞こえた声に、エイダが驚くことはなかった。近付いてくる気配には気付いていたし、その正体にも心当たりがあったからだ。


「それを言うならそっちの方だろ。レッドブロックだの下町だの、なんで有り得ない場所にばっか出没すんだよ」


 立ち止まり、振り返りながら答える。その視線の先には黒髪の男性がいた。キーランだ。いつもどおり庶民らしい格好にマントといった出で立ちだが、本来の彼の立場を考えるとこれも()()()()()

 エイダに指摘されたキーランは肩を竦めると、「伝聞より確かだからな」と言ってその隣に並んだ。


「……怪我でもしているのか? 随分顔色が悪そうだが」


 キーランが怪訝そうに眉を顰める。エイダは「うるせェ」と力なく返すと、「お前もシェルビーに用なワケ?」と首を傾げた。


「いや、ただ通りかかっただけだ。そうしたら見知った姿を見つけたからな」

「こんなとこ通りかかるなよ。つーか何、俺が何かすんじゃねェかって不安なの?」

「今のところは心配していない。魔女に興味があっただけだ」


 何となしといった様子でキーランは言ったが、それを聞いたエイダはむっと眉間に力を入れた。


「まどろっこしいのやめてくんねェ? 俺あいつと違って腹の探り合いとか得意じゃねェのよ」


 その言葉に、キーランがエイダに視線を向ける。僅かに口端を上げて、「なら単刀直入に聞こうか」と口を開いた。


「噂で聞く魔女の話はどこまで本当なんだ?」

「それ単刀直入って言えるか? そうやって広い聞き方すんのはずりィだろ」

「残念、失言を期待したんだがな」

「どこぞの誰かがお前くらい腹黒いからな。はっきりした質問以外は答えたくねェんだよ」

「だろうな。しかしはっきりとした質問か……」


 キーランが考えるように口元に手を当てる。それを白けた目で見ていたエイダが「そういう演技もいらねェぞ」と言うと、キーランは小さく笑って、「そうだな……」とエイダの目を見つめた。


「――本当に魔女は、神聖魔法で殺せるのか?」


 空気がひりつく。キーランの顔には笑みが浮かんだままだが、その眼差しは真剣なものだった。対してエイダは表情を変えていなかったが、彼の瞳に熱はない。「シェルビーを殺すつもりか」、エイダが低い声で尋ねると、キーランは「そう警戒するな」と肩を竦めた。


「まだそのつもりはない。それに、下手にそんなことを考えれば俺が殺されそうだからな」

「分かってるじゃねェか」


 エイダが嘲るように笑う。瞳の熱を元に戻し、ゆっくりと瞬きをしながらそれを教会区域の方へと向けた。


「試したことねェけど、まァ死ぬんじゃねェの? 聖域とやらに近付くだけでこれだけ気分が悪いんだからな。少なくとも無傷じゃ済まねェよ。現にシェルビーは俺に神聖魔法を避けさせる」


 そう言いつつも、エイダは足を一歩前へと踏み出していた。教会区域の方角だ。キーランはそんなエイダを怪訝な顔で見たが、そこには触れずに「やはりそうなのか」と彼の言葉に相槌を打って、エイダに続いて歩き出した。


「しかしそれなら彼女はどうなっているんだ? 平気な顔をして教会で過ごしているだろう」

「慣れだと。気合いの入り方が違うんじゃねェの? 俺は特にあそこに入りたい理由はねェけど、あいつにとっては目的を果たすためのものだろ」


 二人が歩を進めるごとに、前方に見える建物が大きくなっていく。他と教会区域の境を明確にするための背の低い塀がはっきりと視界に入る。


「なら今は?」


 キーランがエイダを見ながら問いかければ、エイダは彼を一瞥もしないまま「お前には関係ねェだろ」と前方を睨みつけた。


 少し前まで遠目に見えていた教会の建物が、今ではもうすぐそこにある。と言っても間には塀があるし、できればそれを越えずに済ませたいとエイダは考えていた。

 あの塀には神の言葉が刻まれている。というより、教会区域の中にあるものには大抵神の言葉が刻まれているのだ。それが本気で魔を寄せ付けないためのものなのか、それともただの〝演出〟なのかはエイダは知らなかったが、子供の頃に見たそれらの記憶を辿ると気分が悪くなるのは確かだ。

 これは本当に魔女は神の言葉を唱えられないのかもしれない――昔ながらの魔女の判別法を思い出したが、いや、と否定した。もしそれが本当ならば、シェルビーは聖女なんてやっていられないだろう。だからこれもきっと体調に変調をきたすだけで、命を奪うほどのものではないのだ。それはエイダの気持ちを少しだけ楽にしたが、だからと言って塀の向こう側に行きたいと思えるほどでもなかった。


 けれど、このまま帰ってもいけない。ここにはシェルビーの様子を見に来たのだ。彼女が自分の元に来るのを待たなかったのは、不意打ちでないと意味がないと思ったから。魂の匂いを感じ取れる自分には見せない何かを確認しなければならない――そんな焦燥が、エイダをここまで運んできた。

