【Ep9 聖なる魔女と堕ちゆく少女】9-3 愚かな魔女
そこには死臭が満ちていた。森の中だというのに音はほとんどない。聞こえるのは私の息遣いと、死肉を目当てに飛び回る蝿の羽音だけ。
不快でしかないはずなのに、決して長居したい場所ではないはずなのに。私の全身を巡る黒い感情が、私から〝いつもの感覚〟を奪う。
『――シェルビーは何がシタイ?』
食われたばかりの死体を全く気にかけることなく、シンが場違いなほどの明るい声で私に尋ねる。
満面の笑みからは愉悦が溢れ、どこか禍々しさすら漂わせていた。普通の子供では有り得ない表情が、私にあらゆる実感を与える。
ああ、私はこれから本当の意味で魔女になるのだ――そんな予感が胸を覆い尽くす。
魔女のことは忌避していた。シンと契約して魔女になってからも、無意識のうちに人間らしく暮らそうとしていた。
心を麻痺させたままだったのは、押し込めたこの感情を出したらいけないと思っていたからだ。出してしまったら、二度と元には戻れない気がして。
でも、それももういらない。一度開いた蓋は閉じることはない。そこから解放された怒りが、憎しみが、血管の一本一本を通って私の体中に染み渡っていく。
『あいつらに苦しみを。絶望を。そのためならなんでもできる。だからシン、教えて――あなたには何ができる?』
口が自然に動く。するすると出てくる言葉は他者を虐げた彼らと変わらないものなのに、それを自分が発することに嫌悪すら感じない。
だって、先にやったのはあいつらだもの。
私を苦しめ、痛めつけ、殺そうとした相手に同じことをしようとして何が悪いの?
仕返しが怖かったらちゃんと死ぬところを見届けるべきだったのに、それを怠ったのは彼ら自身。つまりは自業自得、私が罪悪感を抱く必要なんてこれっぽっちもない。
『死を与エラレルよ。たくさん苦しませて、命を奪うことがデキル』
嬉しそうにシンが答える。これまでの頼りない悪魔はどこへ行ったのか、私の望みを叶えられると彼は言う。それを聞いて、『そう、よかった』と私の口も弧を描く。
だけど足りない。ちょっとやそっと苦しんで死ぬだけじゃ、この心は癒やされない。
『どんな苦しみが与えられる? 死んじゃったらそれで終わりでしょう? だからそれまでの間にたくさん苦しませたいの。うんざりするくらいの絶望を味わって欲しいの。例えば、そう……後悔に苛まれて私に助けを求めるように仕向けるとかね』
『助けチャウの?』
『まさか。その手をはたき落とすのよ』
助けが欲しいのに、助けを求めることが苦痛だと思う――そんな、私と同じ気持ちを味わわせたい。それくらいしないと私はきっと楽になれない。
『難しい。僕は魂を穢セルけど、どうやるかはソンナに考えられない。シェルビーが考えて、それを叶えるのはデキルけど』
うんと眉根を寄せて考え込むシンにはやはり複雑なことは分からないらしい。でも嫌ではない。もうそういうところは何度も見ているから、これが彼なのだと安堵してしてしまうくらいだ。
『分かった。じゃあ私が考えるから、シンはそれができるかどうか教えて?』
『うん、任セテ!』
楽しそうに笑うシンは本当にただの子供のよう。ローウェン様のこんな表情は見たことがなかったのに、その姿を使っているシンは惜しげもなく私に色んな表情を見せてくれる。
彼より、シンの方がいい――不意に生まれた親近感が私をまた一つ、暗い方へと進ませる。
『折角なら人間じゃできないことをしてみたいな。でも彼らが一番嫌なことってなんだろう……一番好きなことは分かるんだけど』
『好きなコトと嫌なコトは同じだよ。好きなコトがなくなるのミンナ嫌』
確かにそうだと納得して、私はシンが悪魔であることを思い出した。
勿論彼が悪魔であると忘れたことはない。だけどあまりに何もできないから、見た目どおりの少年と接している気になってしまっていたのだ。
だけど彼は間違いなく悪魔で、人間ではない。だから人を苦しませる方法を知っているし、その話をしている今、こんなにも嬉々とした表情を浮かべているのだ。
『そいつらが好キなのはなあに?』
ほら、この笑みは子供にできるものじゃない。だけど不気味さすら感じさせるその顔を見ても、私は微塵も恐れを感じなかった。
『勿論聖女様よ。優れた聖女様を妻に迎え入れることが、あの国の偉い人にとっては一番の自慢なの。本来聖女様にのみに向けられるような信仰や彼女達の持つ威光を、凡人である彼らも得ることができるも同然だからね。選民意識が高いから貴族であることでも十分だけど、聖女様と比べたら結局ただの人だもの』
『ふうん?』
『そうだ! 私って聖女になれないかな? 勿論見た目は変えて、聖女になって……聖女トリスアラナ様と取って代わるの。彼女より優れている聖女だと認められれば、もしかしたら私と同じように彼女を排除して、私を妻に迎え入れてくれるかもしれない。そこまでして手に入れた相手が実は自分が過去に貶めた相手だった――それって、凄く滑稽じゃない?』
ローウェン様が新しい妻を迎えるためには、周囲の貴族達の助力が不可欠。というよりも貴族達はローウェン様に媚を売るために進んで手を貸すだろう。そしてそれはきっと、私を排除した人達と同じ面子になるはずだ。
つまり彼の妻になることを目指すだけで自然と私を殺そうとした連中を引き摺り出せる。私は私の復讐すべき相手が簡単に分かるのだ。
我ながらなんていい考えだろうと思っていたら、シンが眉を曇らせているのが見えた。
『シン?』
『ゴメンね、シェルビー。聖女は無理』
『……そうなの?』
『うん。見た目は変えラレル。だけど聖女は神のモノ。神の加護は僕じゃ与えられナイ』
『神の加護……あれって、本物なの?』
聖女が神の加護を得た者だというのはこの国では常識だ。だけど今まで神の存在すら感じたことのない身としては、たとえ神を信仰していようと単なる比喩か何かかと思っていた。
『本物だよ。聖女の魂は神に守ラレテル』
『そう……』
相槌しか打てなかったのは、シンには私の望みが叶えられないと落胆したからではない。
神はいるのだ。そして、加護を与えるくらいには人間に影響を及ぼすことができる。
だけど助けて欲しいという私の願いは一度も神に届かなかった。物心付いた時から日々のお祈りを欠かしたこともなければ、教えに背く行為をしたことだってないのに。
そんな神を、私は信じていたの?
