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ファム・ファタールの断罪  作者: 丹㑚仁戻
第二章 はじめまして、婚約者様
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【Ep8 聖なる魔女と重なる秘密】8-2 甘い猛毒

 暗く湿った空間に、ぽつりぽつりとろうそくの火が灯っている。周囲の壁が赤いのは、決して火で照らされているせいではない。

 大人がやっとすれ違えるくらいの細い道、その上下左右を赤い煉瓦が覆っているのだ。少し特殊な組み方で積み上げられた壁にはいくつもの穴があって、その穴の多くは塞がれている。

 塞いでいるのは同じく煉瓦だけど、他のものと違うのはそこに文字が掘られていること。たくさんの名前、そして同じような名字――ここはレッドブロックの共同墓地だ。


 レッドブロックの墓地は一人あたりのスペースが煉瓦一つ分よりも小さい。この細い道は入り組んでいて、その道を作る壁の中に故人の遺灰が納められているのだ。

 造りとしてはまるで大きな図書館のよう。あるのは本棚ではなく、遺灰棚と言ったところだろうか。


 湿った、すえた臭い。お世辞にも清潔とは言い難い場所の一角で止まった私は、イグルとの話を思い返していた。


『時間は何も解決してくれませんよ』


 なんであんなこと言っちゃったかなぁと苦笑を浮かべる。お陰で彼と別れたその足でこんなところにまで来てしまった。幼少期を知るイグルに対してはお姉さんぶりたい部分があるのかもしれないけれど、それにしたってこんな言葉、特大ブーメランもいいところだ。


 復讐に身を燃やしていることもそうだけど、それ以上に――煉瓦に刻まれた名前を指でなぞりながら溜息を零した。


「人間は変な生き物だな。こんなものに何の意味がある?」


 いつの間にいたのか、サリが不思議そうに首を傾げる。この墓地には滅多に人はやって来ない。その上入り組んでいて他人と会うことなんてまずないから、サリも堂々と姿を現しているのだろう。


「自分を慰めたいんだよ。故人がここで安らかに眠っていると思える――それだけで救われる人もいる」

「墓は死者のものではないのか」

「どっちもだよ。じゃなきゃここみたく遺灰の欠片と遺髪の一部だけだなんて墓は成り立たない」


 レッドブロックの墓がこんなに小さくて済むのは、故人の全てを納めているわけではないからだ。火葬する前に故人の髪を少しだけもらい、灰になった亡骸のほとんどは水路を使ってルイーズの外へと流される。

 だから煉瓦の奥に納められているのは手のひらサイズの小さな箱、その一つだけ。


「墓は生者を慰めるもの、か……普通の人間ならそれでいいだろう。だがシェルビー、お前は違うんじゃないか? お前はここに魂がないと理解している。他の人間共のように、もしかしたらここで死者と会えるかもしれないだなんて希望は微塵も持っていないはずだ」

「そうだけどさ。なんだろうね……儀式みたいな感じかな。故人のものに触れることでその人を近くに感じられる……まあ、錯覚なんだろうけど」


 ここには魂なんてない。死者の亡骸にしたってほんの一部しかない。それを理解していてもこうして足を運んでしまうのは、やはり私の中にはまだ魔女ではなかった頃の感覚が残っているのだろう。


