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ファム・ファタールの断罪  作者: 丹㑚仁戻
第二章 はじめまして、婚約者様
22/111

【Ep5 聖なる魔女と純白の魔術師】5-1 怨嗟の魔女

 磨き上げられた大理石の床が私を見上げる。

 庶民の家が丸々入ってしまいそうなくらいに広い部屋。真っ白の壁は細やかな彫刻によって装飾され、部屋の奥に飾られた一枚の大きな絵へと人の目を誘導する。

 描かれているのはリュカ・エイハム・ガエリア。ガエリア帝国初代皇帝で、帝都リュカ・エイハムの名の由来となった人。


 その絵の前に立つのは気品漂う中年の男性。ガエリア皇太子ルーファスだ。宰相イグルから名前を呼ばれた私はそれまでいた位置から進み出て、皇太子の前へと歩いていった。


「聖女シェルビー・ハート、このたびのあなたの貢献に感謝します」


 人好きのしそうな笑みを浮かべる皇太子に、私もまたにっこりと笑顔を返した。



 § § §



 宮殿から教会区域にある自分の部屋に戻ってきた私は、乱暴にベールを毟り取ってベッドに腰を下ろした。

 周りには疲れていると伝えておいたから今日は誰も訪問してこないだろう。たとえ誰か来たって、聖女が体調不良を訴えれば大抵の人間は引き下がらざるを得ない。


 顔を覆うようにして当てていた両手には、いつの間にか輪郭が崩れてしまうのではというくらいの力が入っていた。別に顔をどうこうしたいわけじゃない。勝手に力が入ってしまうのだ。それだけこの胸を掻き毟るような不快感は強く、嬲るように私の気持ちを痛めつける。


「ッなんでいるの……!」


 瞼の裏に浮かんだ人影が、私の心をぎりぎりと締め付けていた。


 私が今日宮殿へと赴いたのは、先日の盗賊の一件で私の聖女としての力が評価されたからだ。病に苦しみ、蛮行に走っていた彼らを癒やし改心させた――それが世間の知る私の働き。だから国が私に謝意を伝えたいという名目で呼ばれ、国からは代表して皇太子があの場に現れた。

 彼が来ることは今回の件を聞いた時にイグルから伝えられていたことだったから、別になんとも思わなかった。現皇帝は高齢だから、この程度の場であれば皇太子が代理で来るなんてよくあること。

 むしろ初めて顔を合わせたルーファスに対しては少し申し訳なさすらあった。だって私が皇帝を長生きさせているから、彼はまだしばらくは皇太子のまま。更に私の復讐が完遂した暁には、当時生まれてすらいなかった彼の立場もまた悪くなるだろう。

 でも、それだけ。それ以上は何も感じていなかったのに、帰る時にそれは起こった。


『ああ、シェルビー様。あちらに皇帝陛下がお見えですよ』


 不意に私を送ろうとしていたイグルが言った。彼の示す方を見れば、出てきたばかりの宮殿の一室から二人の人物がこちらに手を振っているところだった。


『ッ……――!』


 現皇帝ローウェン=リーと、皇后トリスアラナ。その姿を見た瞬間、身体中の血が沸騰するかのような錯覚を覚えた。


『健康上の理由とはいえ、陛下もあなたには会いたがられていました。ああして顔を出してくださるとはそれだけお気持ちが強いということでしょう』


 イグルの声が遠い。身体の奥底から憎悪が滲み出る。

 本当はその感情のままに飛びかかってあの男を手にかけたかった。当時は持たなかった魔女の力があれば護衛だって退けられる。そうしてあの男と二人きりになって、私がシェルビー・スターフィールドだと明かしてやって、驚くあの男にかつて私があの森で獣に食われかけた時と同じくらいの苦しみを与えてやりたかった。

 だけどその時、冷静な私が背後で妖しく微笑んだのだ。


 ――それだけでいいの?


 悪魔と契約することで生まれた、私の中の魔性が問いかけてくる。一時的な苦しみなんて生ぬるい。苦しんで、悔いて、悔いて悔いて悔いて――それでもどうにもならないという現実を突きつけてこそ私の復讐は成功と言えるのだと、怨嗟の魔女が高らかに笑う。


 なんて、まるで別人のように感じるけれど分かっている。

 怨嗟の魔女は私自身。この身の内の魔性は私の特性。つまりこれは間違いなく私の声で、私の望みで――そう考えがまとまると、少し前まで煮えたぎりそうだった血液がゆるやかにその温度を下げていくのが分かった。