 事前に探った位置から考えて、このあたりで探せばシェルビーを見つけることができるだろう。まだ少し離れているようだが、こちらも相手に気付かれない位置を探さなければならないためちょうど良い。


 そんなことを考えながらエイダが歩いていると、キーランが「関係あるかもしれない」と言う声が聞こえてきた。


「あ?」


 聞き返してから、先ほどの話の続きだと思い至る。何故教会区域になんて来たのかと問われて、キーランには関係ないと答えたのだ。


「なんで関係あるんだよ」


 それは問いではなく、相手の疑問を遮るための言葉だった。しかしキーランは動じない。「ないとは言い切れないだろう?」と笑って、未だ前方を見たままのエイダに視線を向けた。


「俺はあの魔女と取引しているんだ。お前が彼女の仲間なら、その行動がいずれ俺に関わってくることもあるかもしれない」

「ねェよ。そもそもお前じゃ分からないことだ」

「彼女の様子に気になることでも?」

「お前……」


 エイダが足を止める。探るようにキーランを見つめれば、その目を向けられたキーランは「それくらいしかないだろう」と溜息を吐いた。


「まさか隠せているとでも? お前が日常的に教会区域に行くならできたかもな。だがその様子じゃあ、滅多に来ないんだろう? それなのに体調が悪くなるような場所にわざわざ自分から近付くのは、彼女を呼び寄せられない理由があるからだ。魔力だって普段よりだいぶおとなしい。となると、忍んでいるとしか考えられない。シェルビー嬢には知られずに、彼女の近くに行きたいということだ」

「目的があいつだとも限らないだろ」

「さっき自分で聞いてきたじゃないか。『お前()彼女に用があるのか』と」

「…………」


 最初の会話を思い出して、エイダは機嫌悪そうに顔を背けて歩みを再開した。だが、すぐに止まる。教会区域からは死角になる位置だ。

 しかし彼と一緒に歩いていたキーランはそれを知らない。歩き始めたはずのエイダがもう止まっていることに気が付くと、キーランは「来ないのか?」と首を傾げた。


「これ以上はしんどい」


 シェルビーに見つからないためには、これ以上近付くのは難しいだろう。エイダはそう込めて言ったが、キーランは体調の方が原因だと思ったらしい。「見える位置まで連れてきてやろうか」と問うてきた彼に、エイダは「必要ない」と首を振った。


「ここで待ってりゃいい。近付いてきてる」

「よく分かるな。この時間なら……宿舎に帰る時間か。今日は下層の方にいたのかもな」


 時計を見ながらキーランが呟く。エイダは聖女の行動についてよく知らなかったが、キーランが言うならそうなのだろう、と納得した。

 シェルビーの気配は確かに下層の方から近付いてきている。急いでいるような速度ではないから、キーランの言うとおり帰るところなのだろう。


 だが、何かがおかしい。


 近付くごとにそれは強く感じ取れるようになっていって、シェルビーが視界に入る直前でエイダは全身の毛が逆立つのを感じた。


「――……なんだよあれ」


 一瞬、そこだけ明かりがなくなったのかと思った。

 しかし違う。あれは穢れだ。清浄な教会区域の中を、あまりに濃すぎる穢れが移動していたものだから、まるで闇がやってきたかのように感じてしまったのだ。


 その穢れの中心には、見慣れた姿。聖女の格好でにこやかに笑っているのがまた不釣り合いだ。見た目は聖女そのものなのに、その身に纏う穢れは魔女の、悪魔のもの。

 しかも、微かに普段はしないはずの匂いもする。こんなに離れていても感じ取れるのは、それが実際の匂いではないから。脳に直接叩き込まれるようなこの感覚は魔力。それもシェルビーのものではない。禍々しく、それでいて誘うようなこの魔力の匂いは……サリのものだ。


「ッ……」


 これだけ離れていても分かるほどに、サリの魔力の匂いがシェルビーにこびりついている。彼女の穢れの濃さも相俟って、エイダにはシェルビーの身に起きたことが考えるよりも先に分かってしまった。


「何か変なことでも?」


 黙り込んだエイダに、キーランが不思議そうに問いかける。そんなキーランをエイダは信じられないと言わんばかりの目で見たが、すぐに彼には感じ取れないのだと気が付いた。魂の穢れも、サリの残り香も、あれだけ強く発しているのに普通の人間には感知することができない――それが、エイダが漠然と感じていた不快感を逆撫でた。


「おい、どこへ――」

「帰る。用は済んだ」


 勢い良く踵を返し、乱暴な足取りでその場から離れる。湧き上がるのは怒り。シェルビーの身に起こったこと、そして、()()()()()こと。

 それらがエイダの頭を熱くする。今にも怒りのまま周りを焼き尽くしそうになる自分をどうにか抑えながら、エイダはレッドブロックへと帰っていった。

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