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ファム・ファタールの断罪  作者: 丹㑚仁戻
第三章 蝕む堕落は誰のもの
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【Ep9 聖なる魔女と堕ちゆく少女】9-2 凍った怒り

 あれほど身構えた魔女としての生活は、思っていたよりもずっと人間らしかった。


 まず最初に安全な場所を探して家を作った。まだ森の中だけど、()()()からできるだけ離れた平和な場所だ。ただ、家とは言っても木々の間を枝葉で囲っただけの簡素なもので、家と表現していいかどうかすらも怪しい。

 そこに決める前に何度も確認したのに、どこからか虫が現れるのは本当に苦痛だった。地面に直接座るのもそうだ。だけど葉の束よりかは虫が少ないからと心を無にして腰を下ろしたのに、固さと冷たさで結局枝葉を敷き詰めた。


 正直なところ、追放直前に過ごしていた牢の方がずっとマシだった。

 牢は不清潔だしネズミも出たけれど、一応ベッドもブランケットもあった。虫だって、時々どこからか入ってきたハエや蜘蛛くらいしかいなかった。

 だけどここは違う。無数の虫もそうだし、野生の獣という危険もある。食事だって待っていれば出てきた牢獄生活とは違い、自力で食べられるものを探さなければならない。

 こんな場所で落ち着けるわけがなかった。満足に木の実も見つけられないから常にお腹は空いていて、疲労と眠気がどんどん私の身体を蝕んでいった。


『魔女って、大したことないんだな……』


 家も食べ物も、既にシンには頼んでいた。だけど彼にはそんな力はないらしい。獣避けの火は起こしてもらえたけれど、私の言う家を彼は想像できないし、食べ物もよく分からないと言われた。悪魔であるシンが理解できないことは、彼の魔女である私にもできないのだそうだ。


 日がな一日、その場でじっとしていることが多かった。動く体力も、何かしようと考える気力もない。体力を回復する睡眠でさえも、環境の悪さ以上に夢見が悪すぎてろくに取れなかった。眠るたびに見る悪夢の中で、私は何度も何度も周りに裏切られ、獣に食い殺されるから。そんな夢を見ないために極力目を閉じないようにした。


 だけど体力の限界が来るとそれもなくなった。気絶したように眠ってしまうから夢すら見ないのだ。

 そうして目覚めると少しだけ体調と気分が良い。だからその時だけ私は多少活動的になって、食糧を集め、住環境を整えていった。


 そういう生活をしているうちに、だんだんと気分も落ち着いていった。

 この環境での生活に慣れたこともそうだし、枝葉だけだった家の壁や屋根は木を切り出して不格好ながらも家らしくなってきたからだ。神経をすり減らすものが一つ減れば、一つ心に余裕ができる。心に余裕ができれば、より活動的に動く。

 たくさん動いて、たくさん休んで。はからずも健康的な生活を送っているうちに、普通の睡眠でも悪夢にうなされることは減っていった。


『――シェルビーはツマラナイ』


 せっせと採ってきた木の実の処理をしていた私に、シンがつまらなそうな顔で言った。初めて会った時はたどたどしすぎて聞くのが難しかった言葉は、一緒に過ごしているうちに随分と上達してきた。


『どうして?』

『欲がナイ。何もナイ。だから暇』

『だって毎日生きるので精一杯だし……』


 そもそも私が叶えて欲しい願いをシンに叶える力がないのが悪い気もしたけれど、なんとなく言うのはやめておいた。

 生きるために不可欠なこと以外でシンに力を借りたのは、手を拘束していた枷を外してもらった時だけ。シンにもっと色々できたなら、願い事はたくさんあっただろう。居心地の良い家、ツギハギではない衣服、美味しい食事――生きることに直結した、シンプルな願い。だけどこの中でシンに理解できたのは火を起こすことと、清潔な水を作り出すことだけだった。


 家を作るために私が元々使えた風魔法で木を切って乾燥させれば、シンは何故それが必要なのか分からないと首を傾げた。この作業自体はできるらしかったけれど、私もできるので彼の力は借りていない。そしてその木材を組み立てるのも結局自力。

 そうして床や壁を少しずつ家らしくしていったところで、やっとシンは家というものを理解してくれた。だけど自分でできることを今更彼にお願いするのも変だから、やっぱり魔女の魔法は使っていない。


『シェルビーはナンデモ自分でヤッチャウ』

『だってシンができないって言うから……』

『僕が分カルコトを願ッテ』

『えぇ……そんな無茶な……』


 魔女というものは想像していたよりもずっと不便だった。なんでもできると思っていたのに、むしろ何もできない。

 物語に出てくる魔女のように人を呪うことならできるのかもしれない。だけどそんなことをしたところで、私の生活は改善されないから試そうという気にすらならなかった。


『シェルビーは何がシタイ?』

『したいこと……あんまりないかな。さっきも言ったけど、今は生きるので手一杯だから』


 朝起きて、前日に用意しておいた食事を摂る。その後は森の中で食べ物を探しつつ、家に使えそうな木を見繕う。

 あとはそれの繰り返し。食事を摂って、家を整えて、また食べ物を探す。一日の中ですら同じことしかしないのだから、毎日毎日同じことしかしないに決まっている。


 他のことをする余裕は、もしかしたらあるのかもしれない。

 だけど他のことを考えたくない。考えようとしてしまえばせっかく薄れてきた恐ろしい記憶が蘇ってきそうで、それを避けるためにも私は思考を放棄して同じ作業ばかりを繰り返していた。


