【Ep2 聖なる魔女と少年冒険者】2-1 堕落に変顔
イグルとの面談から帰ってきてからというもの、本格的に私の聖女としての仕事が始まった。
とはいえただの神官の一人だった頃と基本的には何も変わりはない。毎日教会の掃除から始まり、お祈りをして、癒やしを求める人々と対話する。時に必要であれば神聖魔法を使って浄化をし、その日の出来事を報告書代わりの日誌にまとめる。
変わったことと言えばお祈り以外のお勤めがだいぶ減ったことくらいだ。教会の掃除なんて机やドアノブをちょっと拭くくらいしかしていない。聖女の存在は貴重だから、他の神官でもできることはあまりしなくていいのだ。
こう考えると聖女というのは楽な仕事だなと思う。
魂が清らかというだけで、にこにこする以外にろくな仕事をしなくて良い。男性は同じように神の加護を授かってもこうはいかない。神聖魔法というのは女性の身体を通して放たれることでより効果が上がるとされているから、聖女だけでなくただの神官でさえも女性の方が優遇されるのだ。
「ひまぁ……」
ベールを外してぐでんと自室の机に上半身を委ねる。ここは人の目がないからにこにこしている必要はないし、背筋を真っ直ぐ保つ必要もない。慣れたとはいえ常に体調も悪いから、力を抜ける時は抜いておきたいのだ。
けれど、こんなにのんびりとしていていいのだろうかという罪悪感が胸を過ぎる。
私が聖女になったのは復讐のためだ。聖女としてこの国の中枢に入り込むこともそうだし、ついでに皇族に見初められて求婚されて、彼らが盛り上がってきたところでこっぴどく婚約破棄をしてやりたい。プライドの高い彼らの鼻っ柱をバッキバキに粉砕してやりたい。
そうすれば私を捨てたあの男はさぞ嫌な気分になることだろう。私の元婚約者も両親も、それなりに高齢だが未だ元気に生きている。両親にいたっては九十歳を超えているから結構な有名人になっているようだ。
勿論彼らが生きているのは偶然じゃなくて、わざわざサリに高い代償を払ってその健康を保ってもらっているからだ。事故に遭おうものなら守ってもらい、病に臥そうものならその病を治してもらっている。お陰でちゃりんちゃりんと借金残高が増えていくけれど、これも目的のためだから必要な投資だ。
だって彼らに生きていてもらわなければ、私の復讐は成立しない。
聖女として婚約破棄した後は彼らの悪事を詳らかにしたいと思っているのだ。自分達の利益のためだけに、それまで従順だった少女に数々の罪を着せて殺そうとしたのだと国民に知らしめてやる。
でも正直な話、それだけじゃ物足りない。過去の悪行を晒したところで今のこの国の状態じゃ大したダメージにはならないだろうと予想できてしまうから。
彼らに必要なのは全てを失うこと。全てを失わせるためには、この国のシステムそのものを変える必要がある。
聖女になったのはそれをしやすくするためだ。聖女というだけで国民からの信頼は厚いから、この国のおかしいところを国民にじわじわ気付かせるには都合が良い。
ゆくゆくはクーデターなんかが起こったら理想的だ。でもそんなもの待っていたって起こるわけないから、私は聖女の立場を使ってバレないように皇族やこの国のネガティブキャンペーンをしなければならない。
「がしかし、聖女って意外と動きにくいな……」
先述のとおり聖女になって割と暇になった。だがいつ呼び出されるか分からないため常に待機していなければならない。私以外の聖女は教会の敷地内をにこにこふらふらしていることが多いけれど、私は一回だけそれに参加して以後はこうやって部屋に籠もることが多かった。
何せ彼女らには邪念も欲もない。それらは思考や行動の原動力となるのに、ただあるがままを幸せに享受できる彼女達は物事を深く考えない。
会話を楽しむことはできるようだけど、無垢な魂を持つ肉体から放たれるのは『お花が綺麗ね』だとか、『今日の空はとても青いわね』だとか、『そんなの見れば分かりますが?』ということばかり。何に対しても同じようなことばかりを言うものだから、最初は良くてもだんだんと『なんだこの脳みそが死んだような会話は』と思ってしまって、にこにこ顔を保つのが大変になってしまったのだ。