『シェルビーは、どうしても聖女にナリタイ?』
シンに問いかけられて、私ははっと意識を現実に戻した。
聖女になりたいか、だなんて。以前はただ興味がなかった。だけど今は聖女になんてなりたくない。信じさせるだけ信じさせておいて、何もしてくれない神の犬にだなんてなりたくない。
けれどそれしか彼らを苦しませる方法がないのなら、私はなんだってやってやる。
『……そうだね、他にあいつらに近付く方法が思いつかないから。特にローウェン様とは貴族ですらそうそう親しくなれないし』
ただ通り魔的に彼を襲うことはできなくもないだろう。だけどそれでは駄目だ。私がしたいのは彼を苦しませること。肉体的苦痛だけではなくて、精神的に追い詰めたいのだ。
だからそのためには彼が気を許す存在にならなければならないのだけど、聖女以外にすんなりと彼に近付けるものが思いつかない。
『聖女は現実的に無理なんだよね……あ! じゃあローウェン様の子供に乗り移るのは? まだいないけれど、いずれ子ができるでしょう? 罪のない子にまで手を出すのは少し気が引けるけど、あまりその子には影響に出ないようにすればまだ……』
『それはデキルけど、母親に触れられなくナルよ。母親は聖女なんデショ?』
『加護で護られるってこと?』
『うん。ダカラ乗り移ってる時に聖女に触れたらシェルビーは死ぬよ。母親と子供ハ深く繋がってるカラ』
『わあ……それは凄く厄介ね……』
聖女トリスアラナがよほど自分の子を避けていない限り、幼子と母親が触れ合わないなんてことは有り得ない。そして彼女は聖女だから、おそらく子供のことは心から愛し大切にするだろう。となると、そんなリスクの高い方法を取れるはずがない。
『僕じゃ力が足りナイね』
落ち込んだようにシンが言う。折角自分の力が使えると思ったのに、それでは駄目だと分かったのだから仕方がないだろう。
しかも今回はこれまでとは違って、私の要求が高すぎるから起こってしまったものだ。悲しそうな彼を見ていると少しだけ心苦しくなってくる。
『……気にしないで、私が魔女のことを知らなすぎるのよ。もっとできる範囲で何かないか考えてみるね』
『我慢しなくてイイヨ。欲望は大キイ方がいい』
『でも実現できないことなんでしょ? だったら――』
『デキルかもしれない』
『え?』
さっきまで落ち込んでいたシンは、今はもう明るい表情で私を見ていた。
『僕の主様に頼めばイイ』
『主……? それって、私じゃないの?』
『シェルビーは僕のだよ?』
そうだ、悪魔と魔女は対等ではない。魔女がそう思い込んでいるだけで、実際のところ魔女は悪魔の支配下。かつて愚かだと見下していた魔女と同じ思考を自分がしてしまっていることに気が付いて、私の口からは乾いた笑いが零れた。
『……主様っていう人なら、どうにかできるの?』
いたたまれなさを隠すようにシンに問う。すると彼はこてんと首を傾げて、『分からナイ』と答えた。
『でもデキルかもしれない。主様は凄いからナンデモできる』
それは矛盾していないかと思ったけれど、シンの言葉が足りないのはいつものことなので気にしないことにした。
『その人にお願いできるかもしれないのね?』
『シェルビーが認められればネ』
その意味はよく分からなかったけれど、可能性があるのならそれでいい。
もしその悪魔が神の加護をどうにかできると言うのなら、本当に大抵のことはどうにかなるはずだ。だったら今はまだ思いついていないもっと良い案が浮かんだとしても、〝できないかもしれない〟と考える必要はなくなるだろう。
なら、頼ってみてもいいのかもしれない。
『分かった。その人を喚んで、シン』
もしかしたら私は、シンを見ていたせいで悪魔のことを舐めていたのかもしれない。
力のある悪魔がどんなものなのかも考えないまま、私はその悪魔の手を借りることを選んだ。