『本当に何もナイの?』


 だからシンのこの問いは、正直あまりいい気はしなかった。問われれば考えてしまう。考えてしまえば、奥深くに押し込めた何かが引き摺り出されそうになる。


『ないよ。私に酷いことをした人達が不幸になればいいって思うけど、私にはそんな力はないし。あなたにもないでしょ?』


 シンを諦めさせるために、少しだけ奥底を覗く。まだ遠くにあるそれに安堵して、再びそこから目を逸らす。


『アッタら?』

『あったら……ちょっとくらいは仕返しするかもね。でもなんだかそういうのも考えたくないの』

『ヤッパリ欲がナイ』


 そうつまらなそうに口を尖らせるローウェン様(シン)を見ても、もう何も思わなくなっていた。最初の頃はあれだけ心をかき乱されたのに、今ではこの姿に記憶が刺激されることすらない。


 きっと、心が麻痺しているのだと思う。たくさん恐ろしい思いをした。絶望にも打ちひしがれた。短期間で一気に私を襲ったそれらは、私の中の何かを感じ取る部分を壊してしまったのだろう。

 でも、それでいいのかもしれない。誰かを恨むのは酷く疲れる。裏切られたと咽び泣いたところで、私の心がすり減るばかりで状況が改善することはなかった。


 だから、これでいい。何もないこの生活が、今の私にはちょうどいいのだ。



 § § §



 そうしてゆっくりと過ごしているうちに、季節が変わった。過ごしやすい気温から震える寒さに。葉と実を付けていた木は枝だけに。


 冬支度が必要だ――知識としてだけ知っている人々の暮らしを頭の中に思い浮かべる。街に住んでいればあまり必要としないけれど、必要とせずに済むのは別の場所でそれらを準備してくれている人がいるからだ。

 お金を出せばそれらを買える街とは違い、ここにはお金でどうにかなるものなんて一つもない。身一つで捨てられた私はお金を持っていないし、第一お金を払うべき相手すらいない。


 正確な位置は分からないけれど、気候や植物の種類から考えて、このあたりは雪が降る地域のはずだ。だから必要なのは薪と食糧。木の実はもうないから、何か別のものを採ってきて保存しなければならない。

 幸いにもこの頃にはもう川で魚を捕ることも覚えていた。まだうまくできない時はシンの力を借りたけれど、川の水をひっくり返すような彼のやり方は効率が悪すぎたので、罠が作れるようになってからは自力でやっている。


 冬支度のためにいつもよりも多めに罠を作り、いつもよりも少し離れた場所まで向かう。

 そうして罠を仕掛けることに夢中になりながら歩いていると、急に嫌な記憶が頭を駆け巡った。


『ッ……!?』


 どうしていきなり――夢ですら味わわなくなっていた苦痛が全身を襲う。だけどそれは一瞬のことだった。当然だ、ただの記憶なのだから。


 そして、その記憶が戻った理由はすぐに分かった。


『ここって……まさか……』


 私が捨てられた、あの場所の近く。景色もそうだけど、風に僅かに含まれる臭いが私の記憶を呼び起こす。


『ッ、離れなきゃ……!』


 あの日以来近付かないようにしていたのに、どうやら気付かないうちにだいぶ近付いてしまっていたらしい。


 私は慌てて踵を返そうとしたものの、鼓膜を撫でた音にその動きを止めた。


『……誰かいる?』


 今のは人間の悲鳴にも聞こえた。ならば誰かがあの獣に襲われているのだろうか。悲鳴を上げられたということは、まだ生きているのかもしれない。


 ならばまだ、助かるんじゃないか。


『……もう!』


 無意識のうちに私は声の方へと駆け出していた。身体が震えるのに、全身から冷や汗が噴き出していくのに、それでも私の中の良心が私の身体を勝手に動かす。

 行ったところで私にその人を助ける力はない。もしかしたら傷は治せるかもしれないけれど、あんな獣と戦うだなんて想像したことすらない。


 それなのに私の足は止まらなかった。

 似ている景色から見覚えのある景色へ。記憶を刺激する臭いはどんどん強くなって、私の呼吸を奪っていく。


 そうして一分もしないうちに、私はあの場所に着いていた。

 目の前に広がるのは墓場のような光景。無数の朽ちた死体に、唯一動く四足の巨躯。


『ぁ……』


 獣の口から、枷のついた人間の腕が覗く。近くを探せば倒れた男性の姿。こちらに向いた顔は苦痛に満ちていて……けれどその目に光はない。


 間に合わなかった。助けられなかった。また食われた。殺された。


 沸々と身体の奥底から何かが沸き起こる。


『まだ……こんなことを……!』


 彼に罪はあったのだろうか。そしてそれはこんな酷い最期に値するものだったのだろうか。


 何故平然と、こんなことを繰り返せるのか。


 脳裏を過るのは見知った人々の白々しい笑顔。綺麗な服を着て、綺麗な笑顔を浮かべて。その下では私利私欲のために他者をこんなふうに殺していたのかと思うと、全身を一気に煮えたぎるような怒りが包み込む。


『シン――』


 男を食い終わった獣が、その場から去っていく。残ったのは()()()のない頭と、食い散らかされた残骸。

 ()()はただの手段だ。問題はこれをするよう命じた人間の、心根の邪悪さ。


『何? シェルビー』


 シンが不思議そうに私を見る。無邪気なその顔は、これを願った人間と同じもの。


 そんな相手に私は今から、()()()()を願う。


『――私に力を貸して』


 怒りに満ちた声でそう伝えれば、愛らしいローウェン様(シン)の顔が、屈託のない笑みを浮かべた。

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