「前の体で身に付けた習慣か」

「だろうね。これでも昔は神を信じてた」


 自嘲するように言えば、サリが「今は?」と挑発的に笑った。


「分かってて聞いてるでしょ? おかしな話だよね。その存在を実感できるようになったのに、むしろ信用できないと思う気持ちの方が強くなってるんだから」


 私の魂は神の加護で守られている。それなのに、私の心は神を信じられないでいる。


「そんなものだろう。自分の理想を押し付けることができるのは、そいつにとって相手が存在しないうちだけだ」

「そういう身も蓋もないこと言う……」


 それでは大抵の人間が理想を押し付けていることになってしまうではないか、と顔を顰めると、不意にサリが煉瓦に刻まれた名前を私と同じように指でなぞった。


「人間は仮初めの母親でも大事に思うものなのか?」


 アリアドネ・ロロ――私達がなぞった名前だ。私のこの体が持つ神聖魔法の適正は彼女から引き継いだもの。彼女は私を、シェルビー・ハートをこの世に産み落とした人。


 そして、私が巻き込んでしまった人。


「自分を産み育ててくれた人を仮初めとは言わないよ」

「言うだろう。お前の本当の母親はまだ生きているし、アリアドネもお前が前世の記憶を持っていると()()()()()()

「でも育ててくれたことには変わりないでしょ。私覚えてるもん、おむつの処理とかしてもらったの……最初は何の拷問かなって思ったけど」


 前世の記憶を持ったまま生まれ変わったと言っても、生まれた当初の肉体は間違いなく赤ん坊だった。私がどれだけ理性で制御しようとしても、この身体はそれに反して実に赤ん坊らしく振る舞ってくれた。

 意識ははっきりしているのに身体が全然言うことを聞いてくれないものだから、慣れるまではとても……かなり屈辱にも似た感情を味わったものだ。


「あれは愉快だったな。赤ん坊の欲求と大人の理性がせめぎ合ってお前はいつも泣き喚いていた」

「……見てたんならどうにかしてくれてもよかったのに。母さんに姿を見せられないからって本当に何もしてくれなかったし」


 じっとりとした目で睨みつければ、サリはそれはもう綺麗な、けれど含みのある笑みを浮かべた。


「今見せているだろう?」

「ここに何の価値も見出していない人が何言ってるの」

「お前もそうじゃないか。少なくともここには誰もいないと知っている」


 すっとお腹にサリの手が回される。隣にいた彼は私の後ろに少しずれて、シエルとして顔を隠すのに使っているマフラーと肌の間に自分の顔を埋めた。


「ちょっと、何してるの。流石に不謹慎だよ」

「少し落ち込んでいるだろう? 僅かだが穢れがいつもより強くなっている」

「そこは慰めてくれるところでしょ」

「そんな無駄なことはしない。慰めたらお前の魂が癒やされる」

「……ああそう」


 あまりに彼らしいその発言に私の肩から力が抜けた。穢れが強くなっているということは魂の匂いでも嗅いでいるのだろう。となるとこれは動物が懐いているようなものだから、なんだか今されていることもどうでもよくなってくる。


 なんて考えながらぼうっとしていると、サリが唇を動かす気配がした。


「――アリアドネの死に責任を感じているのか?」


 突然の問いに身体がギクリと強張る。止まってしまった呼吸を元に戻そうとして、けれど吸うべきか吐きべきか分からなくなって何もできない。


「図星だな」


 耳元でサリが楽しそうに笑う。その声に腹立たしさを感じると同時に、何故だか息苦しさはなくなった。


「……ここぞとばかりに人の気持ち落とそうとしてるでしょ?」

「勿論。憎しみも素晴らしいが、悲しみと自責感もなかなか穢れの質を高めてくれる」

「ッ――」


 その瞬間、私は咄嗟にサリの腕から抜け出していた。くるりと後ろを振り返り、背中に()()()()()()()()()相手を睨みつける。


「私の憎しみと母さんは関係ない。そんなものにまで踏み込んでこないで」


 低い声が出た。それこそシェルビー・ハートになってから初めて聞くくらいの。


 今、こんな声は出したくない。


 だってここは母さんのお墓。彼女を思わせる声で、こんなにも真っ黒な声なんて出したくない。


 母さんは()()()()()()()()。私が魔女であることも、前世の記憶を持っていることも。そんな母さんを騙し続けて死を招いてしまったのは私なのに、こんな声で彼女を貶めたくない。