『まあ! なんて嬉しいことでしょう。陛下達がそのように思ってくださるだなんて身に余る光栄ですわ』


 一つ高い声で発したのはイグルの期待していた言葉。顔にはとびきりの笑顔を貼り付けて。

 そうして宮殿を後にした私は、聖女として完璧な振る舞いをしながらこの部屋まで帰ってきた。


 そして、魔法が解けた。


 聖女の笑みは禍々しい魔女のそれへと変わり、沸々と湧き上がる憎悪と怒りが血流と共に全身を巡ってこの顔を歪めていく。

 いくら自分でその命を長らえさせているとはいえ、今ものうのうと生きているだなんて腹立たしい。皇后にはそんなことしていないけれど、聖女だという彼女もまた神の加護を持っているからか、皇帝よりもずっと若々しく元気そうに見えた。


 本当だったらあそこにいたのは私だったのに――だなんて羨望は抱かなかった。聖女なんて所詮国のお飾り。何事も深く考えない彼女らは、五十年前の出来事だってなんとも思っていないのだろう。

 当事者である皇后もきっとそれは同じ。私が自分の存在のせいで周りに裏切られただなんて微塵も考えていないはずだ。きっと悪さをした人間が処分されただけで、自分とは全く関係ないと思っているに決まっている。


「聖女なんて……!」


 聖女だからあんなに美しくいられるのだろうか。誰にも怒らず、憎しみを抱かず、そうして清らかな心が外見へと影響して、あんなふうに穏やかに笑っていられるのだろうか。

 かつて一度だけ見た皇后の姿が脳裏に蘇る。それはまだ少女だった頃のトリスアラナ。にこにこと聖女らしい笑顔を浮かべた彼女は、確か傍らに従者を連れていたはずだ。きっとあの頃にはもう、彼女が当時の皇太子の――私の元婚約者の妻となることが決まっていたのだろう。でなければただの聖女が従者なんて連れているはずがない。


 彼女の従者は随分綺麗な顔立ちをした男だった。覚えているのは彼の見事な金髪のせい。この国の貴族は金髪と銀髪を好む。我が子にそれを与えるために、髪色を配偶者選びの最優先事項とする者だって多い。だからあの美しい金色の髪は、男が貴族かもしれないと私に思わせるには十分だった。

 だから、目に留まった。貴族の男を従者にした聖女などトリスアラナ以外にいなかったから。だけどあの頃の私はまだ、それにどんな意味があるかだなんて知らなかった。


 まさかその後自分に全く覚えのない罪の数々が着せられることになるだなんて。自分の過去があんなに簡単に書き換えられてしまうだなんて。そんなこと、十七の子供に分かるわけがない。


「――随分と魅力的な雰囲気を纏っているな、シェルビー。一体何がお前をそんなに飾ってくれているんだ?」


 部屋の影からサリが現れる。サリなら私が何故こんな気持ちになっているかだなんてどこかから見て知っているだろうに、いちいち聞くのは私のこの感情を膨らませたいからだ。


「今あなたの戯れ言に付き合ってる気分じゃないの」

「知ってる。だから来たんだ」


 サリは当たり前のようにベッドの隣に腰掛けて、私の顎をクイと持ち上げてきた。

 赤い瞳が愉悦を滲ませながら私を見る。そこに映る私は酷く目つきの悪い顔をしていて、その醜悪な姿に乾いた笑みが零れた。


「なあに? もっと気分を悪くさせてくれるの?」


 皮肉るように言えば、赤い瞳の中で魔女が醜く笑った。

 きっとサリは私を煽りたいのだろう。この気持ちを暗く沈ませて、真っ暗な水底の奥の奥まで押し込みたいのだ。底なし沼のようなそこでは私はろくに身動きなんて取れず、息をしようともがけばもがくほど暗く昏い方へと堕ちていく。

 そうして呼吸を忘れた時が、この魂が黒く染まりきった合図。まだ支払っていない代償を全てなかったことにできるくらいに堕ちたとサリが判断したら、私の命はそこで終わるのだ。

 それはきっと安らかな死とは程遠く。言葉では到底言い表せないほど不快で、苦痛を伴う死となるはずだ。


「それも良いけどな。今は少し愉しいことでもしようか」

「たのしい……?」


 言われている意味が分からなくて聞き返せば、サリはゆっくりとその顔を私の耳元へと寄せてきた。そうして勿体付けるように()()()()()空気を吸い込んで、低く、けれど笑うような声で私の鼓膜を撫で付ける。


