【Ep1 聖なる魔女と黒い悪魔】1-2 喉元の愚者
『シェルビー・スターフィールドを国外追放とする』
その瞬間、聴衆からはどっと歓声が湧き上がった。
そこは法廷とは名ばかりの演劇場。弁護人すら私に選ぶ権利はなく、ただただ私じゃない誰かの犯した罪が私のものになるのを見ていることしかできなかった。
『哀れなシェルビー・スターフィールド、お前が犯行時悪魔に取り憑かれていたことは確認が取れている。本来は斬首であるべきだが、一時は私の婚約者だった身――その頃の働きに免じて国外追放で済むのだ、大人しく受け入れよ』
演技がかった口調で言うのはガエリアの皇太子。彼の言葉に聴衆は感動したとばかりの声を上げ、器の大きさにおめおめと泣き出す者さえいた。
『……御慈悲を賜り感謝いたします』
それ以外何も言えなかった。何も言う気にならなかった。
この国は腐っている。
私は皇太子の婚約者として、これまでたゆまぬ努力をしてきたと自負している。嘘の理由でも私の働きを引き合いに出せるのはそういうことだ。私だけの思い込みでなく、周りもまた私の努力を認めてくれていたのだろう。
しかしその仕打ちがこれだ。
新たな聖女が現れたから。その聖女を妻にしたいから。だから邪魔となった私に数々の罪を着せ、私だけが悪者なるようなシナリオでこの男は、この国は、私を自分達の縄張りから追い出すのだ。
演者は皇族と貴族。観衆は国民。私は舞台の上に置かれたただの人形。
命も持たない道具がどれだけ声を上げようとも、誰にもその声を聞いてもらえるはずがない。私はただ着せ替えられるままにその衣装を身に着けるだけ。たとえそれが一級品のドレスから道化のような衣装になったところで、私は文句を言うことすらできないのだ。
教会と結びつきの強いこの国の皇族は、聖女を妻に迎えることで支配力を強められると考えている。だが聖女は数が少ない。一年で数人現れる時もあるが、何年も現れないことだって珍しくはない。
更に皇帝や皇太子の妻として問題のない出自と容姿、そして年齢といった条件を満たせるのはごく僅か。しかもその時教会にいる聖女の数が少なすぎれば教会側が手放さないため、いくら皇族であっても聖女を一族に入れるのは並大抵のことではないのだ。
だから皇族は、急に現れたすべての条件を満たす聖女を皇太子の妻としたかった。貴族達はそれに貢献し名前を売りたかった。
それは私を守ってくれるはずの両親も同じ。ただ娘が罪を犯すよりも、悪魔に取り憑かれたがゆえの凶行とすれば家名につく傷は引っかき傷程度で済む。
〝皇太子の婚約者、シェルビー・スターフィールドは不運にも悪魔に取り憑かれた。彼女にも未来の皇后たる重責があったのだろう。しかしどんな事情があれど、悪魔を呼び寄せたシェルビーはもはや魔女。愛情深い両親の献身的な支えによって彼女に憑いた悪魔は払われたが、その心根までは直せない。たとえただの人間に戻っているとしても、数多の罪を犯した罪人をこの国に置いておくことは国民の安全に関わるのだ――〟
このシナリオで悪者になるのは悪魔を呼び寄せた私だけ。勿論当時の私は魔女ではないし、悪魔に取り憑かれてもいない。悪魔に縋ろうと思ったことすらない。
だけどそんなことはどうでもいいのだ。実際に起こったことではなく、彼らの考えたこのシナリオこそが事実になるのだから。
そうして両親は悪魔に憑かれた娘を見捨てなかったとして国民の人気を得る。皇太子は適切に罪の所在を判断し、温情をもかける人格者として国民の信を得る。
法廷を出る私を見送る者はいなかった。国民は上気した様子で皇族を讃え、両親はその後ろで涙ぐむパフォーマンス。
愚かな国民。もし本当に彼らが褒め称えられるような人格者ならば、どうして森の奥へと放り出された私は裸足なの。どうして腕には手錠が付いたままなの。どうして――
どうして周りを、餓えた獣に囲まれているの。
§ § §
「ひっっっさびさに、嫌な夢見たぁ……」
逃げるように起き上がってベッドの上で胸を押さえる。長い金髪ごと掴んでしまったけれど、その痛みすら今は気にならない。
暴れる鼓動は何を伝えたいのだろう。絶望した時の心臓は意外と落ち着いているものだ。だからこれはその感情のせいじゃないと思うのに、夢の内容を追おうとすると更にもがいて私の息を荒くさせる。
「良い怒りだ。魂に触れたせいで古い記憶が刺激されたかな」
真っ暗な部屋。カーテンの隙間から漏れる月明かりは逆光なのに、窓の前に佇むサリがニヤリと笑ったのが分かった。
ここは教会にほど近い、聖職者達の住まう寮。寮とはいえ教会と同じように浄化されているから、本来であれば悪魔を拒む。現に魔女である私の体調だって万全とは言えない。教会にいる時よりはマシだけれど、この身体から倦怠感が取れることはない。
そんな場所にサリが当然のようにいるのは私が招いたからだ。勿論寝室に招いたという意味ではなくて、神聖な空間に悪魔である彼が立ち入ることを許可したという意味。