 それなのにサリは笑みを深めるだけ。私がどう思っているか分かっているはずなのに、この男はそれすらも愉しんでいる。


「関係あるさ。お前が生まれ変わることを望んだからアリアドネはお前を産んだ。お前を産んだからアリアドネはレッドブロックに追いやられた。お前を育てなければならないから治安の悪い場所に出入りし、そして――」


 やめて。それ以上言わないで。


「――死んだんだよ。暴漢に襲われてな」

「ッ、サリ!!」


 自分の顔が歪んでいるのが分かった。この力の入り方は知っている。胸の内から溢れ出た憎悪が形となった、醜い顔。

 母さんと瓜二つのこの顔が、母さんとは似ても似つかぬ表情をしているのだ。


 それはまるで私が彼女を飲み込むように。無関係だった彼女を巻き込み、死なせてしまったのだと示すように――煉瓦の壁に触れた背中が、冷たい。


「ほら、自責感はお前の怒りと憎しみを増幅してくれる。お前の負の感情は結局そこに行き着くんだよ、シェルビー。人間は悲しみを美化し憎しみを厭うが、俺からすればどちらも大して変わらない。怨嗟の名を持つお前にとってもそれは同じだ」


 サリの体温を持たない指が私の顎を上げる。どれだけ必死に睨みつけても、血色(ちいろ)の瞳に映る私の姿は滑稽に見えた。

 どんな犠牲を払っても復讐を果たすと決めたのに。他の誰かは良くて、母さんだけは駄目だと思ってしまう愚かな私を鮮明に映し出す。


「受け入れろ、シェルビー。お前のその悲しみは、自責の念は、お前を裏切った者達のせいでもたらされたものだ。奴らがお前を裏切らなければお前とアリアドネが関わることはなかった。そうだろう?」

「それくらい分かってる。だけどッ――」


 反論しようと開いた口がサリに塞がれる。発しようとした言葉を嘘だと断ずるように舌に噛み付き、責め立て、どれだけ逃げても執拗に追いかけてくる。

 息ができない。かと言って顔を背けることすら許されない。どんどん苦しくなっていくのに、サリは私を解放してくれない。


 やっと唇が離れたのは私が音を上げたから。わざと呼吸を妨げられたせいで完全に酸欠になって、一瞬意識が遠のいたからだった。


「何、考えて……っ……」


 大きく呼吸を繰り返しながらサリを睨みつける。酸素が足りていなかったせいで虚脱感が全身を襲う。

 こんなの、首を絞められたのと同じだ。サリにとっては所詮人間の行為の真似事だから、何のためにするのか、どのくらい加減しなければ人間は本気で苦しむのか全く分かっていない。


「俺はお前を楽にしてやろうとしているんだよ」

「は……?」


 予想していなかった言葉に思わず声が零れる。サリは珍しく真顔のまま私を見ていて、そのせいか目の前にいるのが()()()()()のように思えてしまう。


「お前が今苦しんでいるのはお前のせいじゃない。アリアドネが死んだのもお前のせいじゃない。確かにお前が関わっているが、そうしなければならなかったのはお前を裏切った奴らのせいだ。悪いのは全部シェルビーではなくあいつら……違うか?」

「そんな、責任転嫁みたいなこと……!」


 淡々と言ってくるサリに否定の言葉を口にすれば、相変わらず彼は真顔のまま、「何を今更」と私の顔の両脇に手をついた。


「ならお前は自分に責任を求めるのか? 不要と判断されたのも、多くの罪を着せられたのも、獣に生きたまま食われたのも、全部お前が悪かったと?」


 僅かに語気は強まったのに、覆い被さるように私を見てくるサリの表情は変わらない。


「確かにそうだ、お前は務めを果たすことばかりに集中して周りの変化に気付くのが遅れた。男の気持ちが自分から離れていることも、周囲が新たな聖女の誕生に色めきだっていたことにも気付かずに、お前は日々理想の皇后の姿を追うことしかしていなかった」