「今のお前の魔力なら、それなりに利子を払えるぞ」


 まるで重低音を聞いた時のように、声が直接腹の奥に落ちてくるようだった。それなのに不快感は全くなくて、代わりに甘いざわめきが身体に走る。


「……魔法を使えって? 悪いけど、今はシエルの振りをする気分でもないの」

「とぼけるなよ。ただ魔法を介したところで利子は減らない。魔力だけを渡すには何が必要か――分かっているだろう?」


 ギシ、とベッドが軋む。顎に触れたままだったサリの指先に力がこもる。


「何を……――」

「いつもは嫌がるが、今日のお前は俺を拒めるほど白くはないはずだ」


 耳元にあったはずのサリの唇が、私のそれを乱暴に覆った。全身が硬直したのは驚いた――からではない。私はこうされることを知っていた。知っていて、サリの言うように拒まなかったのだ。


 魔力を渡すだけなら直接触れさえすればいい。それこそ手を繋ぐだけだって十分。それでも今まで拒んできたのは、サリがより私を堕とそうとこうして触れてくると分かっていたからだ。

 だから今だってサリが何をするか分かっていた。それなのに身体が動かなかったのは、私も求めてしまっているからだろう。サリの手が私の後頭部に回った頃にはこの手もまた彼の服を掴んでいて、口内を侵される甘さを追いかけながら、自分の身体の中から少しずつ魔力が抜けていく感覚に酔いしれていた。


 こんなの、本当に魔女じゃないか。


 悪魔に絆されるままこの身を堕とし、皮膚の下を駆け巡る悦びに身を委ねて。普段の私ならこんなこと決して許さないのに、もっともっとと求めてしまうのは魂に巣食う魔性のせい。


 だなんて。


 その魔性もまた私自身だと。別人のように切り離そうとしたところで、私の一部だと嗤ったのはついさっきのことなのに。

 だけどこのままサリの導くままに堕ちていけば、もう楽になれるかもしれないと思う私もいて。


 サリならきっと私以上に私を裏切った奴らを苦しめる方法を知っている。私がこの身を差し出せば、彼は喜んでそれを教えてくれるだろう。

 だからもう、いちいち彼を拒まなくてもいいのかもしれない。快楽に悦んでいるのは身体だけじゃなくて、私の心もそうだから。たとえこの穢れを味わうためだとしても、彼が人間の男として私に触れているのは紛れもない事実だから。

 彼に溺れ、彼に言われるがままに復讐をしていけば――


「――それじゃ駄目!!」


 頭に浮かんだ考えに、私は慌ててサリを押し返した。

 サリが驚いたように私を見ている。静かな部屋にぜえぜえと響くのは私の乱れた呼吸。吸い込む空気の冷たさが、私の身体の熱さを物語る。


「あと少しだったんだがな」

「ッやっぱりそうなんだ! サリ、私に何かしたでしょ!?」


 いくら気分が落ち込んでいるからってあんな簡単に流されるのはおかしい。そう思ってサリを睨みつければ、彼は「大したことはしていないさ」と肩を竦めた。


「ほんの少し魂に語りかけてやっただけだ。とはいえ俺が誘導したのは方向性だけで、後は勝手にシェルビーが堕ちていったんだから何かしたってほどでもない」

「誘導してるじゃん! 第一あんなの駄目に決まってるでしょ!? 私の復讐なのにサリに任せるようなこと……!」


 そうだ、復讐は私の手で果たしてこそ意味がある。たとえサリの方がうまく相手を苦しめられるのだとしても、悪魔に頼り切ったそれはただの拷問だ。

 サリだって長年の付き合いで私が嫌う考え方だと分かっているはずなのに、そんな方へと誘導するなんて――より目に力を込めれば、満足そうに微笑む相手と目が合った。


「それでこそ俺の魔女だ。その固い意志がお前の魅力だよ、シェルビー」

「……私のこと試そうとしたの?」

「いいや? あれでお前が堕ちたら俺の腕の証明にもなると思ってな。言っただろう? 愉しいことでもしようって」

「……サリにとっての〝愉しいこと〟だったの」

「他に何がある?」


 赤い目を細めてサリが妖艶に微笑う。サラリと綺麗な黒髪がその肩から落ちたのに、私の目はそれを追わず彼の唇に縫い付けられたまま。

 見てはいけないと、頭の中で何度も言い聞かせる。だけどそう思えば思うほどさっきの感覚が私の唇にも蘇って、余計に目がそこに囚われていくようだった。


 にぃ、と形の良い唇が弧を描く。薄く開いた唇の隙間から舌が一瞬だけ見えて、「シェルビー」と低い声が私の肩をびくりと揺らした。


「また今度遊ぼうか」


 そう言って挑発的な目を向けていたサリはきっと分かっている。見透かされたという直感に羞恥が掻き立てられて、私は誤魔化すように「ッ絶対嫌!!」と声を張り上げた。

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