普段は好きなところにいるサリが私の寝室にいるのは悪夢の気配を察知したからだろう。悪魔であるこの男は私の魂の穢れを好む。わざわざ見に来るくらいだから、私が自覚している以上に夢見が悪かったのかもしれない。
「うぇ……やめてよ。今日からは聖女としてにこにこしてなきゃならないのに」
純白の魂はその者の性格に滲み出る。神に穢れのなさを認められた他の聖女達は、いつ見ても顔に穏やかな笑みを浮かべていた。無理矢理作ったものではない、心からの笑みだ。
彼女らは欲がなく、他者に尽くす。後学のために何度か罠を仕掛けたことがあるが、どんな時も聖女達は「あらあら」と笑うだけで決して汚い感情は見せなかった。
「やっぱ教会の入り口に馬糞置いただけじゃ弱かったかな……」
「お前はそれを見て叫ばない自信があるのか?」
「ないね。……でもやってやろうじゃん」
偽りの聖女である私は、今日から鉄壁の笑顔を顔に塗りたくらなければならない。たとえ教会の前に馬糞の山があろうが、スープにコルクの輪切りが入っていようが、周りの目がある限り笑顔を絶やしてはならないのだ。
でも大丈夫、私はこれでも元皇太子の婚約者。未来の皇后としての教育は幼い頃から徹底的に受けてきた。
帝国の広告塔である皇后は常に美しくあらねばならない。それは容姿の造形だけでなく言動や立ち居振る舞い、それこそ表情筋の一つ一つや指先の動きまで完全に制御してこそ得られる美。魂の奥にまで染み込んだ能力は、肉体を乗り換えたといえども決して消えることはない。
「だいたいあの時より酷い目に遭うなんてそうそうないでしょ? だったら平気。裏切られる絶望も死への恐怖も、もうとっくに経験したもの」
信じていた婚約者も両親も簡単に私を切り捨てた。そうと分かった時の感情は絶望だなんて言葉だけでは到底言い表せない。
それに追放された後だってそうだ。温情での国外追放なんてのはただの耳障りの良い建前で、実際は処刑だったのだから。
私が放り出された場所には無数の人間の骨が散らばっていて、その損壊具合から何かに襲われたのだと嫌でも分かった。その何かの正体だって、疑問に思うよりも先に向こうから現れてくれた。そこまで分かってしまえば自分があの場所に連れて来られた理由なんて考えるまでもない。
斬首や絞首であれば、まだ人としての尊厳が保たれる。短時間で与えられる死は苦しみを最小限に。姿だって生前とほとんど変わらない。
だけど獣に食わせることは違う。生きたままのそれはまさしく生き地獄。下手に抵抗が成功しようものなら尚更だ。自分が食われる音に絶望し、激痛に苦しみながらも中々命を落とすことはできない。
私だってあの時、悪魔に願いが届かなかったら――そう考えると今でも身体が震える。代償は取られるにしても、契約自体は守ってくれるのだから悪魔の方がよっぽど良心的だ。……サリは別だけど。
「なんだ」
私の視線に気付いたらしいサリが首を傾げる。絶世の美男子とも言える容姿を持つこの男は、これまで出会ったどの悪魔よりも悪魔らしい私の債権者だ。言い方を変えれば取り立て屋。しかも悪徳。良心的という言葉からはかけ離れている。
「いや、なんでサリの部下は優しいのにサリ本人は性格悪いんだろうって」
獣に食われ絶命寸前だった私を救ってくれた悪魔はサリの配下だった。勿論親切で救ってくれたわけじゃないし代償もきっちり請求されたけれど、私にとっては命の恩人と変わらない。
「悪魔がなんで人の姿を取れるか知ってるか?」
サリが薄い笑みを浮かべながら私に近付いてくる。悪魔としての気配は完全に隠れているはずなのに、彼の後ろに黒い淀みが見える気がする。
ベッドまで来たサリは当然のようにそこに腰掛けた。均整の取れた長い指で私の顎をついと持ち上げ、口付けんばかりにその顔を私の鼻先まで寄せる。彼の肩から流れた長い髪が、私の胸の上にさらりとかかる。黒いそれが一本一本私の金糸を犯していって、お腹のあたりで完全に混ざり合った。
「悪魔が人に化けるのは人間を油断させるためだ。油断させて、理性に抑圧された欲望を曝け出させる。そして俺達はより欲深いそれを叶える。別に姿だけの話じゃない。要はいかに悪魔の力を切望させるか――あの時の俺の部下も、シェルビーの求めたものを与えただけだ」
言いながら、サリは私の下唇を親指でなぞった。いちいち誘惑するような仕草をするのは彼が悪魔だからだ。私を堕落させるために、彼は私を思い通りの方へと誘おうとする。
仕草だけでなく、この容姿だって私の好みを反映したものらしい。その顔を私に見せびらかすようにうんと近付けて、妖艶に微笑んで。少しでも彼に男を求めれば、私の負け。
「……油断させたいならずっと求めたとおりでいてよ」
「緩急が大事なんだ。ずっと甘やかすのもいいが、焦がれる時間だって欲望を育ててくれる。ほら、人間の言葉にも面白い言い回しがあったろう? なんだったかな……ああ、そうだ」
赤い瞳が私を挑発する。顎付近にあった指がするりと下へと伸びて、私の首を撫で上げる。全身に走った甘い感覚が、私の口から吐息を一つ押し出した。
「釣った魚に餌はやらない」
説得力がないと思ってしまったのは、きっとただの気の迷いだ。