「あ……」


 真っ黒な悪魔が私を覆う。血と同じ真っ赤な目が、私を責める。


「お前の目指した姿は多くの人間にとっての神と同じ、ただの偶像だ。理想を押し付けられたそれは人間じゃない、何の価値もない虚構だ。お前の苦しみは自業自得だよ。お前はそんな簡単なことにすら気付けない間抜けで、愚鈍な――」

「ッもうやめて!!」


 耐えきれなくなって慌ててサリから目を逸らした。途端、ぽろぽろと目から涙が零れ落ちる。それで自分が泣いているのだと気付いたけれど、そんなことを気にしている余裕なんて私にはなかった。

 両手で耳を塞ぎ、俯いたまま彼の衣服の装飾を見つめる。滲んだ視界に入るのはそれ以外、黒。逃げ場なんてないんだと言われているようで、どんどん全身が恐怖に飲み込まれていくような気がした。


 だって、私のせいなら。全部私が悪かったのなら。誰かを憎むことも、そのために生きることも、全てが無意味だったということになってしまう。生きている意味が、価値が、まるごと否定されてしまう。


「分かっ……分かったから……! 私、が……私が悪かった……」


 必死に出した声は震えていた。こんなの初めてだ。こんなにもこの場にいたくないと、サリから逃げ出したいと思うなんて今まで一度もなかったのに。


「違うよ、シェルビー。お前は悪くない」


 不意にいつものサリの声が聞こえてきて、私はおずおずと顔を上げた。そこにあったのはサリの綺麗な顔。さっきまでの真顔じゃなくて、優しく微笑んだ怖くない顔。


「お前は努力していた。男の前では可憐であろうとし、それ以外の者達には頼れる人物であろうと努めていたじゃないか」


 まるで見ていたかのように話すサリの言葉を聞いていると、だんだんと身体の力が抜けていくのが分かった。

 彼が当時の私のことを知っているはずはない。だけど、彼ならきっとなんでも知っているのだろう――思考を放棄した私の頭は矛盾すら全て都合良く捉えて、耳に押し当てていた手をゆっくりとそこから離していく。


「お前の努力も男への愛情も尊いものなのに、奴らはそれを当たり前のものだと思ってしまった。だから価値を忘れてしまった。奴らがお前にあんなに酷いことをしたのは、頭のどこかではそれに気付いていたからだろう。だからお前を恨み、虐げる理由を欲した。けれど見つからなかったから他人の罪をお前になすり付けた。ほら、シェルビーは悪くないじゃないか」

「……本当、に?」

「ああ、本当だ。お前が辛いのはそれだけ努力していたからだろう? そのお前の気持ちを、奴らは踏みにじったんだ」


 サリの両手が私の頬を包む。その親指で私の頬から涙を拭えば、湿った跡が空気に冷やされた。


「恨んでいい。憎んでいい。お前にはその資格がある」


 真っ赤な目は、もう血色には見えなかった。宝石のように混じりけのない赤は私の心を吸い込んで、恐怖を、自責を、真っ黒に塗り替えていく。


「シェルビー。アリアドネは誰のせいで死んだ?」


 サリが優しく微笑う。私の中に、憎しみが蘇る。


「……あいつらのせい。あいつらがいなければ、母さんは私を産まなかった。私を産まなければ母さんは今もどこかで生きていた……!」


 もう背中に母さんは感じなかった。感じるのは燃えるように激しい憎悪と、私の頬に触れるサリの指の感触だけ。


「そうだよ、シェルビー。全部奴らのせいだ」


 気付いたらサリの胸にしがみついていた。背中をサリの手が優しく撫でれば、もっと強く頬を押し当てて。

 温かさも呼吸音もない胸にそのまま飲み込まれそうになる錯覚を抱きながら、サリが微笑む気配だけを感じていた。

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