というわけで私は読書と称して自室に引きこもる生活になってしまった。引きこもっていれば誰の目にも付かないけれど、最近引っ越したこの聖女専用の寮の周りには護衛がいるから出入りが記録されてしまうし、呼ばれた時には必ずいなければならないから身動きが大変取りづらい。ゆえに暇を持て余し机と仲良くなる生活ばかり送っている。
「動きにくいなら魔法を使えばいいのに。お前ならこの部屋と教会の外を繋ぐことも、遠くにいながら訪問者を察知することも可能だろう?」
その声と共に何もなかったはずの空間からふわりとサリが姿を現す。そのまま広い机の上に軽く腰掛けて、未だ机にへばりついたままの私の髪を掬った。
「流石にこんな場所で魔女の魔法は使えないでしょ。神聖魔法以外の痕跡を残したら知られた時に色々と面倒じゃない」
「俺なら証拠を残さずにできるが?」
「……まだ人の借金残高増やそうとしてる?」
サリがにっこりと笑ったのは肯定ということだろう。その腹立たしい美しさに「……その手には乗らないんだから」と額を机に押し付けた。
ひんやりとした天板が熱くなった肌を冷やして気持ち良い。つるりとした机がしっとりと湿ったのは吐息のせいか、それとも熱か。浮かんだ疑問に顔を上げないようにしながら、慌てて袖で机を拭いた。
「ここから出るかどうかは置いといて、何かしらしないと利子は増え続ける一方だぞ?」
「うっ……」
「俺は別にお前の魔力でもいいんだ。教会に入ってから全然魔女の魔法を使ってくれないが、穢れた魂の香りが混ざるお前の魔力がそろそろ恋しい」
低く甘ったるい声でサリが言う。つ、と彼の指が服の上から私の腕をなぞる。前腕から肘へ、肘から二の腕へ。肩まで来たらその丸みを確かめるように指先を這わして、じわじわと誘うように首筋へと向かう。
「折角魔力をもらうなら堕落した香りが強い方がいいな。今のシェルビーの身体が持つのは光の精霊どもが好む味の魔力だから、尚更上質で強い香りが必要なんだ」
サリの指の動きとその言葉に、机に縋りついたままの私の身体がぞわりと疼く。冷やしたはずの顔が、熱くなる。
堕落や穢れの原因は色々あるけれど、今彼が言っているそれは色欲のこと。あらゆる欲の中でも一番手っ取り早く人間を堕とせるのが色欲だそうだ。時と場所も選ばないから尚の事お手軽らしい。人間の三大欲求で、男でも女でも誘惑する側が正しく煽ってやれば簡単に堕ちる――と、以前サリに言われたことを思い出した。
あの時はそんな馬鹿なと挑発に乗ってしまってえらい目に遭った。だから新しい身体では絶対にサリの言葉に乗せられないぞと拳を握り締める。
けれどその拳は既に頼りなかった。手のひらと触れた指の腹が汗で滑り、ぎゅっと握り締めたせいで指先から鼓動の早さが伝わってくる。この身体はまだ女になりきっていないはずなのに、心が、魂が、堕落の味を覚えているのだ。
それらを呼び起こすように首筋を這うサリの指から意識を逸らせない。鎖骨に近付けば喉がごくりと鳴って、耳裏を撫でられれば甘く肌が疼き出す。トクトクと早まる鼓動と共に、呼吸がどんどん浅くなる。……ああ、まずい。
「ッ……マナクリスタルを採ってきます!!」
ガバッと勢いよく上体を上げて、耳近くにあったサリの手を弾き飛ばす。きょとんとした彼は小首を傾げ、「そんな顔で言われてもな」と勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
その言葉に余計に羞恥が込み上がる。恥ずかしさから逃れるように、パシンッと思い切り両頬を手のひらで押し潰した。
「あーらサリってばこんな顔がお好み!? 随分特殊な趣味をしてらっしゃるのね! これからはあなたの前では常にこういう顔をしていましょうか!?」
ぎゅむ、と追いやられた頬の肉が唇を両側から押さえつけて前へと飛び出させる。左右と下から押された鼻は上へと向かい、両目は指と下瞼で潰された。そう、変顔である。
「……皺になるぞ」
呆れたようなサリの声が聞こえるけれど、目が潰れているせいで顔は見えない。うん、これはいいな。顔がちょっぴり痛いけど、サリを萎えさせその顔面からも私を守ってくれる。
しかも頬の赤みだって誤魔化してくれるはずだから、今後困ったら積極的に使っていくことにしようと心に決めた。